堺風の頭部

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宇陀と秋山氏について

  北海道の道央・道北・道東・道南は本州人と道民でイメージするところが違う、というネタに対し、元奈良県民の私が、奈良県の北和・中和・南和も多分他所の人のイメージはズレるやろ、と思ったので、調べてみたのが上のツイート。
 普通は西和もあるのにうっかり忘れてるあたり、しょせん私はちょっと奈良に住んだことがあるだけのエセ県民だったようだ……。

 

 それはさておき、宇陀地方の扱いが気になる。どうも「大和」から外れ気味な扱いらしい。
 律令制のころから大和国に含まれていたんだけれど、やっぱりまあ、山の向こうっていう感じがあるのかな。

 また、宇陀を治めていた秋山直国という人の話を、歴史にやたら詳しい友人に教えてもらって、どういう人なんだろうかと少し調べてみた。うぃきぺとかだけど。

 

かつては阿騎野と呼ばれた

 宇陀をうぃきぺで引いてみると、かつては阿騎野と呼ばれたという。宮廷の狩猟場だったそうで、平城京から馬を飛ばして狩りに来る土地っぽいネーミング。あるいは野生馬でもおったのだろうか?
 柿本人麻呂が万葉歌を詠んだというから、風光明媚なところでもあったのかな。

 奈良時代空海が唐から持ち帰った茶を初めて栽培したのも宇陀だそう。仏隆寺という空海の弟子が創建したお寺が、大和茶発祥の地とされていると。

 それから、室生寺が宇陀の名刹。女人高野とも呼ばれる。

 

 飛鳥に都があった頃には、東海道は宇陀から東に行くルートだったそう。飛鳥から宇陀へは、まっすぐ東に山を越え、宇陀から現在の近鉄大阪線みたいなルートかな。
 しかし平城京ができると木津川沿いに伊賀を通って加太越、そして亀山に抜ける、現在の関西本線ルートになったそう。
 それも平安京に遷都して、現在の国道一号線ルートに変わる。

 

戦国時代までの宇陀と秋山氏

 鎌倉幕府室町幕府も、大和国興福寺の力が強すぎて大和守護を置いて幕府の支配下にすることができなかったと。
 興福寺が各地を治めるために、各地の名主に荘園を管理させていた。そういう妙手は、知名度だと筒井氏、それから十市氏とか越智氏とかたくさんあった。

 そして宇陀の方には、秋山氏という一族があった。(他に沢氏・芳野氏で宇陀三人衆とか宇陀三将と呼ばれたらしいが、ここでは秋山氏にだけ注目していく。沢氏はともかく芳野氏はかなり情報少なそうな感じ)
 家紋Worldというサイトに秋山氏の家伝がまとめられていた。

 興福寺の代官といっても、興福寺一乗院・大乗院に属する寺院系の家(筒井氏とか)と、春日神社に属する神主系(十市氏とか)のがあって、秋山氏は神主。
 で、もともと宇陀の神戸というところの神主家(神戸という言葉自体が、神社の神領を指す土地や住民のこと)だったのが秋山氏で、そこの神社が春日神社の末社になり、興福寺の勢力に組み込まれて代官として宇陀を治めることになったようだ。

 

  南北朝時代、秋山氏は南朝方に属していた。太平記にもちょっと秋山の名が出る。
 で、南朝の中心的存在だった北畠親房の三男・顕能は、建武の新政の頃に伊勢に渡って、国司になって勢力を張った。これが戦国時代に信長に滅ぼされる北畠氏になっていく。
 秋山氏とは、同じ南朝のよしみもあって友好的な関係だったらしい。

 室町幕府ができて、幕府が宇陀郡を興福寺大乗院に管理させようとしたけれど、大乗院は北朝方で、秋山氏ら南朝方の名主が反発。それで秋山氏は寺領をぶんどって興福寺の勢力から割れてしまった。

 でもって、南北朝交互に天皇を出す明徳の和約北朝方が破ったことで、今でいう後南朝南朝の復興運動が起きた。
 それで北畠満雅が1414年と1428年に2度に渡って挙兵。それに秋山氏も同調して、北朝方の筒井氏らと争っていたとのこと。
 二度目の挙兵で北畠満雅は戦死し、北畠氏は勢力を減らしたけれど、その後も秋山氏は北畠氏の勢力下にあったとのこと。

 

 で、1467年に応仁の乱が起きて戦国時代に突入するんだけれど、どうも大和国はあいかわらず南北朝の頃の対立がそのまま続いてた感じなのかな。北朝の筒井氏と、南朝の越智氏が戦国大名化していきつつバチバチやり続けて。
 そこに、京都の勢力争いをやっていた足利将軍家と細川家、さらに三好氏やら六角氏やらの殴り合いが、しばしば大和にまで飛び火したり。
 大和の国人は、ときにどちらかに味方し、あるいは一致団結し、戦ったり手を結んだりを繰り返す。一応筒井氏が最有力になっていくのだけど、統一されるのが遅れすぎて、他所の力に動かされる国になってしまった。

 そして伊勢国では、北畠氏が戦国大名として伸長。
 北畠具教が、1555年には北伊勢を支配、1560年には志摩を攻めて九鬼氏を滅ぼした。
 秋山氏は、大和国にいるものの、伊勢の北畠との関係が相変わらず強く、その下で働いてたようだ。

 

 伊勢で北畠具教がぶいぶいやってる頃、摂津で三好長慶が最盛期を迎えていた。畿内六カ国に勢力を広げ、将軍足利義輝も勢力下に置いてしまっているような状態。
 で、その頃の秋山家当主・秋山教家が、三好氏から妻を娶っていて、三好の勢力をバックに図に乗って、北畠具教の命令にも逆らうようになった。
 それで具教に怒られて、1558年、秋山城(現在の宇陀松山城)を攻められた。それで父の秋山宗丹が人質に取られた。

 このへんの経緯、うぃきぺでは「教家が三好氏に近づいたのは1562年の教興寺の戦いの後と思われる」と書いてるんだけど、それだと前後がおかしい。なんでこんなこと書いてるのかな。

 

松永久秀の大和侵攻

 1559年から、三好家の武将として、松永久秀大和国に侵攻してくる。
 大和の諸勢力が連合して対抗したものの、どうにも止められず、宇陀も含めて大和は久秀の手に落ちた。
 筒井氏は居城を奪われ、 龍王山城十市氏は、当主十市遠勝の娘や、重臣の子息らを久秀に人質に出して所領安堵を願う事態に。
 宇陀三将の沢氏も久秀にやられて、居城の沢城を奪われた。そこには高山友照高山右近の父親)が入城。この後の沢氏は東に逃れて北畠氏の下に入った。

 ただ、すぐそばの沢氏が城を追われているのに、この頃の秋山氏についてはいまいちネットでは情報を見つけられなかった。
 この時期だと、秋山教家と三好氏の姻戚関係から、久秀からの攻撃も受けなくて済んだとかだろうか。

 

 しかし1562年、畠山高政三好長慶と争い、教興寺の戦いで敗北して河内を追われることになるんだけど、このときは秋山教家が畠山についていたという。
 大和国人衆が結束して畠山についたみたいだから、状況的に逆らいづらかったのだろうか。

 その戦のあと、秋山教家は死んで、代わって弟の秋山正国が家督を継いだ。

 

龍王山城攻略

 1560年代は、三好氏の勢力が瓦解していく時期でもある。
 1562年の教興寺の戦いは三好氏の勝利だったとはいえ、直前の久米田の戦いで三好実休が戦死、長慶の嫡子義興も病死。それで長慶がうつ病らしい混乱を示しはじめて、腹心の安宅冬康を処刑してしまい、長慶自身も1564年に死んでいった。

 その後の三好氏は、若年の当主三好義継を置いて、後見人として三好三人衆三好長逸三好政長・岩成友通)が実権を握り、それに松永久秀が協力する、というような体制になる。
 で、早々と三好三人衆と久秀が対立して、1567年には東大寺大仏殿の戦いが起こる。

 この頃は、松永久秀の求心力が落ちて、次々と寝返りが起こった。
 筒井氏は久秀を見限って三好三人衆と同盟、筒井城の奪還に成功。
 十市氏は、当主の十市遠勝は三好方につくことにしたけど、人質を取られている重臣が松永方に留まりたがって内紛になった。

 秋山氏は、この時期にもどう動いてたか情報が見つけられなかった。
 教家が死んで正国に替わる時期で、動きづらかったりしたのかもしれない。
 宇陀から大和平野に出てすぐのところに勢力を張る十市氏が混乱状態だから、宇陀の秋山氏は小康状態でいられたりしたのかな。
 久秀から見ても、ちょっと離れた宇陀の秋山氏の前に、奈良盆地の国人衆がいろいろ逆らってくるのの相手をする必要があった。
 いわば秋山氏は、ほっといてもらえるポジションだったのでは。(このへんは史料なしに私が勝手に言ってるだけ)。

 

 で、十市氏は当主と重臣とで分裂の危機にありつつも、秋山直国の勢力下だった森屋城に攻撃を仕掛けて奪い取った。
 森屋城は、山上の龍王山城と、その南西の平野部にある十市城(十市氏の本拠地)との中間くらいにある城で、そんなところをなぜ秋山氏が領有してたのかよくわからん。なんらかのなりゆきと思う。
 十市氏からすれば、最大の城と本拠地との間に秋山氏の城があるという、実に煙たい状態だった。まあ攻撃するのはわかる。

 それに対して、秋山直国は松永久秀と手を結び、森屋城の奪還ではなく、龍王山城を攻撃した。
 さしもの大和随一の巨城も、城内が混乱していたこともあって、ろくに戦えずに十市氏は城を出て、十市城に戻っていった。

 秋山直国、機をうまく掴んで大戦功をあげた形。
 1568年のことだった。

 

信長畿内に来る

 同じ1568年、観音寺城の戦いで六角氏を破った織田信長が、ついに上洛を果たした。
 久秀は数年前から信長に誼を通じていたこともあり、大和の争いは援軍を得た久秀優勢に転じ、三好三人衆や筒井氏を押し返していく。
 信長が足利義昭を立てて幕府を再興して、久秀は将軍の直臣というポジションを得て、大和一国は切り取り次第とされた。

 このときは秋山直国も、久秀の先鋒となって、奈良盆地南東部あたりで十市氏の城を攻撃していた。
 十市氏は、松永につくか三好三人衆につくかの分裂があいかわらず続いてたようで、多分ちゃんと戦えてないんじゃないかな。

 

 しかし、1571年にはもう松永久秀が、信長と将軍・足利義昭に叛く動きを見せている。同じ義昭の武将である畠山昭高や和田惟長を攻撃したり。
 義昭の方も、久秀と対立する筒井順慶を取り込みにかかる。

 そして順慶は、辰市城を築く。
 その辰市城に久秀の大軍勢が襲いかかり大和国最大といわれる戦闘になった末に、筒井軍が松永軍を撃退する。

 秋山直国はというと、フットワークの軽いことに、すでに久秀を裏切って筒井方についていて、辰市城の戦いでも筒井氏の勝利に貢献したとのこと。いつの間に……。

 

 ちなみにこの1570年ごろの伊勢では、信長が侵攻してきたので北畠具教は大河内城まで追い込まれ織田信雄が北畠氏の養嗣子として家を継ぐことを条件に降伏していた。
 秋山氏があんまり北畠氏を後ろ盾にしているように見えないけど、そもそも頼れる状態ではなかった。

 

 

70年代大和の平穏

 辰市城の戦いの後、筒井順慶松永久秀ともに信長に臣従。当然両者は和睦して、ひとまず大和は落ち着く。

 というか久秀だけが落ち着いてなくて、翌1572年には久秀が三好三人衆と組んで、また信長を裏切る。これは信長包囲網を当て込んでの反乱だったけど、すぐ武田信玄が病死、足利義昭は追放され、三好義継も戦死、とガタガタになり、久秀の多聞山城も討伐された。
 順慶のほうは信長の信頼を高めていって、75年に信長の娘(か妹)を娶って、1576年には大和を任せられることになる。
 1577年にまた久秀が謀反を起こしたときは、順慶が先鋒で信貴山城を攻撃、陥落させて鎮圧。久秀は古天明平蜘蛛とともに爆死(事実じゃないけどロマン)。

 

 順慶は明智光秀の与力とされ、紀州征伐に加わったり、秀吉の播磨攻めに加わって神吉城を攻めたり、荒木村重の反乱鎮圧に当たったり、天正伊賀の乱で伊賀攻めにあたったり、あっちこっち行っている。

  辰市城の戦い以後の、70年代の秋山直国は、これまた様子がわからなかった。多分筒井順慶の下で働いてたんだろうと思う。

 

(2021/02/16追記)

 たまたま、Wikipedia鳥屋尾満栄のページを眺めていると、北畠具教の弟・具親が1577年に伊勢南部の北畠氏旧臣を糾合して挙兵、川俣谷というところで立てこもって織田氏と戦ったというのを知った。
 川俣谷の戦いとはどんなもんだろ、とググって見つけたページによると、織田信雄が北畠具親の鎮圧に差し向けた軍勢の中に、秋山の名がある。同じ宇陀三将の沢の名前もあるから、揃って織田信雄の配下にあったっぽい。

 

本能寺の変と洞ヶ峠の謎

 で、1582年になって本能寺の変が起こる。
 そして山崎の合戦になって、与力の筒井順慶に光秀は呼応を求めるが、順慶は洞ヶ峠日和見を決め込むことになる。
 順慶が洞ヶ峠へ出陣するとき、秋山直国は筒井城に在番していた、とのこと。

 しかし、1580年に順慶は、居城を大和郡山城へと移転していた。翌年には明智光秀が普請奉行になって大改築もやっている。
 信長が大和は1城だけとして他は破却するよう命じていたこともあり、筒井城は破却、残されるのは郡山城のほうとなっていた。

 1582年には筒井城は破却されていることになるけど、秋山直国が在番してたというのはなんのことだろう。
 工事が進んでなくてまだ城として使えるくらい残ってたのだろうか。あるいは城じゃなくて、陣屋みたいな行政施設を残してたのを城といってたんだろうか。

 

 また、そもそも順慶は洞ヶ峠に出陣していない。ちょっとだけ近江に派兵したくらいで、あまり動かず大和郡山城に留まっていた、というのが正しいらしい。
 洞ヶ峠には光秀の方が、態度が曖昧な順慶への牽制のために出兵していたとのこと。

 じゃあ、留守番の必要すらなかったわけで、秋山直国はどこで何してたのだろうか。

 

 戦後すぐに順慶は秀吉に拝謁して、日和ったことをめちゃくちゃ怒られた。
 怒られすぎて体調を崩すレベルだったそうで、直接関係あるかはわからないけど2年後には胃痛を悪化させ、それでも無理押しで出陣した小牧長久手の陣中、36歳の若さで順慶は亡くなる。

 

小牧長久手の戦いと、秋山城明け渡し

 小牧長久手の戦いは、もともと織田信雄と秀吉の関係悪化から1584年に開戦するのだけど、信雄のいる伊勢は織田・徳川方の最重要拠点になる。
 緒戦の長久手では織田方の優勢だったものの、秀吉の調略で信雄勢から続々と寝返りが出る。
 寝返った中に秋山直国もいたそうだ。すると、山崎の合戦までは筒井氏配下だったのが、戦後の処分で織田信雄の配下にされていたらしい。それくらいしか信雄配下になってるタイミングがなさそうに思う。

 調略も、大勢に影響がない奴を寝返らせてもしかたない。大和にある羽柴秀長の軍勢をスムーズに伊勢に送り込むにあたって、宇陀にある秋山直国の勢力を取り込んでおけば邪魔が減る、というとこだろうか。

 ともあれ、またもうまく勝つ方に乗り換えることに成功している。

 

 ただ、この後、宇陀が豊臣家の蔵入地(直轄領)になっている。
 1585年に豊臣秀長大和郡山に入城して大和の主になってから、宇陀でも秋山城の大規模な改修が行われて宇陀松山城と呼ばれるようになる。
 宇陀松山城主も、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種と代官が入り、宇陀は2万石とされていた。

 まあ、伊勢・大和間の要衝と評価されたゆえの処分だと思う。
 ただ、城を明け渡すことになった秋山直国がどうなったかわからない。

 

 小牧長久手の論功行賞で、蒲生氏郷が南伊勢の松ヶ島(現在の松阪あたり)12万石に加増転封され、秋山直国はその与力につけられている。
 この時点で秋山氏の所領は3000石だったそう。どこの3000石かは不明。
 宇陀2万石から3000石だとに減ってるようにも見えるけど、もともと秋山氏は宇陀全域を支配してたわけでもなさそうだから、そんなものなのかもしれない。
 あるいは、小牧長久手で調略されたといっても、実際は降伏に近い感じで、戦後に減封の上でよそに移されてしまったのかもしれない。

 

 それから蒲生氏郷は、紀州征伐、富山の役、九州征伐、そして小田原征伐と全国に出陣していく。秋山直国も参戦していたのだろうか。史料なさげだけど。

 その戦功で、1590年、氏郷は会津42万石に加増転封。
 が、秋山直国は、氏郷についていかずに残った。

 

徳川の旗本に

 1598年に秀吉が死去、五大老の一人となっていた上杉景勝が家康と対立。
 景勝が領内の城を改修していることに難癖をつけた家康に、直江兼続状況も読まずに武士の意地とともに直江状を叩きつけて「是非に及ばず候」と喧嘩を買った。

 で、1600年に家康の会津征伐が起こる。

 そして秋山直国は、いつのまにか家康の旗本になっていて、会津征伐に従軍して戦功をあげている。
 いつのまにそうなったかわからないが、小牧長久手で味方したよしみでもあったのだろうか。

 混沌の大和国に小勢力の主として生まれ、北畠具教、三好長慶松永久秀筒井順慶織田信雄豊臣秀吉蒲生氏郷と見事に戦国の世を渡りきって、ついに徳川の旗本。
 ついに最終的な勝ち組に入れた。

 

関ヶ原

 そして、天下分け目の関ヶ原

 秋山直国は関ケ原で西軍について、大阪冬の陣でも大野治長の下で戦って戦死、秋山氏も滅亡した。
 という説があるのだけど、どうも慶長郷帳に引き続き旗本として秋山氏が記載されていて、この説は間違いであるらしい。

 

 秋山直国は東軍。

 もし先祖伝来の宇陀に居られたままで東軍に属してたら、安濃津城の戦いの前哨戦として西軍に蹴散らされてたと思う。かといって西軍についてたらもちろんアウト。

 秋山氏3000石がどこの所領だかはわからないけれど、東軍でいられる場所だったってことかな。宇陀を明け渡したことすらプラスに働いたのかもしれない。(このへんは私が勝手に言ってるだけで裏付けはない)

 やっぱり秋山直国、生き残るセンスと運が相当に良いのでは。

 (追記 11月12日)

 追加でぐぐっていたところ、橿原市史上巻・歴史2(PDF)の14ページに、

膳夫(一〇〇石)と石原田(三百三十七石六斗)は、慶長五年頃、秋山右近の知行地であったことがある。右近は家康に仕え、上杉景勝追討などに功があったといわれる(「関ケ原始末記』)。右両村のほかに「池ノ尻」(東)、桜井市内の山田・上ノ宮・高田の計六ヵ村、約三、〇〇〇石をあてがわれていた(「庁中漫録』)。なお、大和国内惣高には池尻の記載はないが、これは南山のうちに含まれていた。

 とあって、宇陀を召し上げられてからずっとかはわからないけど、奈良盆地内の南東部に3000石貰ってたようだ。
 関ヶ原時点での所領がここだとすると、やっぱり東軍やってるのは無理がある立地なので、会津征伐に従軍してたから本人と軍勢は難を逃れた、でも所領はどうしようもなく……って感じだろうか。

 筒井定次も同じように会津征伐に出ていて、伊賀上野城と所領を奪われてる。
 所領にいたら、東軍として頑張って攻め滅ぼされるか、西軍に味方せざるを得なくなって戦後に破滅していたかだろうから、やっぱり生き残るという意味では結果オーライかもしれない。
 まあ筒井定次の場合は、会津から取って返して伊賀に戻り、人々が戻ってきた殿様のもとに集結して大軍勢になって、城を抑えていた新庄直頼が戦わずして城を明け渡す……という劇的な奪還劇をやってるのだけど。秋山直国にそこまで格好いい話はなかった。

 

大阪夏の陣

 1615年5月6日、大阪夏の陣道明寺の戦い

 夜明け前、濃霧の中で進軍・布陣に失敗した西軍は、後藤基次2800の部隊だけが単独で道明寺に着陣する羽目になった。
 夜明けとともに後藤基次が決死の攻撃をかけるも、3万あまりの大群には奮戦虚しく壊滅。
 午後に遅れてきた西軍主力と東軍の戦闘になり、これも薄田兼相や明石全登の奮戦も及ばず西軍は敗退。大坂城に撤退していくことになった。

 これは東軍が圧勝した戦といっていいところだけど、秋山直国は勝った東軍にいながら、この戦で井上時利に討ち取られている。

 え?

 

 1560年代に秋山家の家督を継いだ秋山直国、1615年没。
 60年近い年月、激動の戦国時代を巧みに生き抜いてきて、おそらく70歳くらいの高齢で出陣した、戦国時代最後の戦で、勝った側にいながら戦死。

 子の話は見つからず、生まれなかったのか記録がないのか、ともかく秋山氏は直国の戦死をもって滅亡となってしまったようだ。
 ちなみに独身ではなく、滝川一益の娘を娶っている。三好の娘を娶った兄と同じく、妙に強い縁戚を作れるものだ。

 

 もしかすると、「この戦が終わったらもう太平じゃろうし、養子取って家を継いでもらって隠居するとしようかの」と言いながら出陣して、こうなってしまったのかなあ……などと空想してしまう。

 たまたま宇陀に興味を持って名前を知った秋山直国、これほどたくましくも悲しい人だとは思わなかった。