堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

木沢長政について

 私もよくある素人歴史ファンの常で、戦国時代について知ってるのが信長→秀吉→家康中心の流れに沿った部分に偏っている。
 時代的・地理的にずれてる大名・勢力については、あまりよく知らない。

 大阪で生まれ育った私なんだから、信長の侵略を受ける前の畿内についてもちょっとは知っておきたいと思って、三好長慶については書き出してみたりもした。

 

 プレ信長時代の戦国畿内は、メインプレイヤーであるはずの勢力がいちいち割れて、一族郎党が同じ名字で対立しまくってる。足利、細川、畠山がみんなそう。
 細川といっしょに臣下の三好氏も、畠山と一緒に遊佐氏も分裂する。

 実に混沌としてるんだけど、その混沌の中で、畠山の家臣からのし上がったひとりが木沢長政だった。
 先日墓参りをしてみたので、彼の生涯を復習してみようと思う。またうぃきぺとかを長政基準で並べ直す程度のものだけど。

 

木沢長政出現までの流れ

 木沢長政が現れるのは1520年代後半あたりで、河内上半国と大和国に勢力を持つ畠山総州家の5代・管領畠山義堯重臣だった。

 ただ、守護畠山氏のナンバー2といえば守護代遊佐氏であって、木沢氏はそんな大物というわけではないらしい。しかし歴史上に現れる頃にはかなりの軍勢を動かしているから、実力は持っていた。どうやって畠山家内でのし上がったかはよくわからない。

 

 この頃、すでに両細川の乱も終盤で、京都は将軍足利義晴とそれを擁する細川高国が抑えていた。

 

 一応前提として、細川氏京兆家(本家)の12代当主・細川政元が、応仁の乱で勝った父勝元の跡を継いで畿内を制圧、幕府の管領でありつつ将軍すらすげ替える実権を握っていた。
 しかし修験道にハマって女性を遠ざけて実子がなく、最初は関白九条家から迎えた聡明丸(後の澄之)を嫡子としていたが仲が悪くなって廃嫡、代わりに阿波の分家から迎えた澄元を嫡子とするも、さらに細川野州家から高国を迎えて養子として、三人の後継者が並立する事態になった。
 そして政元が事態を収拾せずに暗殺されてしまい、永正の錯乱という幕府の実験を握る家でのお家騒動が勃発。

 澄之は早くに敗死し、1509年頃には細川高国が優勢になって京都と幕府を擁する状態になって、それを澄元と緋寒の三好之長が巻き返そうというフェーズに移って、両細川の乱といわれる戦争に流れ込む。

 澄元・之長が盛り返し、1520年には京都を奪取するも、すぐに高国に反撃されて失陥、澄元は阿波に脱出して之長は討ち取られてしまった(等持院の戦い)。
 高国は改めて実権を握り、また将軍をすげ替えて足利義晴を立てる。

 

 しかし1526年頃にやらかした高国のミスから政権が瓦解する。

 細川典厩家(細川の分家で、京兆家の重臣として直接仕えていた家)の細川尹賢が、高国の重臣丹波波多野氏の親族・香西元盛を讒言して上意討ちにさせたところ、元盛の兄弟、波多野元清柳本賢治が当然にブチ切れて謀反を起こした。
 信長の野望だとあんまり強く見えない波多野氏も、この頃は戦に強かった。細川高国が細川尹賢を差し向けて鎮圧させようとするけど、あっさり撃破。
 あれ、丹波の一豪族も鎮圧できないとは、意外と高国弱いのでは?

 細川高国に敗れた父・細川澄元が阿波に落ち延びて死に、幼くして阿波細川氏を継いでいたわずか13歳の晴元と、同じく高国に敗れて死んだ三好之長の後継者元長が、波多野氏に呼応して阿波から挙兵。
 高国が将軍義晴を擁して官軍の立場を取っているのに対抗すべく、阿波で養育されていた義晴の弟・足利義維を将軍候補として担ぎ出して渡海。
 高国を嫌う国人など多くの勢力を糾合して京都に攻め上がる。高国方の国人は次々撃破され、高国が救援を求めた周辺諸大名も、来てくれたのは若狭守護武田元光くらい。
 1527年の桂川原の戦いで、義維・晴元・元長の軍勢が、将軍・高国勢を撃破。
 将軍と高国は近江まで追われてしまい、義維が堺公方として事実上の幕府として活動するようになる。

 

木沢長政登場

 で、その頃、木沢長政の主君・畠山義堯は、細川澄元の娘を妻にしていた、つまり細川晴元と義兄弟だった。そういうのもあって、ずっと反細川高国派だった。
 同じ畠山でも、河内下半国と紀伊に勢力を持っていた畠山尾州家の畠山稙長は高国派で、この両畠山もバチバチ戦っていた。

 木沢長政は、総州家にいた遊佐氏の一族を殺して出奔し、敵方の細川高国に寝返っている。歴史に現れていきなり裏切り。高国麾下で河内で戦って戦功まで挙げたそう。

 

大物崩れへ

 しかし程なく高国は桂川原で敗れて失脚する。
 頼る相手を失った長政は、今度は新たに興った堺幕府の実権を握った細川晴元に近づいて、1530年頃には仕えるようになっていた。変わり身……。

 そして晴元に命じられて、京都の防衛にあたる。それなりに軍勢を動かせる力は持っていたらしい。

 

 近江に逃げていた細川高国は、あっちこっちに助けてくれる勢力を探し回った末、備前で守護赤松氏に下剋上をキメた浦上村宗の協力を取り付けることに成功。
 村宗は軍を動かして、播磨から京都を目指していく。細川晴元が差し向けてきた柳本賢治を暗殺し、摂津池田城も攻め落とす快進撃。

 で、その高国・村宗の勢いを見た木沢長政はというと、細川晴元・堺幕府方についてたらヤバいと思ったのか、京都の守備を放り出して忽然と姿を消した。もちろん京都は高国方の兵に占領される。1531年3月のことだった。

 

 その浦上村宗が、摂津での三好元長との戦いで膠着してしまったところで、赤松政佑の援軍を迎える。
 浦上村宗は、赤松政佑の父・義村を暗殺して下剋上を果たしたんだから、政佑にとっては村宗は親の仇。それが細川高国の頼みで来たとはいえ、なぜ平気な顔で味方と思えるのか、ちょっと油断がすぎる気がするんだけど。

 政佑はばっちり堺幕府に内通していて、浦上軍を背後から強襲。前の三好・後ろの赤松に、皆殺しという勢いで片っ端から浦上軍の将兵が討ち取られていった。世にいう大物崩れ
 一時は栄えた細川高国も、あえなく散っていった。

 

 で、木沢長政がひょっこり現れたと思ったら、ずっと高国の下で活動していた細川尹賢を捕まえて切腹させた。
 尹賢の首を手土産に、京都を放棄した罪を許してもらって畠山義堯の下に帰参したらしい。
 まだ年変わってない1531年7月のこと。このへんの情勢は展開が早い。

 

天文の錯乱・堺幕府の崩壊へ

 細川高国という敵をついに滅ぼした堺幕府一派は、今度は内紛を始めてしまう。

 正式な将軍ではない堺公方足利義維を、将軍に就任させようとする三好元長。河内の畠山義堯も元長に同調している。
 自分が細川京兆家を継いで管領に収まればいいのであって、無理に義維を将軍にしなくても現在の将軍義晴に帰順すればいい、という細川晴元三好政長(宗三)は元長と以前から対立していて、今度も晴元側。摂津の国人衆も、阿波から来たよそ者の三好元長を警戒する。

 

 木沢長政はというと、本来は主家の畠山義堯に従ってるべきところ、勝手に細川晴元の方に接近していた。
 帰参して早速きな臭い動きを見せるもんだから、義堯も警戒して対立する。
 そして長政は、畠山総州家ナンバー2にあたる河内守護代・遊佐堯家を殺害し、畠山尾州家と連合して主家を攻撃しはじめた。まだ1531年の秋頃。展開が早い。

 義堯は長政を成敗しようと、三好一秀の力を借りて反撃、1532年6月には、長政の居城・飯盛山城を包囲。三好元長も自ら包囲に参加。

 長政は進退窮まるか……と思ったら、晴元が本願寺証如蓮淳に頼んで、一向一揆を動かしてもらうことにした。
 三好元長が熱心な法華信徒だったものだから、本願寺や浄土系の宗派とは対立していたのもある。

 1532年6月に動き出した一向一揆は、実に3万という大軍に膨れ上がってしまい、飯盛山城を包囲する三好・畠山軍を背後から襲撃し、三好一秀を討ち取る。
 畠山義堯も退却するが、追撃を振りきれず南河内で討たれる。
 三好元長も堺の顕本寺に逃げ込んだが、ますます膨れ上がる門徒宗に囲まれて自害。

 木沢長政は助かったが、堺幕府は中心人物が揃っているところを皆殺しにされたような状態で、崩壊するしかなかった。
 堺幕府に担がれていた足利義維も、細川晴元がこれ以上担ぐつもりもない。もう用無しと、義維は阿波に移された。

 

 さらに一揆勢は証如・蓮淳のコントロールも効かない暴走状態になり、大和に殴り込んで大暴れして大変なことになる。

 細川晴元が煽った一揆ではあったんだけど、今度は統治者としての立場から、晴元が鎮圧に当たらねばならなくなった。
 一向一揆によって命を助けてもらえた木沢長政も、素直に晴元に従って一揆鎮圧に従軍することにする。恩とかそんな感覚はない。
 前に京都の守備をやらせたら放棄して消えた前科があるものの、今回は堺の守備をしっかり務めて、一揆軍の襲来を迎撃している。

 1532年7月ごろから晴元は、法華一揆を煽って一向一揆にぶつけてみたり、本願寺が嫌いな六角定頼を動かしてみたりとあれこれ手を尽くして、各地の本願寺系寺院を攻撃・陥落させていく。
 8月には当時の本山だった山科本願寺を攻め落として完全に焼き払った。証如は大坂御坊へ、蓮淳は伊勢長島願証寺に逃げた。

 

 その後も摂津や堺を舞台に一向一揆は続き、1533年2月にはまた勢力を伸ばして堺を攻め落として、細川晴元も淡路へ逃げる。
 しかし管領たる晴元を直接攻撃しちゃったせいか、幕府から本願寺討伐令が出た。
 木沢長政も法華一揆衆を率いて、伊丹城を囲んできた一向一揆衆を撃破するなど活躍している。お前を助けるために起こした一揆なのにな……。
 結局4月には細川晴元池田城に復帰、6月には三好長慶を仲介に立てて、細川氏本願寺は和睦することになった。とはいえ、一部が和睦に反対し、本願寺に逆らって独立して一揆を継続する。

 

畠山家を奪う

 畠山義堯が一向一揆の大軍勢にやられて死んでしまった1532年。
 畠山総州家の家督は、木沢長政が素早く動いて義堯の弟・畠山在氏を擁立。
 義堯の子とか他の後継候補がいたのか、どうなったのかはよくわからなかったけれど、ともあれ押し立ててもらったからには在氏も長政を重用する。
 義堯と一緒に有力者も大勢一向宗に殺されてるだろうから、実力があるのも長政になっていたんだろう。

 総州家のナンバー2である河内守護代職も、代々遊佐氏が就いていたのを、ここで木沢長政が奪い取ることになった。長政の親族も総州家の要職につけられている。

 もう、総州家は木沢長政の手に落ちたようなものだった。

 

 でもって、尾州家の畠山稙長も、こっちはこっちで守護代遊佐長教によって放逐され、代わって稙長の弟・長経が擁されていた。

 稙長は、将軍足利義晴細川高国にずっと味方していたから、大物崩れで一気に立場が悪くなっていた。
 高国死後は細川晴元と将軍義晴が接近するんだけど、どうも稙長の方は将軍の味方というより高国の味方・晴元の敵だったみたいで、高国の弟・細川晴国が決起したときにそっちについた。
 晴国の決起はちょうど1533年ごろ、一向一揆に堺を落とされた晴元が淡路に退避してたようなタイミングで、一気に巻き返しか……と思ったけど、法華一揆が動員されるなどして敗退。

 そんな負け組についてる当主・稙長が邪魔になった遊佐長教がクーデターを起こし、稙長を紀伊に追放、傀儡の長経を立てた、と。それが1534年。

 

 遊佐長教は細川晴元と結ぶ方針だったので、晴元派である畠山総州家と木沢長政とも融和することになる。河内を二分した畠山氏の分裂も、ひとまず落ち着く。

 まあ木沢長政も遊佐長教も、忠義とかそういう感覚はない。両畠山の当主はあからさまに傀儡。
 畠山長経もすぐ廃されて代わりに弟の晴熙が置かれ、そしてそれも程なく、細川氏の血族で、細川晴元がコントロールしやすい畠山晴満にすげ替えられた。

 

一応の安定期

 とりあえず河内を安定させた木沢長政は、畠山総州家がもともと勢力を持っていた大和の方を奪還しようと、ちょっかいを掛け始める。
 大和・河内の国境の山上に、信貴山城二上山城を築城。まだ大和を統一するような大勢力が生まれていない大和国人のうち、有力な筒井氏と結んで越智氏を攻撃したり。

 

 河内がそうなる少し前の1533年頃から、総帥の三好元長を失った三好氏の方でも、三好長慶元服して、幼くして頭角を現し始める。
 本願寺から離れて独自に動いていた一向一揆衆が拠る摂津越水城を奪回。
 拠点を確保してから、本願寺・細川晴国と結んで晴元と戦いを始めた。

 結局細川晴国の反乱は失敗に終わるけれど、長慶はまだ若いということで、木沢長政が仲介して許され、晴元に仕えることになった。

 一向宗は叩いて鎮圧したけど、そのために動員した法華宗がかなり伸長してしまっていた。だから、法華と繋がりが深い三好氏を助けておくことで、法華とも対立を避ける……というような目論見もあったらしい。
 実際、一向一揆が落ち着いたから今度は法華をどうにかしないといけない……ってな状況があった。

 

天文法難

 一向一揆鎮圧に功績があったため、今度は法華信徒が京都で強い力を持つようになった。

 1536年に法華宗延暦寺に宗教問答を仕掛けて、延暦寺の僧に法華の一般信徒が勝ってしまった。
 顔を潰された延暦寺が、「法華経はこちらの経典だから、あいつらに法華宗などと名乗らせないようにしてくれ」と幕府に頼んだんだけれど、幕府はこれを拒否。
 それで延暦寺は、京都の法華寺院は延暦寺の末寺になって上納金を入れろと要求するんだけど、当然法華宗は突っぱねる。これを口実にして、延暦寺は武力で法華宗を制圧すると言い出し、それを幕府も認めてしまう。
 延暦寺は各大名や法華以外の大寺院に手回しをして、六角定頼の援軍を得て京都に武力侵攻。日蓮宗二十一本山を焼き払って京都の半分以上が類焼し、数千の信徒を殺し、京都で日蓮宗を禁教にさせた。

 法華宗が図に乗りすぎたせいだとする他宗派は天文法華の乱と呼び、いくらなんでも周囲の事情で勝手に持ち上げられて一方的に叩き潰されたと捉える法華宗は天文法難と呼ぶ。

 この延暦寺法華宗の対立は、ところどころ噛んでいる幕府が、わざと対立を煽るように仕向けていた節がある。木沢長政はどうも、幕府方でそれを仕組んだ張本人だという話。
 自分を助けるために一向宗が動いたのが発端なのに、その一向宗を叩くために法華宗を使い、法華宗を叩くために比叡山を使う。使えるものは何でも使う長政であった。
 使われる方も結構積極的に武力行使してる節があり、なかなか末法の感があるな。

 

太平寺の戦い

 しかし、ようやく畠山両家を和解させたというのに、またも両畠山……というか木沢長政と遊佐長教の対立が始まってしまう。
 どっちも義理とか人情とかなさそうだし、お互いに、あいつを追い落として畠山を両方獲ろうと思ってたんだろうか。

 長政は大和方面への伸長に成功して、大和というか山城にあたると思うけど、1541年には笠置城を築いて居城に据えた。
 また、事情はよくわからないらしいけど、尾州家の方で一時当主につけられていた畠山長経を殺している。

 長教の方も、以前追放して紀伊に追いやった旧主畠山稙長との関係改善を始めていた。細川晴元総州家とやりあっていた時代の尾州家当主と改善するということは、強調する立場の現当主を捨てて、木沢長政と対立する気だ、となる。

 

 世の中が安定しつつも、水面下で火種を燻ぶらせながら5年ほど過ぎた1541年。
 細川晴元三好長慶・政長や池田信正らに命じて、一庫城の塩川政年を攻撃した。
 細川高国の妹を塩川政年が妻にしていたから、塩川は高国派の残党だと決めつけての攻撃だった。
 摂津国人には塩川氏と縁戚も多く、伊丹親興三宅国村といった有力国人が塩川方に味方した。将軍にも、この攻撃は不当だと訴える。

 塩川方の国人衆が軍事的に頼ったのは、木沢長政だった。
 三好・池田軍に包囲されている一庫城に駆けつけて包囲軍を蹴散らし、さらに池田信正の原田城、長慶の越水城も攻撃した。

 こうなってしまうともう、木沢長政は細川晴元と三好勢と対立することになる。

 長政は将軍に近づいて、正当性を確保しようとする。上京して、「京都の警護をお任せください」なんて言ってみた。
 そうすると、将軍義晴は長政を嫌っていて、さっさと京都を退去して近江に逃れていってしまった。長政はすごすご戻るしかない。
 あとから見れば、この時将軍がそっぽを向いたことが、梟雄・木沢長政が一気に転落するきっかけになった。

 

 細川晴元は、伊賀の守護・仁木氏に、長政の笠置城を攻撃するよう依頼した。
 するとNINJA軍団が城に忍び込んで放火して、現存最古の忍者の活動として記録されることになった。

 遊佐長教は、証如に「木沢長政に味方するな」と要請する書簡を出した。
 また、将軍に向けては、「旧主畠山稙長が、尾州家の現傀儡当主畠山晴満を討伐して復帰せよ」という命令を出すように依頼を送っている。
 晴満派の重臣も暗殺し、晴満は高屋城から抜け出して信貴山城へ逃亡。この時で、稙長こそが幕府方で、晴満は木沢派だと決めつけられてしまっていたらしい。だから逃げる先も長政の信貴山城。
 そこへ、紀州から稙長が帰還してくる。

 

 周辺状況も整いつつある中で、細川晴元が自ら木沢長政討伐軍を起こし、芥川山城に入って三好勢を集める。
 木沢長政も応じて、笠置山から出陣。

 山城の井出(現在のJR奈良線玉水駅あたり)に、木津川を挟んで両軍が対峙。

 

 その頃、畠山稙長が高屋城に到着。これがなんと紀伊から1万の兵を連れてきた。
 紀伊に追い出された負け犬がそんな大軍勢を率いてくるとは思ってなかった長政は、大慌てで兵を集めながら大和を南下、二上山城に入った。

 西側の高屋城からの畠山稙長軍と、二上山城から高屋城に向かう木沢長政の偵察隊が、3月17日に衝突。
 これは長政方が不利と見て、信貴山城からの増援を期待して北進。
 戦いながら北進なんてできるのかとも思ったけど、高屋城と二上山方面の間に石川が流れていて、北に行くと大和川とも合流している。川越しの戦で、本格的な衝突には至ってなかったから移動もできた、というようなことかな。
 結局両軍は大和川を北東側に渡ったようで、今の柏原市太平寺あたりで白兵戦にもつれ込む。

 そこに北から援軍がやってきたぞ、と思ったら、それは信貴山城からの援軍ではなくて、芥川山城から高野街道を南下してきていた三好の軍勢だった。
 長政軍は壊滅。

 畠山在氏のいる飯盛山城までなんとか逃げようとしたものの叶わず、遊佐長教の兵に討ち取られた。

 

 善悪だとか忠義といった美徳に囚われず、サイコパスみたいに裏切りや下剋上で成り上がった末、案外あっさりと死んでいった。
 多くの地方にもこんな一代の梟雄がいたとは思うのだけど、木沢長政はもともとあまり大身ではなさそうなところから、北河内と大和まで勢力を伸ばして、もう数歩で天下人というところまで行ったとはいえる。
 そこまでやるためには、恥も外聞もないような生き方をするしか仕方なかったのかもしれず、そんな生き方してるから将軍に突き放されて死んでいった感もある。