珍しく大阪市は城東区なんてめったに行かないところに用があって、ちょっと寄り道をして、野江内代駅近くにある榎並城跡を見てきた。
見てきたのだが、なんというか駅の近くにあるのが家だけで、またなまじ城址が駅から近すぎるから「行くまでの間に何か」というのもない。うーむ。
野江内代駅1番出口からすぐの榎並小学校の、裏口のところに碑がある。
以上終わり。
碑文は、「榎並城跡伝承地」「榎並猿楽発祥の地」とある。
解説板もあるんだけれども、城より先に猿楽を書いてある。
榎並猿楽というのは、丹波猿楽の新座とのこと。
猿楽にはいくつも流派があったんだけれども、その中でも丹波猿楽は強かったらしくて、現在の梅若会も丹波系とのこと。
人の多い浪速の方にも分家を立てとこう、という感じだったのか、この榎並にも、鎌倉時代末期に新座を置いた。一時は丹波の本座を凌ぐくらいで、丹波猿楽の楽頭も出してたようだ。
でも1424年に楽頭は大和猿楽の方に持っていかれ、応仁の乱にも巻き込まれて衰退していったとのこと。
榎並城のほうは、現地案内板では三好政康が築いたとなっている。
文献では江口の戦いで初めてはっきり出てくるとのこと。
細川晴元が室町幕府の実権を握っていた頃、三好一族のリーダーとしてのし上がっていく三好長慶と、三好の長老ポジションなんだけど細川晴元の腹心でもある三好政長・その息子の政勝(=政康)との対立が深まる。
で、1548年秋に長慶が軍を出して、政勝が守る榎並城を包囲したところから大規模な戦争になる。
どうにか援軍に来ようとする政長や細川晴元がなかなか来られない中、榎並城は堅牢で兵糧も十分、政勝はずーっと城に籠もって長慶の軍勢を退け続けていた。
で、三好政長は息子を救うべく、榎並城の北にある江口城に入った。ここも淀川と神崎川で三方を囲まれた要害なんだけども、なんせ川を水軍に抑えられると逃げ場がなくなる城でもあった。長慶は当然そうした。
政長は、六角氏に援軍を求めて到着まで籠城したんだけれど、援軍到着直前についに長慶の軍勢に江口城を落とされた。政長は討ち死に。
それで、榎並城の政勝も城を出て、西の方へ撤退。
この経緯からすると、榎並城は8ヶ月に渡って包囲されながらついに陥落しなかった堅城ってことになる。
のだけども、江戸時代にあった大和川の付替えとかの開発で地形自体が大きく変わっていて、遺構らしいものはほぼ何もない。
すぐ近くに、野江水神社という神社がある。
三好政長が城の守護神として水神社を建てたのが始まりとされている。祭神は水波女大神(みずはのめのおおかみ)。
このへんは川の近い低地だったからしょっちゅう水害があって、榎並城を築城してる間にもやられてたから、祭神もそうなったらしいと。
神社の由緒に寄ると、1978年にNHK教育の「生活の中の日本史」で紹介されたことがあるとか。
水流地蔵尊、という、やっぱり水関係のお地蔵さんもいる。
でもこれは意外と新しくて、明治18年の淀川洪水のときに流れてきたお地蔵さんを祀ってるとのこと。
まあ、城址にいった気はしないのだけど、私は大阪生まれなのに三好長慶の足跡をよく知らんので、ちと勉強してみるきっかけくらいにはなるかなあ。