私も人生の9割くらい大阪に在住している身で、あちこちの城跡や寺社仏閣など巡るのも好きなわけだけど、大阪の史跡には当然ながら、三好長慶の名前がよく出てくる。
信長の野望などプレイすれば、今の大阪あたりにかなり大きな勢力を持っているから、結構目立つ。
けれども、よく小説や漫画で読める信長中心史観でいくと、なんかいまいち大きく描かれない。三好氏が信長とぶつかるのは長慶の死後になるし、その頃には三好氏が内紛で崩壊してあっさり信長に飲み込まれていく感じで。
せっかく大阪の人間だし、三好長慶についてもう少し知っておきたいと思ってたのだが、コロナウィルスで仕事も減ったし、この機会にすこし整理してまとめてみようと思う。図書館閉まってるからウィキペ見ながら検索してまとめ直す感じになるけども。
この記事は長大だし、あまり人が読むようにもしてないし、「そもそもうぃきぺの三好長慶のページを見たらいいのでは」という話でもある。自分はそりゃ写経みたいなもので、書き写すことによって頭に入るってのもあるけども。
三好千熊丸生まれる
後に摂津あたりで勢力を張ってはいるけど、三好氏は阿波国(徳島県)の家で、今でも徳島県三好市の旧三野町に、出生地があるそうだ。
一族のルーツを遡ると、承久の乱で戦功をあげた小笠原長清が阿波国守護に任じられて、その子供の長経が守護代として阿波に来た。これは鎌倉幕府が建つくらいの頃。
それから代を重ねて200年くらい過ぎて、小笠原義長という人物の代になって、住んでいた三好郡から取って三好氏と名乗るようになった。
この頃に芝生(しぼう)という土地に城を建てて本拠地にしたそうで、三好義長から四代後、玄孫にあたる長慶も芝生生まれといわれる。
長慶の幼名は千熊丸というけど、ややこしいので長慶に統一する。
生まれたのは1522年。
生まれた頃~幼年期の情勢(細川高国vs細川澄元)
1520年ごろからの情勢はというと、将軍は足利義稙。
管領の細川高国と、管領代の大内義興が支えていた政権だったんだけど、大内氏ははるか周防が本国。将軍と一緒に京都にいながら山陰の尼子氏と戦う、なんてことをしてたら、本拠地の周防が治まらなくなった。将軍や細川高国との関係悪化もあり、管領代を辞職して本拠に戻った。
そうすると、将軍の軍事力が低下した。そこに、細川高国と以前から細川家内の勢力争い(永正の錯乱)を続けていた細川澄元が、阿波の領国から摂津に侵攻。将軍足利義稙を抱き込み、山城国に一揆を起こし、細川高国を撃破して幕府の実験を奪う。
ここで、細川澄元の重臣として活躍したのが、三好長慶の祖父か曽祖父(はっきりわからない)の三好之長だった。
ところが、近江坂本に逃れた細川高国は、あっという間に近江の六角氏、越前の朝倉氏などから数万の大軍を集めて逆襲(等持院の戦い)。
細川澄元は京都を追い払われて病に倒れ、阿波まで落ちた末に死去。三好之長は、太りすぎて素早く逃げることができず、京都に隠れていたのがバレて自害に追い込まれた。
将軍足利義稙も、一度裏切って京都から追い出した細川高国にまたたく間に返り咲かれる、という非常に気まずい立場に。淡路に逃げてしまった。
将軍職は、細川高国が擁立した足利義晴に代わった。
三好氏はというと、総帥の三好之長が死に、その世子だった三好長秀もすでに戦死していた。
で、三好元長、長慶の父親が三好氏の総帥になった。(戦国大名家だと、一族の長は当主と呼ぶように思うけど、なんか三好氏だと総帥って書かれてる。なんだろう?)
長慶が生まれた頃の三好氏は、京都を追い出されて阿波国に引きこもり、かつての主君だった細川澄元の遺児(後の細川晴元)を保護しながら身を固めていた。
これくらいの頃に、長慶が生まれている。
そしてチャンスを待っていたら、1526年、丹波に勢力を持つ波多野氏の一族である香西元盛という人が、同輩の讒言によって細川高国に処刑される事件があった。
それが不当だと、香西元盛の兄・ 波多野稙通(元清)、弟・柳本賢治が決起。丹波地方で反乱を起こした。彼らがまた強くて、この時も細川高国が送った鎮圧部隊が撃破される事態に。
細川高国に力はないぞと阿波から三好元長も挙兵して、細川晴元を担いで(1514年生まれだから、まだ元服するかしないかの若年なので、多分この頃はお飾りと思う)畿内に進軍。波多野氏の軍勢と合流して摂津の芥川山城や茨木城などを次々切り取りつつ京都に攻め上った。
京都から来た細川高国・足利義晴軍と桂川で戦いになり、これにも三好・波多野方が勝利を収める。
細川高国・足利義晴は近江に逃れ、政権崩壊。
将軍が一時的に京都から避難するのは時々あることだけど、このときは、どうも官僚機構が壊滅するような事態になったらしくて、統治不能になったらしい。
そして細川晴元・三好元長は、堺で足利義維を擁立。前に淡路に逃げていた足利義稙の養子で、実父は11代将軍足利義澄。現将軍の足利義晴の兄弟にあたる。
これが堺公方といわれ、事実上の将軍として政権を握っていた。 足利義稙が都を追われるときに、少数ながら官僚を連れて逃げていたらしくて、それが官僚機構を再建したそう。
細川高国敗れる
この後1527年から、近江に逃げた細川高国と足利義晴が、朝倉氏を頼って京都奪還を図り、朝倉宗滴とともに上洛戦を仕掛ける。
朝倉宗滴というと、信長の野望で見かけると、頼りない連中ばかりの朝倉家中で一人すんげえ能力値の高いスーパーおじいちゃん、って感じなのだけど、1520年代といったら宗滴がその実力で朝倉氏全盛期を創り上げてたタイミング。
朝倉軍は一度は洛中を取り戻したものの、川勝寺口で戦線膠着。
和睦しようとするも、細川高国と朝倉宗滴がモメて主力の朝倉軍が撤退。なんで戦争中に主力を率いてる将とモメるのかと思うけど、うぃきぺだけだと詳しくはわからなかった。
それで交渉もへったくれもなくなってしまい、足利義晴・細川高国はまた近江へ撤退。
細川高国・足利義晴は、またあちこち協力者を探した末、播磨国で守護赤松氏に下剋上して勢力を伸ばす浦上村宗の協力を取り付けることに成功。
浦上氏の上洛軍が、播磨から京都へと突き進んで来る。柳本賢治も暗殺され、摂津池田城まで攻め落とされる勢い。京都を守っていた木沢長政まで旗色悪しと見てか突然姿を消し、細川高国に京都を奪回される事態に。
1531年、三好元長の本隊と、阿波から来た細川持隆(細川晴元の従兄弟)との軍勢で、浦上軍と対峙(天王寺の戦い)。
しばらく膠着していたところ、播磨守護の 赤松政佑(後に晴政と改名)が浦上方の援軍にやってきた。
浦上村宗は赤松氏に下剋上したから、赤松政佑の父・義村も浦上村宗に殺されている。三好方からも、事前に調略があったようだ。
で、西から援軍に来たと思った赤松軍が裏切り。東で対峙している三好軍と挟み撃ちにされてしまった浦上軍は、もうひとたまりもなく壊滅。
これが尼崎の大物で起きたために、大物崩れと呼ばれることになった。前に行ったね。
浦上村宗は討ち死に。浦上の将兵も、尼崎から生瀬口(尼崎から武庫川沿いに上がっていって、多分有馬温泉方面に抜ける街道があるっぽい)に迂回して播磨に逃げようとしたら、赤松勢に読まれてて待ち伏せされ、ほとんど全滅させられたと。
細川高国も、逃げ遅れてしまって尼崎の町中に隠れ、藍染屋の瓶に潜って隠れていたのを見つかった。
捜索に当たった三好一秀は、まくわ瓜を大量に用意して、町の子どもたちに「細川高国っていうおっさんがどこかに隠れてるから、見つけてくれたらこれ全部あげるよ」と唆して探させた、という逸話がある。
細川高国の処刑で、畿内を舞台に長らく繰り広げられた細川氏の家督争いが、ようやく決着する。
堺幕府崩壊
大物崩れで宿敵の細川高国を倒してしまうと、さしあたり外に戦う相手がいなかった。
そうなると、堺公方一派の内紛が燃え上がってしまう。
ここで、木沢長政が出てくる。この人も相当面白い人みたいだけど。
浦上村宗が摂津に攻めてきたとき、堺公方について京都の方を守ってたはずなのに、細川高国が来るとなったら雲隠れした。
ところが、大物崩れで三好方が勝ったとわかった途端にまた姿を表したと思ったら、細川高国の従弟である細川尹賢をとっ捕まえて切腹に追い込んだ。
それを手柄にまた三好・細川晴元に接近し直したんだろうけど、立ち回り素早すぎる。
堺公方一派は、まあ普通に考えて、自分らが担いでる足利義維を将軍にするために、現将軍の足利義晴を下ろそうとする。
波多野稙通ら丹波勢は立場が違うから、もしかすると兄弟の仇である細川高国を倒せるなら将軍まで討とうとは思わないかもしれんけれども。
少なくとも阿波の細川晴元や三好元長は、「京都から淡路に追われていた先代将軍の遺児・足利義維を復権させる」って名分で畿内に進出したわけだし。
しかし細川晴元は、ここまできて現将軍の義晴と和解してその管領に収まろうとし始めた。
当人としては、細川家の家督争いは細川高国を倒して決着がついた。ならあとは幕府管領としての立場をつかめればいいのであって、別に将軍が誰でもよい。正式な将軍ではない堺公方足利義維より、すでに将軍である足利義晴の方が早い……ってことか。なんかサイコパスめいてる気がせんでもないが。
で、足利義維を将軍に、という三好元長と対立する。
木沢長政は、河内守護大名の畠山義堯の家臣だ。畠山義堯は、細川晴元の姉妹を正室に迎えているから、義兄弟の関係にある。それで畠山義堯も堺公方方として天王寺の戦いなどに参加していた。
しかし木沢長政、主家の畠山義堯から河内守護職を奪おうと企てたり、そのために細川晴元に取り入ろうと動き出した。
畠山義堯からすれば、木沢長政の動きは裏切りだし、裏切り者と組む細川晴元との関係も悪化する。そして敵の敵は味方、細川晴元と対立する三好元長と結束するようになる。
畠山義堯・三好元長が木沢長政排除に乗り出し、居城の飯盛山城に攻撃を加える。
木沢長政は策謀の限りを尽くし、三好一族だけど元長と仲が悪い三好政長(宗三とも。宗三左文字を持ってた人)を抱き込んだり、細川晴元に仲裁を頼んだり、はては山科本願寺に協力を求めた。
法華宗と一向宗は大体仲が悪いもんだけど、三好元長が法華宗の熱心な信者だった。それで本願寺から嫌われていた。
山科本願寺から、門主の証如が直々に出陣して、近畿圏の本願寺門徒を呼び集めながら河内へ。そして3万に膨れ上がった一揆軍は、飯盛山城を包囲している畠山義堯・三好元長の軍勢を背後から襲撃した。
畠山・三好軍は壊滅。畠山義堯も敗死。堺の顕本寺に逃げ込んだ三好元長も、無数の門徒宗に包囲されてもはやどうしようもなく自害。享年わずか32歳。腹かっさばいて臓物取り出して天井に投げつけたとか。
そして、堺公方・足利義維も後ろ盾を失い、阿波へと逃れていった。
この後、あまりの大軍になってしまった一揆衆は、このまま他の宗派を叩き潰せとコントロールを失ってしまい、大和国へ突入(天文の錯乱)。
興福寺を焼き払い春日大社の鹿を殺して食いと大暴れ。筒井順興など大和の武士が必死になって奈良から追い出しにかかる羽目に。そしてこの一揆衆がさらに事態をややこしくしていく。
長慶元服す
三好元長が死んだのは1532年で、長慶はまだ10歳だった。
その頃、門主の証如にも止められないまま奈良で大暴れする一向一揆が、京都に殴り込んで法華宗を叩き潰しにくるぞと噂になっていた。
細川晴元は、自分らで煽った一揆ではあるんだけど、室町幕府の管領になるまでもう一息という立場になってて、天下を治めるべく一向一揆鎮圧に乗り出した。
当然、証如は裏切られたと思って、このまま仏敵細川晴元討つべしと一揆を煽る。
黙ってやられるかよと京都の法華宗も武装して蜂起。
さらに、本願寺が嫌いな近江守護六角定頼も呼応。
法華一揆衆は京都近辺の一向一揆衆を撃破し、山科本願寺を包囲、焼き討ちして消滅させた。
証如はさすがに懲りたみたいで、教団の本拠地を、失われた山科本願寺から石山本願寺に移した。そして細川晴元の養女を長男の顕如と婚約させて和睦。
この和睦は、わずか11~12歳の三好長慶が斡旋したという文書があるそうだ。
さすがに、三好元長の子という立場を使って、後見人の親族が書いたんじゃないの、とはいうけれども。
そして三好千熊丸は元服して、三好孫次郎利長と名乗った。(ややこしくなるからここでは引き続き長慶で)
官職は伊賀守を称した。
初陣かはわからないけど、摂津越水城の戦がこの頃。今の西宮にある城で、阿波と畿内の中継点としていい場所だったから、後に三好長慶の本城として使われることになる。
かつて越水城を建てた瓦林氏という一族が、本願寺の停戦を受け入れない一向一揆衆と結託して城を占領していた。それを攻めて奪還した。
その後本願寺では、和睦を受け入れない下間頼盛らが徹底抗戦を訴え続け、証如もわずか1年ほどで和睦を破棄してしまう。
この時、三好長慶は本願寺に味方し、細川晴元や三好政長と戦った。
1535年には本願寺が敗北し、改めて和睦。
三好長慶は敗軍の将となってしまったが、木沢長政のとりなしもあって、細川晴元の家臣として帰参することを許された。
本願寺も細川晴元・木沢長政も親の仇ということになるのだけど、まあ、戦国の習いというやつだろうか。
細川晴元の下で
とりあえず落ち着いた三好長慶は、1539年に、かつて父・元長が努めていた河内十七箇所代官の職に、父と仲が悪かった三好政長が就いていることにクレームを入れ、自分を任命してくれと訴えた。
最初は細川晴元に訴えたけどスルーされ、長慶は2500人の軍勢を率いて京都に上がって、将軍足利義晴に訴えに行った。本願寺もバックにつけていて、なんだったら三好政長と戦争するぞという態度。
三好政長は丹波に居たが、そんな喧嘩腰で来てるならとこちらも軍勢率いて京都に来て、長慶と小競り合いを起こす。
そんな強訴を受けた将軍が、びびって能登畠山氏や若狭武田氏などに出兵を求めたりしたもんだから、長慶もそんな誰彼構わずケンカするわけにもいかず、調停を受け入れて三好政長と和睦。
結局、河内十七箇所代官の職は得られないまま撤退した。
とはいえ、まだ17歳そこらのこの時点で、軍勢率いて上洛して将軍をビビらせるような存在になっていた。
この頃、長慶は居城を摂津越水城に置いて、摂津守護代の立場も得た。
三好一族の本拠は阿波で、畿内にいられなくなったら阿波に戻って雌伏するのが三好のパターンなんだけど、長慶はこの後、摂津や河内に根を張って阿波には戻らなかった。
それから、波多野稙通の娘を妻に迎え、嫡子の三好義興も生まれている。
名前も、三好利長から三好範長に変えている。ややこしいからこの先も長慶でいく。
NM(長慶・政長)砲時代
ダブル細川がモメ続けたように、ダブル三好の長慶と政長、対立するのかと思いきや、この時期はむしろふたりがタッグを組んであちこちに戦に出ることが増える。
王と長嶋のON砲、馬場と猪木のBI砲ならぬ、長慶・政長のNM砲、この時代なら最強のタッグといえるのかもしれない。
塩川政年という人が、細川高国の妹を妻にしていたものだから、高国派の残党だとみなされた。それで、細川晴元が長慶・政長に討伐を命じる。
しかし塩川政年の親戚にあたる伊丹親興や三宅国村などの国人が反発、木沢長政も味方につけて細川晴元と対立した。
木沢長政らは、一度は三好長慶を敗退させたりもしたものの、そのまま京都まで攻め上って将軍を抱き込もうと調子に乗った。
しかし、将軍が近江に逃れてしまい、木沢長政は幕府を攻撃した逆賊ということになってしまった。
決起した塩川政年らも細川晴元と和睦してしまい、はしごを外されたように木沢長政は孤立。しかも、本拠地である河内でも政変が起きて味方を失った。
木沢長政は二上山城で、畠山稙長軍(遊佐長教)・細川晴元軍(三好長慶・政長)の連合軍と戦い、敗れた。
この戦は太平寺の戦いといわれる。木沢長政が追い込まれて死んだのが太平寺だった。
細川高国の養子で、細川尹賢の子である細川氏綱が、和泉国から断続的に反乱を起こしていて、長慶・政長も何度もこの討伐に当たっていた。
最初は討伐されて終わりだったのだけど、1546年には、畠山政国を味方につけることに成功。それで、将軍足利義晴までもが氏綱についた。
細川晴元・三好長慶は立場が悪くなり、摂津国人も細川氏綱側に続々と寝返っていく。
ここで長慶は阿波に援軍を求めて、長慶の弟である 三好実休(義賢)・安宅冬康・十河一存が救援に来て巻き返す。
摂津を一気に取り返し、そのまま京都まで奪還。
将軍足利義晴も京都東山の将軍山城で頑張っていたけど、情勢が厳しいと見てまたもや近江坂本に撤退。京都も細川晴元が取り返す。
そして長慶兄弟と政長の連合軍は、河内の高屋城に残る細川氏綱・遊佐長教の軍勢を、舎利寺の戦いで撃破。反乱は鎮圧される。
足利義晴も、まだ幼い足利義輝に将軍職を譲ってしまい、細川晴元と和解した。
ここまでは、三好長慶と三好政長は、共に細川晴元の将として協調していた。
この辺の揉め事が終わった1548年、三好孫次郎範長は、三好筑前守長慶と名乗りを改める。
江口の戦い・細川晴元没落
細川氏綱の反乱が収まった1548年、摂津池田の国人・池田信正が、氏綱側に味方したという、すでに許されているはずの罪をまた問われてで、細川晴元から切腹を命じられた。今なら憲法39条で一事不再理を禁じられているのに。
その後継者になった池田長正が、三好政長の娘を母に持つ外戚だった。池田家の家政に三好政長が手を突っ込むようになって、池田家の家宝まで三好政長に渡ったりして、摂津国人衆からの反発が起きた。
国人衆からの訴えが三好長慶に届いて、長慶は三好政長・正勝親子の追討を細川晴元に願い出る。もし拒否されるとあれば細川晴元に背くとまで、摂津国人衆に約束していた。
そして細川晴元は、三好政長追討を拒否。
三好長慶は、細川氏綱や河内畠山氏の実権を握る遊佐長教と結び、細川晴元に反乱を起こした。もちろん多くの摂津国人もこちらに。
以前から細川晴元の重臣だった茨城長隆や伊丹親興などのごく一部と、六角定頼など周辺国の大名は細川晴元・三好政長方についた。
長慶はまず、三好正勝の摂津榎並城(今の野江内代駅あたり)を包囲。
榎並城は、今は遺構もなにもないんだけど、当時はかなり堅城だった(今見ると平野なんだけど、当時は川を上手く使った水城だったのかと思う)。このまま八ヶ月に渡る長期間の籠城戦になる。
その間に、京都にいた三好政長が救援に来ようとする。が、摂津はほとんど長慶の味方。淀川沿いに直行するのはとても無理で、一旦丹波に入ってから山を越え、猪名川に沿っておりてくる迂回ルートを取るしかない。
そうすると池田とか伊丹に出るんだけど、伊丹親興は三好政長に味方している。その援助を受けて、榎並城へ向かう。
長慶は、榎並城の包囲を続けつつも、三好政長を迎撃。撃退して、そのまま伊丹城に追い込むことに成功。
細川晴元はというと、六角定頼に援軍を要請した。
そして三好政長と同じく山手を迂回して猪名川を下ってきて、西宮や尼崎あたりに放火して、長慶の後方を脅かす策に出た。
そして、六角の援軍を迎えられる拠点とすべく、芥川山城の攻略を狙ったが、これは三好長逸に阻止された。それで結局、三宅氏という摂津国人の三宅城を拠点にした。
それから、三好政長が江口城に入った。
榎並城の北で、淀川と神崎川で三方を囲まれた守りやすい城で、ここで持ちこたえて六角定頼の援軍を頼ろう、とした。
が、水上封鎖されると逃げ場がなくなる城でもあり、長慶方の包囲によって糧道も絶たれて孤立してしまった。
六角軍の救援を頼りに籠城する三好政長だったが、長慶はあえて援軍到着ギリギリまで粘って疲弊させたところを、一気に攻め込んだ。
籠城軍は壊滅して、政長本人をはじめ、多くの将兵が討ち死にした。
細川晴元はまた丹波経由で京都に戻ったものの、三好長慶が細川氏綱と共に上洛してきたため、さらに近江まで逃れるしかなかった。
三好政勝も、榎並城は守りきったものの、もうどうしようもないので城を捨て、細川晴元とともに逃れていった。
将軍足利義輝・大御所足利義晴も、彼らと共に近江へ。
これで、細川晴元の政権は崩壊して、三好長慶が実権を握ることになる。
三好政権始まる
1550年ごろから、天下人のような立場になった長慶。
前将軍足利義晴は、京都奪還のために中尾城という城を建てて捲土重来を目指す。中尾城は銀閣寺の裏山にあった、坂本から東山を越えて京都に攻め込む橋頭堡か。
足利義晴は城の完成直前に病死してしまったが、将軍義輝は入城。
そして摂津から上がってきた三好軍と将軍方の戦いになる。
最初にしばらく小競り合いをしている時期があったけど、このときに幕府軍が鉄砲を使って三好方の兵を撃ったと聞いた山科言継が日記(多分言継卿記か)に書いて、それが日本初の鉄砲実戦使用の記録らしい。
三好長慶は、中尾城の周りの町を焼いて、さらに近江にも兵を出して琵琶湖西岸の方を攻撃、将軍方の背後を脅かした。それで足利義輝は撤退して、叡山を越えて坂本へ戻り、さらにもっと北の堅田にまで引いた。
これで京都もしばらく落ち着くかなあと思いきや、長慶が将軍に和睦を申し込んだけど不首尾。
1551年には二度に渡って、長慶暗殺未遂事件が起こる。
また、河内の畠山氏を乗っ取って、三好長慶に娘を嫁がせることで三好政権の有力者に収まっていた遊佐長教が、こちらは本当に暗殺されてしまった。これも将軍の陰謀……と思ったら実は違って、河内の勢力争いの一環だったらしいが、ともかく長慶は遊佐家の混乱を収めるのにも手を取られる。
で、チャンスと思って将軍方の三好政勝・香西元成が京都に攻め込んできた。
長慶は松永久秀・長頼兄弟に4万の大軍を預けて迎撃に当たらせ、相国寺に陣取る三好政勝らを撃破。
松永久秀はここで登場。いきなりな感じがあるけど、どうも三好長慶は身分を問わずに使える人物を抜擢するようで、いつの間にか4万の軍勢を率いる立場に登っている。
弟の松永長頼の方がちょっと早めに活動し始めていて、長慶が京都奪取を果たした1549年には、京都の防衛担当を任されていた。むしろ真面目な弟が信頼されて、兄は引き立てて貰ったという話もあるとかで。
相国寺の戦いの後、三好政権は将軍と和睦して、また京都に迎え入れた。
細川晴元の管領職は剥がして、細川氏綱の方に付け替えた。
これで、また形の上では将軍を推戴して、管領細川氏が支えて、という状態に戻った。
細川晴元は、若狭武田氏の武田信豊を頼って逃げていった。
(しかしうぃきぺの武田信豊のページ、1542年に細川晴元の要請で太平寺に依る長慶を攻めたとあるけど、1542年なら長慶は細川晴元の下で木沢長政と戦ってるはず。細川晴元と武田信豊が義兄弟というのも、どう縁戚かよくわからなかった。なんだろう?)
このへんで、長慶の父・元長が堺公方を担いでた頃から協力していた丹波の波多野氏が、三好長慶と対立しはじめた。
この頃の当主は波多野晴通だったけど、姉妹が長慶と結婚していたから義兄弟の関係……なんだけど、それを長慶が1548年に離縁してしまった。
1549年の江口の戦いの時にもすでに、長慶と対立する細川晴元や三好政長が丹波経由で摂津に攻めてきてる。波多野晴通が協力してたことになるのかな。
1552年、また細川晴元が京都奪還を企て、波多野晴通が協力して挙兵。
じゃあ波多野の八上城を攻略しようと包囲したけど、ここで芥川山城の主である摂津国人芥川孫十郎が波多野に内通するなどして、包囲軍は撤退。
そして将軍足利義輝まで細川晴元に近づいて、また京都東山霊山城に入って対立の姿勢を見せる。
芥川孫十郎も、一度長慶に恭順したと思ったらまた反乱を起こして芥川城に籠城。
3方向に敵がいる状態になったけど、1553年には松永久秀が細川晴元を叩いて八上城まで攻め上がり、京都も長慶自身が制圧して、将軍足利義輝はまた近江に、それも坂本や堅田よりさらに北に遠い山奥の朽木にまで追いやった。
芥川山城へ
そして、長慶は芥川孫十郎を攻めて芥川山城を奪取。居城を越水城から移した。
信長の野望とかで出てくる三好家は、大体芥川山城が居城になってるけど、実際この頃の摂津では重要な拠点になっていた。現在の高槻市で京都にかなり近いから、京阪間を支配するならこっちのほうがよさそうではある。
松永久秀・長頼の丹波攻略に加え、三好長逸も播磨方面に進出。三木城の別所氏を攻撃して支配下に置いた。
1550年代中頃は、ひとまず細川晴元や将軍との対立が落ち着いて、三好氏が外に進出して勢力を伸ばす時期になった。
しかし1558年にまた将軍義輝が、細川晴元や三好政勝といったいつものメンバーと共に、いつものように六角義賢(1552年に定頼から代替わり)の支援を受けて、いつものように京都奪還を計って攻めてきた。(北白川の戦い)
いつものように京都東山の山城が舞台になるが、今回は岩成友通が将軍山城を奪取して布陣した。将軍側は近くの如意ヶ嶽に布陣。
如意ヶ嶽に布陣するほうが有利で、岩成友通が一度将軍山城から退去したけど、なぜか将軍が喜んで将軍山城を奪取した。岩成友通は如意ヶ嶽を奪って、両軍の陣地が入れ替わるという、なんか変な戦になった。
岩成友通は三好三人衆といわれる長慶の重臣になっていくんだけど、武将として現れるのはここから。やっぱり出自のよくわからない、松永久秀同様に抜擢された人材らしい。
しばらく戦は膠着していたけど、また阿波から長慶の弟三人組(三好実休・安宅冬康・十河一存)がやってきて、戦況は三好方有利に。
また六角義賢の口利きで、将軍義輝と長慶の和睦が成立。将軍は5年ぶりに京都に帰った。
そして細川晴元は和睦に反対してまた放り出され、近江坂本に逃げたようだ。
北白川の戦いに勝利を収めた1559年頃が長慶の最盛期とされていて、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨が勢力圏。
関東では北条氏康が氏政に家督を譲った頃。版図の広さでは後北条氏と三好は同じくらいだけど、この頃の畿内と坂東の田舎ではかなり違うので、やはり最大の大名というと三好氏になる。
武田信玄と長尾景虎はやっぱり喧嘩し続けている。
中部では、桶狭間の戦いが起こる前年。つまり今川義元が織田信秀と争って、三河から尾張へと勢力を伸ばしてた頃。
北陸は、朝倉宗滴が1555年に亡くなって、朝倉義景が名実ともに朝倉家の主になっていた。
中国地方では毛利元就の勢力が伸長して安芸から長門あたりまで勢力下に置いて、石見銀山を取ろうと尼子氏と戦争中。
九州は、大友宗麟が勢力を広げ、九州探題に叙任される最盛期。島津は貴久の時代で、薩摩は統一して大隅へと勢力を伸ばそうとしている頃。
久米田~教興寺の戦い
河内国は、遊佐長教の暗殺で河内守護家の当主に就いた畠山高政が主ではあるけれど、やはり混乱していた。遊佐氏も引き続き勢力があり、安見宗房などの有力者もいる。
長慶も介入するけど、畠山高政と協力したと思ったら対立、安見宗房とも対立しては和睦と、かなりごちゃごちゃしている。
その過程で長慶の勢力が河内にも広がっていき、1560年には河内飯盛山城に本拠地を移した。飯盛山城はかなりの巨城なんだけど、これは長慶が改修してそうなったらしい。
京都には芥川山城の方が近くて、まあ淀川の水運も使えて便利にも見える。
飯盛山城は京都から遠いわけでもなく、河内はもちろん大和にも近いし、堺にも近くて阿波への連絡も便利ではある。
長慶自身、もう隠居したい気分もあって、最重要拠点の芥川山城を息子の義興に譲って、飯盛山城でバックアップに努めようとしたのかも……という説も。
しかし、河内の混乱の中で、長慶と畠山高政が対立していった。
長慶が安見宗房を討って畠山高政を助け、河内に戻したのにも関わらず、畠山高政は、長慶が守護代に立てた湯川直光を罷免、安見宗房を呼び戻してしまった。この敵味方がぐるぐる変わる背信行為が原因と。
1561年から、河内畠山氏と六角氏が同盟して、三好長慶と対決姿勢に。
岸和田城にいた十河一存が病死し、チャンスと見た畠山高政は岸和田城を包囲。
同時に六角義賢は、近江から京都に出兵して将軍山城に2万の軍勢を送り込む。
長慶は、三好実休を大将に、淡路・阿波衆を加えた援軍を岸和田城に送り、久米田寺近くの貝吹山城に入れた。
京都方面は、三好義興・松永久秀の軍勢を向かわせた。
これがどちらも苦戦となる。
岸和田では、畠山高政が紀伊国から湯川州・雑賀衆・根来衆などが動員、さらに河内の諸将が結集して、久米田の戦いに至る。
大軍同士が激突する戦だったけれど、三好実休の本陣が手薄になったところに根来衆の鉄砲隊が襲いかかって、実休が討ち取られてしまった。
これで三好方は総崩れになり、淡路・阿波衆は四国へ撤退。実休の城だった高屋城も降伏して、畠山高政に明け渡された。
実休戦死、和泉方面敗北の報せが伝わると、京都の三好義興・松永久秀も洛中から引いて、摂津国境の山崎城・勝龍寺城まで引いた。
六角義賢は京都に入った。
さらに大和国でも反三好の国人一揆が起き、それらが優勢の畠山高政軍に合流。
河内の三好方諸城を攻略して、ついに長慶の籠もる飯盛山城を包囲する。
長慶は大苦戦となったが、洛中から引いてきた三好義興・松永久秀が摂津・丹波の諸将をまとめて軍勢を大きくしつつ、さらに阿波・淡路衆とも合流。5万の大軍となって飯盛山城救援へ向かった。
これで体勢が建て直されて、三好・畠山の決戦である教興寺の戦いになる。
鉄砲を警戒して雨の日を選んで畠山軍に攻めかかった三好軍は、かなり一方的な感じに畠山軍を粉砕。
大和から来た国人衆を追撃して大和国まで侵攻、河内もどんどん平定し、岸和田城に残っていた安見宗房も攻めた。六角義賢も、河内の大敗北を見て京都から撤退、和睦した。
結局、一時的な苦戦はあったものの河内を支配下に治めた。
が、どうもこの一連の戦いの中で、長慶自身はずっと飯盛山城から出陣していなかったようだ。病気だったんじゃないか、ともいう。
三好氏の退潮
勝軍地蔵山の戦いが起きていた京都では、将軍足利義輝は、珍しく三好長慶に味方していた。
三好義興・松永久秀が山崎城・勝龍寺城に引いたとき、足利義輝も京を離れて石清水八幡宮に構えていた。
伊勢貞孝という、室町幕府政所(財政と領地に関する訴訟を司る役)を代々務める有力者があったのだけど、彼がこのときに将軍に従わずに京都に残り、六角氏の下で仕事を続けていた。
将軍ないがしろの行為だし、六角義賢が三好長慶と和睦して撤退したら立場をなくしてしまった。
それで更迭され、破れかぶれじみて兵を挙げたものの、これはもちろん松永久秀に鎮圧され、討ち取られた。
さらに和泉国で根来衆、大和で多武峯宗徒(今の談山神社あたりで、十市遠勝が率いて松永久秀の侵攻に抵抗していた)と衝突。あちこちで戦闘状態に。
さらに、わずか22歳の若さで、長慶の後継者であるはずの三好義興が早逝した。
他に子もなく、長慶には病もあって、甥の中から後継者を選ぶことにした。
それでなぜか、十河一存の遺児・重存を養子にして三好義継とした。
弟の安宅冬康はまだ30代半ばなんだから、継がせてもよかった。
三好実休には遺児が三人いたから、そこから選べばややこしくもない。
十河重存は十河家の唯一の跡取りだったから、代わりに実休の次男が養子に入って跡取りにならなきゃならなかった(十河存保)。
三好義継の母が九条家出身だから選ばれたという話もある。足利義輝の母が近衛家出身だから、それに対抗できる九条家の血で、朝廷への影響力を持とうとしたんじゃないかと。
そしてそんな変な後継者選びの直後、長慶はなぜか安宅冬康を飯盛山城に呼び出して誅殺してしまった。
もっぱらの噂では、松永久秀が「安宅冬康には逆心がある」と讒言したという。
三好一族の有力者も減っていて、久秀よりも立場が強いのは安宅冬康くらいだから、除いてしまえば三好家を牛耳れる、と考えたんじゃないかと。
ただ、最近の説だと、松永久秀が策謀家だというのは後世につけられたイメージで、実際は忠臣タイプだといわれる。
久秀以外の何者かから讒言があったんじゃないか、ともいう。
安宅冬康に人望があったのに、それでも三好義継を立てたことから軋轢が生じていて、「冬康に逆心」という讒言を信じやすい状況ができてたのかもしれないと。
九条家の血のために義継を立てた、そしてそれ以上の有力者が家中に残っていてはいけないから、讒言が冤罪であろうとも冬康を排除するしかなかった、という論もある。
あるいは、長慶の病が重く、鬱病だったともいわれている。
それで変に冬康を疑ってこじらせていったとか、あるいはもう絶望して三好氏ごと滅んでしまおうと心中のように殺してから自分も死んでいったとか。
長慶死す
そして1564年7月4日、三好長慶は飯盛山城で病死する。
享年は43歳で、いくら室町時代といっても三好家の人々はわりと早死するような感じがあるなあ。
三好家は、まだ15歳くらいの義継を、三好三人衆(三好長逸・三好政勝・岩成友通)が後見するという体制になっていく。
長慶の死に乗じてまたもや、幕府の権力を取り戻そうと足利義輝が動き出す。長尾景虎やら武田信玄など諸大名に働きかけ、上洛させて後ろ盾にしようとしはじめる。
三好側からは、もう義輝を下ろして、かつて堺公方として担いだ足利義維の息子・足利義栄を担ぎ出して将軍にしようとする。
そして1565年、三好三人衆と松永久通が、二条御所に押しかけて将軍を弑逆してしまった。
さすがにこれで三好氏に対する諸大名の印象も悪化していく。
そして、将軍になりたい足利義昭があれこれ頼る先を探すうちに、織田信長が釣れる。まだこの頃は美濃平定の最中だけれど、その後どうなるかは知っての通りで。
三好家は、三好三人衆と松永久秀が対立してまたごたごたと争いになる。
担いでいた足利義栄は将軍になれたものの、病気によってすぐに亡くなる。
丹波地方に松永長頼がいたけど、これも丹波の赤鬼こと赤井直正に討たれた。
三人衆が大和の久秀を攻撃する形で、家中は分裂状態に。三人衆が疲弊していくにつれて、阿波衆の篠原長房のほうが有力になっていく。
信長が美濃を平定し、浅井長政とともに足利義昭を連れて上洛。
三好義継・松永久秀は信長に従うことを選び、三人衆は戦って敗れた。
阿波衆の三好長治、讃岐の十河存保は信長と対立するものの、こちらは長宗我部元親が伸長するのに飲み込まれていく。