堺風の頭部

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摂津越水城を見に行った

 越水城は現代ではいまいちメジャーではないけれど、三好長慶が阿波から畿内に進出したとき、その第一の居城とした城だった。信長でいえば岐阜城くらいのポジション。
 場所的にも、下関から京都まで続く西国街道に、大坂から尼崎を通ってきた中国街道が合流する交通の要衝で、また阿波三好氏との海運にも便利。
 長慶が芥川山城に移った後も松永久秀が入るなど重要さは変わらず、長慶死後の三好氏が分解していく過程にも篠原長房が抑えて居城とする城だった。

 しかしほんとに現代では影が薄い城址に成り果てている。どういうわけなのか、現地に飛んだ。

 

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 越水城の最寄り駅……といういのは絶妙に無い。阪急夙川駅、JRさくら夙川駅西宮駅阪神西宮駅があんまり変わらない中間点。
 とりあえず阪神で向かうことにしたら、なんば駅で特急ひのとりが。これシャア専用みたいなカラーリングに、遠目にジオン公国っぽいマークがついてるから勘違いするなあ。

 阪神西宮は南側が、西宮神社があったりしてにぎやかだと思うけど、北側は少々地味な裏町っぽい。
 駅のすぐ北で国道2号と171号が合流する交差点があり、そこが現在では西国街道中国街道の合流点となるのかな。徒歩で来るとさしてにぎやかな感じでもないけれど、多分ロードサイド店が多いのかと思う。

 

西田公園

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 阪急の線路まで来ると、ガード下がずっと商店街になって続いている。西に夙川駅があるから、そっちまでつながってるんだろう。

 で、商店街に沿って歩くと、西田公園という大きめの公園があったので立ち寄ってみる。
 斜面を削った段差の大きい公園で、そこに万葉植物園が作られていた。植えられた植物に、万葉の頃の呼び名と読み込まれた短歌を紹介する案内板がつく風雅なもの。

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 ちち、という名前も由来がよくわからんけど、イヌビワという名前も「ビワっぽい実をつけるけど美味くないから」とつけられたというのに、そもそも全然ビワに似た実じゃないという謎のネーミングらしい。実際似てないな……。

 しかし大多数が春の花で、この時期に行っても一面の緑って感じ。春に行こう。
 公園時代は立派なもんで、近所にあったら毎年春に通ってたと思う。

 

越水城址

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 西田公園からすぐ北、西宮市立大社小学校の南東端に、城址碑あり。

 越水城は戦国時代に廃城されているので、あまり遺構も残っていない。どこまで城の敷地だったかもよくわかっていない。
 この城址碑も、もとはこの場所ではなく、北東に100mほど行った中弥兵衛さんという方の自宅に建立されたもの。
 中氏邸宅も大社小学校も、おそらく城の敷地内にはあるっぽい。

 案内板によると、この大社小学校がある丘は、1351年に足利尊氏と弟の直義が戦っているときに、小清水の陣所が構えられたらしい。
 その後、1516年、細川高国に従う国人・瓦林正頼が越水城を築城。南北200m・東西100mの大きさで、現在の城山・桜谷・満池谷・清水の4町にまたがる結構に立派なもの。

 また、日本で初めて天守を構えた城は伊丹城という説が強いけど、越水城にもあったという説も。(もしかするとこっちのほうが早かったという説まであり)

 瓦林正頼は、阿波から攻め上がってくる細川澄元を迎え撃ったけど敗退。しかも細川高国から内通を疑われて切腹させられた。
 代わって三好長慶が入場。瓦林氏も一向一揆と結託して一度は越水城を奪い返すものの、また取り返されて長慶の居城に。

 長慶死後には篠原長房が入って、一時は足利義親(後の14代将軍足利義栄)を迎えていたような重要な城ではあったものの、信長の入洛によって三好政権が瓦解、それで「戦略的価値が消えました」と案内板にはある。
 主要街道の交差点を抑える大規模な城が戦略的価値を失うというのも今ひとつ理由がわからんけど、一説では、「でかい城があるから戦争に巻き込まれて困る」と西宮の町衆が信長に頼んで廃城にしてもらったなんて説も。

 越水という名前は小清水とも書いて、3箇所の良い湧き水があったのが由来とのこと。2箇所は現存していて、阪神大震災の時なんかは実際に水源として役立てられていたとか。

 

廣田神社

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 せっかくだから、廣田神社にも寄っていくことにした。
 西宮の「宮」というと西宮神社のことかのように思えてしまうけれど、あれは元々廣田神社の戎社だったところ。
 廣田神社は創建の由来が日本書紀に書かれている古社で、朝廷から従一位に位階される和歌の神様。しかし祭神は天照大神の荒魂なんだけど、それが和歌の神様になるのね。由来なんだろう。

 大阪にも廣田神社が、今宮戎神社のすぐ北にある。西宮も、西宮戎の北に廣田神社がある。日本書紀神功皇后の創建だと書かれているのも同じ。

 

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 参道はこの通りのきれいさ。平成25年に大鳥居が竣工したらしいので、その前後に整備されたのかな。(ただ案内看板だけは早くもボロくて読むのが難しいくらいで、どうしたことか)

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 こちらは二の鳥居。

 神明鳥居っぽいけど、笠木は角材で少し反りあり、楔があり、貫も角材で楔有り。一の鳥居も同じだから、廣田神社はこの形なのかな。
 笠木が四角じゃなくて五角形なら伊勢鳥居なんだけど、ちょっと写真でよくわからないな。

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 縄を下げてるのも。

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 社殿。立派。

 しかし、かつては伊勢神宮荒祭宮の社殿を譲り受けたものが建っていたのに、1981年に失火で消失して再建された新しいものだとかで。えらいもん燃やしてもうたなあ。

 現代では阪神タイガースの崇敬が厚い神社で、境内にちらほらそういうのが見える。奉納された酒樽に阪神のマーク描いてたり。

 

 意外と社殿は多くない神社だったけれど、境内の半分くらいは公園として整備されていた。
 コバノミツバツツジが群生していたりもするそう。4月くらいに行けば咲いてるか。

 

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 ところでちょっと西にある境外末社の塞神社に寄ってみると、なんか玉垣の石材を足で踏むようなところに利用なのか放置なのかしてあって、こんな扱いの玉垣は初めて見たから面食らった。

 

西宮震災記念碑公園

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 震災慰霊塔。余計なこと言えないし言う気もないな。一礼していった。

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 犠牲者の名前を刻んである慰霊碑に、こういう当時の写真を焼き付けたのが並べられていた。前に立って見る人が今もいるのがわかる。

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 それから野坂昭如がこのあたりで「火垂るの墓」を書いたそう。

 

ニテコ池

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 このあたりは結構な高級住宅地なのだけど、なんだか妙な池がある。
 溜池にしては農地がないし、川が流れ込むわけでもなさそう。

 何かと思えば、室町時代に西宮神社の大練塀を作るために採土したら、雨水が溜まって池になっちゃったものだとか。

 この池の西側に、松下幸之助が自宅を構えていた。
 光雲荘と呼ばれたその建物は、日本の建築技術を300年後にも伝えたいという幸之助翁の遺志のもと、今はまるごと移築されて、枚方パナソニック敷地内にある。でも現在は非公開ですと。パナホーム関係者に伝わればええんかいな。

 

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 帰りは苦楽園口駅から阪急。