堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

亀岡に丹波亀山城を見にゆく

 御城プロジェクト:RE名脇役キャラといえば、丹波亀山城(たんかめちゃん)もそのひとりといえる。(安土城坂本城のおもちゃとして)
 本物の所在地も、京都市内からはさほど遠くない、嵐山から保津峡を越えたらすぐのところ。そのうち行こうかと思っていたが、11日の行政書士試験が無事に終わってほっとした13日に行ってみることにした。

 大阪から京都駅まで新快速、山陰本線嵯峨野線)に乗り換えてしばらく。

 明智光秀丹波の主となり、山崎の戦いに敗れるまでの最後の居城だった城で、世間的に謀反人とされる明智光秀丹波では名君と名高いというが、どんなものであろうか。

 

目次

 

石田梅岩など

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 駅を降りるといきなり、石田梅岩という人物のアピール。
 次の大河「麒麟がくる」は明智光秀の話だというのに、こちらが先に来た。
 先に来ただけでなく、町中にいくつも梅岩の教えを書いた立看板があるくらいで、かなりプッシュしていた。

 士農工商の職分について、以前は武士が説いていたからいまいち商人・商業がわかってない説が広まっていた所に、商人の仕事も劣らないという論を打ち立てるなどした「心学」なるものを説いていたとのこと。

 

 駅南口の方にいくと、観光案内所の「かめまるマート」があって、寄ってみると謎解きスタンプラリーの用紙があった。(ゆるキャラの「明智かめまる」については公式サイトで)
 同時に2つの謎解きゲームが並行していたが、私がやったのは「第10弾!丹波亀山城下町宝探しゲーム」というやつ。
 城下の3つのスタンプを探し出して押すか、ヒントに書かれた場所に隠された宝箱を開け、そこに書かれたキーワードを集めて完成させるか。

 エリアは特に広大ではないので、多少歩き慣れていれば徒歩でもまわれる。レンタサイクルもあると案内されていた。

 

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 駅から西の方に歩いていくと、石田梅岩の生誕地碑があった。

 奥に見えている赤レンガの壁は、田中源太郎の屋敷だったところ。京都銀行創始者でもあり、今トロッコ列車が走ってる旧山陰本線を敷いた人でもある。(その旧山陰本線の事故で亡くなった)
 屋敷は文化財ながら、料理旅館として使われていたそうで、現在はがんこの亀岡店。

 

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 入って見ていっていいよと看板があったのだが、もしかして入り口だけじゃなくて奥まで行ってよかったのかしら。どこから奥に行けるかわからんかったけど。
 というか、がんこで飯食ってもいい時間だったな。別に建物すごいからプレミア価格だとかいうこともない。

 

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 近くの歯医者さんにこんな看板。同じような開設は、街中にいっぱいあった。
 古地図に書かれている昔の施設の場所に立て札を建てて、建つに至った経緯まで書いてあるから、見て回ると勉強になりそう。こういうのが町の人々の教養レベルを高めるのだなあ。

 

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 宝探しゲームのヒント立て札も、近くの旅行代理店前にあり。
 宝探しゲームのマップには、このヒントを立ててる店舗の表示もある。どこも店舗なので、マップをもっていくと割引などのサービスがある。

 

丹波亀山城

 ようやく丹波亀山城へ。
 ただ、私は西側からアプローチしてしまったが、東から行くほうが好ましい。

 というのも、丹波亀山城は大正時代から宗教団体の大本が買い取って、「天恩郷」という神苑にしている。
 私有地ってことになり、また信者でない私が無断でづかづか乗り込むのも失礼なので、一旦受付に話をつけなきゃいけないのだが、受付が東側だ。

 

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 受付に話して、案内地図ももらって、ルート通りに歩いていく。万祥殿という神社風の祭殿の脇を通って、ちょっと上がるとこの石垣。

 えーと、古地図と見比べると、万祥殿があるのが二の丸で、そこから石垣ひとつ上がるので本丸には入ってるはず。
 で、丹波亀山城は本丸の中にさらに一段上げてあるみたいで、その上げてる部分の石垣らしい。と思うんだけど間違ってるかもしれん。

 この上げてる部分の上にさらに天守台を築いて、五重の層塔型天守があった。
 日本ではじめての層塔型天守だという話。

 

 戦前に大本の弾圧があったときに、裁判で争ってる最中にお構いなしに行政が大本の神殿を盛大に爆破してしまって、この石垣も一緒に結構ふっ飛んでしまったとかで、ある程度より上は後に積み直したものらしい。大日本帝国は史跡を大事にせんなあ。

 

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 これが万祥殿裏にあった石垣だけれど、これが本丸を囲う石垣かな。当時モノなのかはわからない。整いすぎてない感じだから古そうではあるのだけど。

 万祥殿すぐ南には万祥池というのがあるが、これは内堀だったところのまわりを埋めて四角い池として残ったところ。

 

 

 お城は「亀山城」で、地名は「亀岡」というのが不思議な感じがするが、これには悲しい過去がある。
 「亀山城」という城は伊勢にもあったもんで、江戸時代初期に「(丹波亀山城天守を解体しろ」と命じられた堀尾忠晴というどんくさい人が間違えて伊勢亀山城天守を破却しちゃう大規模なやらかしをした。
 それで丹波の方の地名が亀岡に改められたそう。
 なんでモロに間違えられた城のほうがそのまま亀山城と呼ばれ続けてるのか謎いが、別に亀岡城と呼んだって通るらしい。

 

 なにぶん、あまりにも濃厚に宗教施設なもので、そこらじゅうにお構いなしにカメラを向けるのも憚られ、写真は石垣だけにとどめた。
 しかし、地形として城跡だなと感じ取れる形がよく残されていて、大本がちゃんと城址を保存しようという意思をもってたんだろうとは感じる。お構いなしに爆破した大日本帝国政府よりもよほど。
 大本は神道系だから、施設を建てても日本的なスタイル。派手で異様な建物が林立したりしないのもありがたい。

 

 受付がある建物(みろく会館)の2階にギャラリーがあって、そこに亀山城関係の資料を展示してる部屋もあった。ちょっと寄っていくといい。

 

城下町歩き

 さて、宝探しゲームの地図がすなわち城下町の見所を示してくれていると見て、宝探しポイントを巡ってみることにした。

 

王地山稲荷大明神

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 お城を東に出て、ちょっと南東へ。

 小さなお社なのだけど、松平信吉が土浦を治めていたときに祀った荼枳尼が始まりで、1619年に信吉が篠山に転封されて一緒に連れてきた。そして1748年、当時の藩主松平信岑が篠山から亀岡に転封されて一緒に勧請してきた。

 別名に「負け嫌い稲荷」なんて呼ばれている。
 春夏に将軍上覧の相撲大会があったんだけれど、亀山藩の力士はいまいちで毎度負けていた。
 しかしある年、めっぽう強い奴が現れて連戦連勝、他藩の力士を蹴散らしてきた。殿さまは喜んで褒美を取らせようとしたのだけど、なぜか力士は忽然と姿をくらました。
 よくよく調べてみると、この稲荷大明神の化身だとわかったので、絵馬や幟を奉納し、それから負け嫌い稲荷と呼ばれるようになった。

 その強さにあやかろうと現代の関取もくることがあるみたいで、稀勢の里白鵬の写真が飾ってあった。

 ちなみに篠山にも同じような伝説があるそう。私が行ったときには寄らなかったけど、城の東に王地山というところがあったな。

 

古世親水公園

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 すぐそばには、水の流れる公園があった。

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 近くの方は野菜を洗っていったりするらしく、「野菜くずは持ち帰ってください」と水の汚いところじゃ決して見られない注意書きがあった。

 このあたりは昔は桜の馬場という、馬廻組が置かれていたところだったそう。

 

聖隣寺

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 亀山城主が小早川秀秋だった頃、息子の菩提を弔うために米二石の寄贈を受けたと伝わる寺。また、信長の四男が秀吉の養子になって羽柴秀勝となり、晩年に亀岡に来て父信長を弔う供養塔を建てたのもこの寺。
 山門だというのに壁に狭間があるのだけど、事あれば防御施設にも使えるようにされている。戦闘色ある寺だ。

 

古世地蔵堂

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 鵺退治で知られる源頼政を祀る。
 鵺退治の褒美で頼政がもらった丹波の領地がこのあたりで、矢代(矢田)荘という地名の由来になった。
 後に以仁王の挙兵を起こしたが敗れ、討ち取られた。亡骸は、篠山の南東の方、今のつつじヶ丘に葬られて、頼政塚が残る。

 

京町天満宮

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 古世地蔵堂からこの京町天満宮方面の道が、旧京街道だったそう。
 石畳の張り方といい、なんとなく古そうな感じがあるけれど、あまり資料のよく残る神社ではないらしい。解説看板があったけど、もっぱら天満宮だから菅原道真公についての話を書いてるばかりで。
 ここには菅公の木像が納められているとのことだけど、看板にも木像の話を長々と書いてある。「大宰府に流される菅公の形見として家臣が彫っていた木像に、菅公自ら一刀を加えるとたちどころに完成した。その木像は菅公の死後、北野天満宮に納められた。後に兵乱を避けてあちこち移され、今は威徳山宝蔵寺に収められている」って、最後まで読んで別の木像の話されてたとわかるっていう。

 

山鉾庫

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 亀岡にも山鉾を引く祭りがあるみたいで、そこらじゅうに倉庫と紹介看板が建っていた。
 公式サイトによれば、祭りは10月下旬にやるみたいで、山はちょうどひと仕事終えて一年の眠りについたばかりだったようだ。

 亀岡は古い城下町だけあって、道が細くて狭い。家々の人々が間近で見れるんだろう。

 

形原神社

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 篠山からやってきた松平信岑と、その後の歴代藩主を祀る神社。
 松平信岑は形原松平家と呼ばれているので、そこから来た。
 形原松平家は、家康から数えて6代前、松平信光の四男・松平与副からの分家。三河の形原というところに領地をもったことから。

 

 かつてはこの場所が亀山城の大手門だったそうだ。

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 手水舎にマル利の鬼瓦があるが、これも松平の馬印だそう。
 ぐぐってみると、こちらのサイトに由来の説明があった。

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 拝殿はこんな感じ。いつも思うけど徳川はほんと唐破風好きやな。

 

づし小路

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 形原神社前の道を西に行って、ちょっと北にある細い路地に入ってみると、すごい密度で寺社仏閣が詰め込まれている。

 づし(辻子・図子)というのが裏通りのことだけど、本門寺の参道として江戸初期からあった路地だそう。
 西から、大黒さん・本門寺・寿仙院・弘法さん・天神さん・妙見さん・法華寺鬼子母神さんとぎっしり並ぶ。写真は弘法さんから東が写っている。

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 寿仙院。1572年に霊松山浄土寺として創建というが詳細不明。小早川秀秋が息子の菩提を弔うために米二石を寄進した5ヵ寺のひとつで、そのときに壽仙庵と名前が代わった。
 小野木重勝という戦国武将があって、関ヶ原のときには福知山城主だった。彼は関ヶ原では西軍について、前哨戦で舞鶴の田辺城に籠もる細川幽斎を攻撃して開城させたものの、本戦で本隊が大敗。福知山城に籠もったが細川忠興に囲まれて開城。
 助命と所領安堵を訴えていたが叶わず、この寿仙院で切腹させられた。それでここに墓地がある。

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 本門寺。元々日蓮の弟子・日弁が京都二条に創建したが、応仁の乱で焼けて丹波稗田野に移り、そして前田玄以が亀山に入ったときにここに移された。
 明治の頃に、日応という層が丹波に布教したことで信徒が増えて栄えた。この頃の日蓮宗は派閥がややこしいが、本門宗という宗派が生まれてるくらいなので、かなり格が高いところなのかな。

 

本町・町家カフェ

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 このあたりは古い寺が多くて町並みもレトロだったが、城下町歴史街並み案内所としてカフェが設けられていた。
 が、火曜日休み。ヅガン。

 

 さて、これでスタンプラリーと謎解きも一通り回収した。
 ちなみにこの記事に書いてるけど謎解き・スタンプともに関係ない場所もあるし、この記事に書いてない謎解きスポットもあるしで、場所がわかってもスタンプなり宝なりを探さねばならんから、特にネタバレではないぞ。

 

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 腹減ったなー、と思いながら駅の方に歩いたが、なかなか飲食店にぶつからず。あったけど満席だったり、営業中に見えなかったり。

 駅前で「よろづや」という定食屋らしい店を発見。まぐろ造り定食800円也。素朴に美味かった。

 

 電車の時間を見たらちょうどよかったので、駅の観光案内所に戻ってスタンプラリー完遂を報告し、粗品をもらって土産を購入。
 大石酒造の「稗田野の湧水」というのを。珍しく甘口を謳う生貯蔵酒で、確かにフルーティな甘みの強い酒だった。私は辛口が欲しいなら蒸留酒飲むので、この甘口は嬉しい。

 

 そして、駅南東にあった亀岡市文化資料館に寄るのを忘れていた。失敗。