堺風の頭部

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大和高取城と城下町・壺阪寺

 今回また長い記事になっているが、それだけ高取と城下町の見どころが多かったということで。

 

 近畿のお城はけっこう回ったものだけど、大和の国に残されたビッグネーム・高取城をついに攻略してきた。
 今まで思いとどまっていたのは、夏は虫と雑草が、秋はスズメバチがやばいからあまり行かないほうがいいといわれ、冬は冬で積雪とかあってもやだな、とタイミングを測ってたから。

 18年夏にNHKの番組で「最強の城」なんてのに選ばれたそうで、にわかに城ファンの注目が集まってるようだ。
 以前はあまり整備できなくて道も悪く石垣も崩れてたらしいんだけど、今日行ってみたらそこまで悪くなかった。それに、登山道で補修工事をやってる方々も見かけた。予算がついたんだな。

 近鉄電車で阿倍野橋から吉野行きに乗って、壺阪山駅で下車すると最寄り。

 

高取(土佐)城下町

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 駅を出てちょっと北に行くと、こういうレトロ感ある町並みが続いている。ここがメインストリートで、そのまま真っすぐ城に向かう。

www.hinameguri.jp

 今はこういうイベントをやっている。
 神社や公園、商店、さらには個人宅の一室を開放したりとかして、さまざまな雛人形が道行く人々に展示されていた。創作雛人形から江戸時代からのもの、奥さんが嫁入りといっしょに持ってきたものなど、様々なものがそこら中にかざられていて華やか。

 ちなみに土佐という地名は、藤原京の造営に土佐の国から駆り出された人たちが、帰郷費用を出してもらえずにこの土地に残留することになってしまい、せめて住むところの地名だけでも、と名付けられたらしい。
 それから南北朝時代高取城が築かれて、土佐は城下町として反映していくことになる。

 

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 はっきり展示スペースを作ってるお宅やお店もあれば、「窓開けて見てください」というお宅とか、「上を向いてください」と書いてあって2階の窓に見えてるとか、さまざまなスタイルの展示だった。

 

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 街の駅 城跡(きせき)というところがこのイベントの中心地になってるよう。多分持ち寄られた雛を集めたものと思われる、巨大ひな壇が形成されていた。
 ここでご当地の野菜や食品などが売られていたり、カフェがあったり。飲食店はここの他にはほとんどなかったので、この雛人形イベント中は混雑する。

 

 

 高取城まで駅から2時間くらいずっと山登りになる。
 少なくとも水分がなければ危険、甘い物とかもちょっと持っておくほうがいいのだけど、このあたりでは買いづらい。国道169号線沿いにコンビニがあるんだけど、結構遠回り。
 あらかじめ持ち込むのがベターそう。飲み物だけなら自販機くらいはある。

 

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 高取城は明治に入って取り壊されて、一部の門が民間に払い下げられて移築された。
 松の門は高取小学校の校門になっていたのだけど、火事になって焼けてしまった。焼け残った部分が保存されていたのを、児童公園の入り口に再建した。もちろんこれは焼け残った部分だけで、本来は上に屋根がつく。

 

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 城に近づくにつれ、商業地の雰囲気が変わる。
 この、古いといったって明らかに異質な構造の家。長屋門構えた武家屋敷だよ。

 田塩家武家屋敷とあり、いまでも民家として使われている。そんな家に住む家系に生まれてみたかったわ。

 

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 こちらは、元々高取城の城代を務める家老の屋敷だったのが、今は高取藩主だった植村氏の子孫の方が住むようになっているとのこと。
 長屋門だけでこの長さ。奥行き次第だけどさすが家老屋敷か。でかい。

 

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 どんどん道を上がっていくと、砂防公園が見える。植えてるのは桜かな。

 この手前は農村風景。これより、いよいよ山道らしい山道になっていく。

 

高取城

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 大体ずっとこのくらいの道。
 サンダルはダメでも、一般的なスニーカーとかスリッポンくらいの普通の靴で登れる程度には整備されてる。

 

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 登りはじめてそれほど経たないうちから、早くも石垣が見つかる。
 この上がある程度平地に切り開かれている、つまり曲輪になっている。攻め込むんだったら、まだ天守が遥か上にしか見えていないこんなところから、早くも守備兵と戦い始めなきゃならんわけだ。高取城の巨大さを感じる。

 

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 途中で「一升坂」という妙な名前の坂。
 このへんは坂が急激だから、城の石垣を築く人足がハードすぎるということで、米一升追加で払って対応してもらったとのこと。

 

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 「御城プロジェクト:RE」のプレイヤーならご存知、猿石に遭遇。
 今上ってきた大手道と、北の明日香村を結ぶ道の分岐点に置かれていた。

 同じようなものが明日香村に四つあり、高取城の猿石も同じところにあったのがここまで運ばれたんじゃないか、とのこと。飛鳥時代に彫られたものじゃないかと考えられているらしい。

 

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 高取城二の門のところで、堀があるのが見えた。門のあたりは石垣だけど、堀の周りは石垣にしてないな。
 山城なのに、空堀ならともかく水堀を作ってるのも珍しい。高取川が水源に使える立地だったらしい。

 

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 本丸方面の右手に脇道があり、そっちに行くと国見櫓跡がある。
 名前通り、高取城で最も見晴らしがいい場所。120mほど脇に逸れるが、上りはほとんどないのでぜひ立ち寄りたい。

 遠方左手から山地が続いて、盛り上がってるのが二上山
 その手前左手の山地には、貝吹山城があった。高取城を築いた越智氏は、元々貝吹山城のほうを本城として、高取城は支城だった。戦国時代頃には高取城を本城にしていたようだ。
 貝吹山の右手に独立して盛り上がってる山が畝傍山

 

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 いよいよ大手門跡。これをくぐれば本丸だ、と思ったけど、案内板によるとまだ二の丸。なんで山城がそんなにでかいんだ。

 

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 ちょっと光線の加減で見づらいけど、石垣が打込み接ぎになっている。角もちゃんと算木積みにされているな。
 上ってくる途中でみかけた石垣は野面積みだったが、二の丸までくると石垣のグレードが上がるようだ。高さも4~5メートルくらいあるよな。

 

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 二の丸はかなり広々としたスペースで、元は御殿でもあったのかなあ。

 そして、もう一段高い本丸石垣が……と思ったらまだ本丸じゃなくて、これは太鼓櫓の櫓台。

 

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 やっとこ城址碑が出てきて、この石垣の上が本丸だ。
 石垣高さ8メートル。本丸の広さは東西73m・南北64mとのこと。標高584mにそこまでのものを築くかね。

 

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 「巽高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」という、高取城を歌った歌碑。
 読んだらわかると思うんだけれど、往時の高取城が山の上の方一面に白く見えていて、雪かと思ったら城か、と思わせるほどだったと。

 

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 本丸を、多分大天守のほうから見る。
 山城は普通、地形のなりゆきに合わせていびつな形になっちゃいがちなんだけど、高取城はこの通りかなり整然とつくられている。かなり技術が進んだ時期に築かれたものだろうといわれている。

 大小の天守と鉛櫓・煙硝櫓を建てて、多門櫓でつなぐ連立式天守があった。
 和歌山城とか姫路城、伊予松山城といった城に見られる形式だけど、当然ながら非常に大掛かりな構造の天守。標高584mの山城の一番上にそんなもん作るの、いくらなんでも常軌を逸してるように思う。

 豊臣秀長が大和を治めるようになって、その家臣・本多利久が高取城をこの形に築城した。まあポジション的にカネがあったんだろうとは思う。
 本多といっても徳川家の本多とは血縁関係はない。元々は水野姓だったのが、徳川の本多に姓をもらって名乗るようになったとか。

 高取城の実戦経験は2回ある。
 本多利久の息子・利政が当主だった頃、徳川家康に従って上杉家の討伐に向かっていたところで石田三成が挙兵して関ヶ原の合戦が勃発。
 利政はそのまま東軍に着いたけど、高取城は当主不在のまま、留守居将兵だけで西軍の攻撃を受けることになった。
 が、なんと守りきってしまった。
 同じように近畿で孤立したまま西軍に攻撃された城は、大津城も田辺城も落城した。それが留守居だけで守りきってる高取城は、やはり最強といわれるだけはありそうだ。

 それから、幕末に天誅組の変が起きた時、天誅組1000人に襲撃されたのを200人で撃退している、と友人に教えてもらった。
 まあこれは、天誅組の方に装備や士気の問題があったそうなのだが、そもそもこんな見るからにヤバい城を襲撃しようと思うことに問題がある気がする。

 

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 本丸から、たしか南の方を見てるんだったかな。吉野の山とかが写ってるはず。
 やはり眺めは国見櫓からがいいね。

 

 2時間の登山だけで大変なんだけど、なんか上ってみたら、明らかに常軌を逸したような城だと伝わってくるものがある。
 山城にはいい城が多いけど、このスケール感と、敵に回すと嫌過ぎると思わされる程度によく残された遺構が実によかった。
 私が行った中では、強大さの高取城、美しさの苗木城でツートップかな。

 

壺阪寺

 ちなみに高取城、実は本丸のかなり近くまで車で来れる。県道119号線を通ってこれるので。
 私は、帰りは違うルートを取ってみようと思って、大手道じゃなく壺阪口という方から下りてみたのね。そしたらすぐに車停まってるところに。正規の駐車場かどうか知らんけども。

 で、119号線を歩いて下りていったんだけど、舗装されていて歩きやすいんだけど、ただただひたすら舗装道路が続いてるだけ。なにも面白くない。

 途中で脇道に「五百羅漢」と書いていたので折れてみた。

 

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 大岩をそのまま削りだした石仏が。いつのものなんだろう。

 下の方に南法華寺(壺阪寺)という大きなお寺があって、その奥の院
 山の上から下りてきてるから、参拝が逆順になってしまった。

 

 で、どんどん下りていくと、壺阪寺が見えてくる。大理石の大仏が見えてくるからよくわかるよ。

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 拝観料600円を払って中に。最初に見えるのは講堂。

 南法華寺は、703年創建。清水寺が北法華寺で、その対になる寺だ。
 藤原京が開かれたときに合わせて創建されていて、藤原京の皇宮正面の朱雀大路をそのまままっすぐ南に延長すると、そこにこの南法華寺がある。かなり重要な聖地とされてたんだろうとのこと。

 

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 正直、古刹のわりには新しい感じの建物や仏像が多くて、パっと見の雰囲気はなんだか威厳がなくも見える。
 しかしこの仁王門は鎌倉時代建立で、直近に平成10年に解体修理を行ったもの。見た目をきれいにしてあるだけ。

 

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 この大理石の大仏、見ての通りでかなり現代的な作り。
 というのは、南法華寺がインドなどへの支援事業を盛んに行っていて、その一環で作られたものだからで、そりゃ今のために今作れば今の作りになる。
 インドからも返礼で大仏を贈られたり(右手に見えている白い建物の中にある)している。

 後述する壺坂霊験記のエピソードなどもあり、盲目の老人を受け入れる老人ホームを日本ではじめて始めてたりとか、ずっと福祉活動をやってるお寺だ。ただの観光寺院ではない。

 

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 見るからに古い感じがあるのは、この三重塔。1497年建立で、国指定重要文化財

 

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 禮堂も重要文化財
 昭和に解体修理したときに、発掘調査と残存部材から室町時代の禮堂の姿がわかって、その形式・大きさに戻して再建したもの。

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 こういう文化財には珍しく、壺阪寺は建物の中でも撮影可(三脚はだめ)。
 ここでも雛人形の展示があった。中心に仏様が置かれる独特なひな壇だった。

 

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 お里澤市投身の谷、と不吉な看板。

 壺坂霊験記という伝説があって、お里と澤市はその登場人物。
 澤市は盲目で、三味線を教えながらつましく暮らしていた。
 その妻のお里が、いつも明けの七つ(午前4時ごろ)に床を抜け出して毎日どこかに行っていることに、澤市が気付いた。
 浮気かと疑った澤市が問いただすと、お里は三年も前から毎日、澤市の目が治るようにと壺阪寺に朝参りしていたという。
 そんな妻を疑ってしまったことを恥じた澤市は、一緒に壺阪寺にお参りするといってお里にここまで連れてきてもらった。そして、自分の目の病のせいで不自由しているお里を解放してやろうと、ここの谷に身を投げてしまった。
 お里は自由になって喜ぶなんてこともなく、悲しんで後を追って身を投げた。

 壺坂の観音様はそんなことを見逃さず、奇跡を起こしてふたりを救い、澤市の目まで治してくれた、という。

 その伝承があって、浄瑠璃や歌舞伎、浪曲などで盛んに演じられていたことから、壺阪寺は眼病にいいお寺とされている。

 

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 里の方に下りてきてからお墓を発見したんだけど、どこだっけな。あまり目印がある場所じゃなくって……

 

 というわけで、以上、高取城登城記であった。

 まあ、高取城も壺阪寺も車で行ったほうがよさそうな立地ではあるんだけれど、城下町は車でいくとかえって停めるところが面倒かも。
 それに、高取城のヤバさは、ふもとから歩いて上ったほうがよほど味わえる気がするよ。