今週のお題「わたしと乗り物」
名古屋あたりで仕事をしてきたので、その帰り、まだ残ってる青春18きっぷを使い切るべく鈍行旅行とすることにした。
大阪まで関西本線経由で帰る、ということで、これなら今週のお題に乗ってもよかろう。
しかし2時半ごろに仕事終えて駅に来たのに、まず最寄りのローカル線で25分待ち、それから乗り継ぎの桑名駅でも20分待ち。
そして関西本線を通って大阪に行きたいのに、来たのは四日市止まり。
三重県は近鉄帝国なので、JRはどうにも弱い。そしてその格差は広がる一方のようだ。
関西本線経由で大阪に移動する試みは、ここ10年くらいの間に何度もやってるんだけど、だんだんと関西本線や紀勢本線の本数が減ってるように思える。
四日市で降りたら、次の亀山行きが50分待ちだよ……。
四日市
50分待ち、しかも乗降自由な青春18きっぷとなれば、とりあえず街を見てみることにするよね。
駅の佇まいはなかなか堂々としたものだ。
駅舎2階への階段がこんな小洒落た作り。
かなり大きくてハイカラなレストランかなにかが営業していたように見える。今ウィキペをみたら、やっぱりレストランだったようだ。
10年前には、レストラン跡地でまちかど博物館をやってたようだけど、それももう終了していた。
四日市というと、まあ地元の方には申し訳ないけど、四大公害病のひとつである喘息で有名ではある。
往時にはそれほどの大規模公害を起こすほど、ガンガン工場が稼働して、どんどん労働者が集まって、さぞかし駅前もにぎやかだったんだろうと思う。
が、今はそういう時代の残滓という感じの廃墟が目につく。
四日市市の中心が、近鉄四日市駅の方へ移っちゃって、JR側は昭和に取り残されたようだ。
この風呂屋も、窓のエッジを丸めてあるよ。こういう細かい作り方は今時なかなかやらんよなあ。
駅からちょっと北にいったところが商店街だった。
で、右手に見えてる「ソルティ」というコンビニ、本部組織が廃業したけど個人経営でそのままの看板で続けてるんだよ。
店の棚も隙間が多くて、今時のコンビニみたいにみっちり商品は詰まってない。
コンビニというよりなんでも屋みたいな感じ。私が子供の頃に、家の近くにあったコンビニもこんな感じだったな。
いい店構え。
アーケードの柱には、ここが東海道亀山宿だった旨の案内。
で、ねぎやき茶屋というお店が営業してたので入ってみたら、地域博物館みたいなのが併設されていた。
ギタリストの打田十紀夫さん(四日市出身)関係の展示とか、地元の方から寄贈された古い着物や電化製品(東芝がまだ芝浦製作所だった頃の扇風機とか)、古地図とか。
この地図は大正15年(昭和元年)のもの。
国鉄四日市駅の西側に私鉄駅があって、直交するように四日市鉄道と三重軌道の線路が伸びている。
諏訪という駅(現在諏訪神社があるところだろう)で、四日市鉄道はそのまま西へ、三重軌道は南に折れていっている。
四日市鉄道は、現在の近鉄湯の山線になっていく路線。
三重軌道は、現在の四日市あすなろう鉄道になる路線。どちらも元々国鉄四日市から出ていたのが、かなり複雑な紆余曲折を経て、近鉄四日市市駅発着に変わった。
このねぎやき茶屋でコーヒーを頂きつつあれこれ観てたらなかなか楽しく、列車の待ち時間を潰せた。
伊勢亀山
で、亀山駅についたんだけども、ここでも関西本線・奈良方面の列車に40分の待ち時間がある。もう待ってる時間のほうが乗ってる時間より長い……
亀山駅の跨線橋渡って「あれ?」と思ったんだけど、駅本屋寄りにプラットホームがない。駐車場があるのが謎だがどこから入るんだろう。どっち行きの列車に乗るにしても跨線橋を通らなきゃいけないという、なんか非効率な構造だ。
かつては関西本線と紀勢本線の接続駅という重要な地位があって、非常に賑わったらしいのだけども、まあ、それが失われていく過程でこうなったんだろな。
で、どうせ待つなら伊勢亀山城を観てこよう、と。
ちょっと身辺に変化が起きるかもしれず、そうなったら亀山を通る機会もなくなりそうで。
かつての宿場町だけど、かなりアップダウンが大きな坂の町だ。
駅あたりは鈴鹿川沿いの低地だけど、城へはどんどん上り坂。
それから、亀山市は歴史解説板をかなりたくさん設けていて、この近くにも「伊勢国亀山藩主 板倉・石川氏の交代」と、江戸時代の国替えなんてマニアックな話を説明するのがあった。
歴史を資源として活用しようという姿勢は、ふらっと立ち寄った私には嬉しい。
亀山城多聞櫓
さて道なりに上がってくると、多聞櫓が見える。
見た目きれいだから再建かと思いきや、下の石垣と合わせて当時物の現存。
これは1633年までには建造されたものらしく、明治に入ってから取り壊しが進んでも、この多聞櫓は旧亀山藩士が落札して、授産場やら会議室などに使われて残されたそう。
ちなみに、この多門櫓のところには元々天守があったらしい。
が、堀尾忠晴という人が、丹波亀山城天守を取り壊すことになってたのに、間違ってこっちを取り壊した。間違い破却なんて、多分伊勢亀山城以外にないと思うが……。
その後、堀尾忠晴の孫にあたる石川憲之が、伊勢亀山の藩主になったりもしている。天守のない城を見て「おじいちゃん何してんの……」と呆れてたことかと思う。でも堀尾忠晴の代で無嗣断絶していた堀尾家をなんとか再興しようと奔走していたようだ。城の天守ひとつより血縁が大事かな。
明治天皇が、軍の演習を見に来たときの行在所にしていた建物が、移築されて保存されている。えらい小さいな、と思ったけど、玉座の間にされた八畳間など一部だけ持ってきたようだ。
亀山神社
本丸西側あたりが亀山神社になっていた。
この神社は、備中松山から石川氏が亀山に国替えされたとき、祖先である源義家・義時らを祀るお社を作ったのが始まり。
亀山藩は藩主の入れ替わりが激しいが、先に挙げた石川憲之は18年ほど勤めて山城の淀藩に移された。
亀山藩主はその後板倉家→松平家→板倉家と変遷し、憲之の孫の石川総慶の代でまた石川家が亀山に戻って幕末まで藩主を続けた。
亀山神社の元になったお社は、戻ってきた石川氏の頃に建てられた。
C58蒸気機関車
亀山神社の北側は公園になっているが、見れば蒸気機関車が居る。C58-359だ。
亀山って、宿場町だった土地にしては珍しく鉄道誘致に積極的だったそうで、「国鉄の町」を自称していたこともあるようだ。(ただし国鉄が認定する『鉄道の町』には入ってない)
そのせいか、亀山市内には他にもC50とかブルートレインの静態保存もある。
C58-359は、昭和19年1月27日生まれで、昭和45年3月25日に引退。同年12月4日にここに展示されることになった、とのこと。
王子機関区→竜華機関区→亀山機関区と在籍して、大阪・奈良・三重間の輸送を担ってきた車両らしい。
二の丸帯郭
城の北側には、こんないかにもな急斜面。
現在の亀山西小学校が城の二の丸で、藩主の居館もあった。その北側に、帯郭を設けて防御施設としていたとのこと。
二の丸の北端。ちょっとわかりにくいが、杭を打って区切ってる向こうが下り階段になっていて、埋み門があったそう。
黒い石を敷いてるところは、築山になっていたそう。
帯郭に下りて、埋み門跡を見上げる。階段が左に折れていて、小さいながらも城らしい作り。
曲輪には土塀が建てられている。
狭間がないのっぺりとした土塀なのだけど、古写真によるとなぜか元々狭間がなかったらしい。
なぜか帯郭に石組みの水溜めや溝があったらしく、用途を考えると花でも育てていたんじゃないかとしか思われない。特に合戦などない時代が続くうちに、帯郭も戦に使う必要もなくお花畑にされてたんじゃないか、というのどかな話。
亀山古城跡
亀山城の北側には、池があってさらに向こうに山がある。
この山も亀山公園として続いてるようなんだけど、近づいて見ると特に城跡とかではないように見えた。歴史博物館があるけど営業時間外っぽいので、パスして古城址の方へ。
途中がかなり大規模な菖蒲園になっていて、時期を選べばさぞかし見ごたえがありそうだった。
亀山城の北西にある比高15mの小さな丘だが、江戸時代の地図では「古城」と書かれている。
亀山の庄屋さんが記した「九々五集」という史書では、鎌倉時代にこのあたりを治めていた関氏が、1265年に若山というところに城を建てたとある。現在もここは若山町と呼ばれているから、多分それがここの「古城」なんだろう。
岡本良勝が亀山領主だった頃、現在の亀山城を築いてそっちに移ったらしい。
もっとも、古城の方は発掘調査などをしてみてもこれといった遺構が出ない。どういう城だったかは未だわからないようだ。
町中の建物など
西の丸庭園という、いい感じの門がある公園があった。
多分、整備されてたらなかなか風情ある日本庭園になってるんだろうけれど……ただ、いささか草ボーボーというのは否めないかな……
藩主石川家の家老だった加藤家の屋敷跡も、西の丸庭園すぐ近くにある。
手前が土蔵、奥は長屋門。
御家老様のお屋敷らしい作りね。
宿場町としての商家も残っていて、ここは呉服商・桝屋の旧館家住宅。
土日祝の午後4時半までなら中も公開されている。
といったところで、亀山で列車を一本のがして作った1時間半の間に、お城を楽しんできた。
もうちょっと早い時間に来れていたら、中も色々見られたんだけどな。