先週末の名古屋旅行は、歴史ファンの友人につきあってのことだったので、いろいろ歴史ネタの話をした。
そのうち、流れで「ひどい理由で潰れてしまった城」の話になって、友人にいくつか教えてもらった。ちょっと面白いので、覚え書きがてら記事にしておこう。
なお「潰れた」というのが、廃城されたとか、天守を取り壊された(城の機能は残った)とか、災害に遭ったとかバラバラなので、あんまり厳密な意味のある話ではないけれど。
ちょっとした茶飲み話だ。
帰雲城
まあ、あまりにもひどい、悲惨すぎる末路を辿った城といえば、帰雲城の右に出るものはない。
飛騨の内ヶ島氏という大名が治めていた城なのだけれども、天正地震で帰雲山が山体崩壊を起こし、城も村々も、内ヶ島一族も領民たちも何もかも飲み込まれ、土砂の下に消えた。
小牧・長久手の戦いで内ヶ島氏が秀吉と争って、降伏したものの、ほぼ所領を削られることなく本領安堵された。いやーよかったよかった、親戚一同集めて大宴会じゃ、と帰雲城に集まったところで、宴の前日に大地震。
だから、ただ城が消えただけじゃなくて、本当に一族郎党が消えた。悲惨すぎる。
ちなみに内ヶ島氏は鉱山技術者でもあり、金山を開発していた。秀吉が本領安堵してくれたのもその技術を当て込んだらしく、帰雲城にはかなり金を抱えていたという説も。徳川埋蔵金よりも帰雲埋蔵金の方が本当に出てきそうだぞ。
唐沢山城
関東七名城のひとつで、上杉と北条の間で翻弄されながらも、あの謙信公を相手にしても奮戦してしばしば撃退してみせる堅城だった。
関ヶ原の合戦で、当時の城主・佐野信吉は東軍について、無事本領を安堵された。
しかしそれも束の間の1602年。
唐沢山城からふと江戸の方を見たら火が上がっている。 これは大変だと早馬を飛ばして江戸へ急行。家康に呼ばれる前から駆付けて消火活動に協力した。
これは褒められて当然だ、と思ったら、家康公「なんで気付いたの?」。佐野信吉答えて「城から見えました」と。そこで家康公激怒、「わしを上から見下ろしておったのか」。
そうして、褒められるどころか唐沢山城の廃城命令が出た。
佐野信吉はまさか逆らうわけにも行かず、麓に佐野城を建ててそちらに移った。
まあ、家康の天下も近い時代、佐野ほど江戸に近いところに堅固な山城は必要ないと、取り潰させる理由を探していたのかもしれないな。
無理くりな理由という意味では、「国家安康 君臣豊楽」の二語で潰しにこられた大坂城も大概だ。
竹田城
あの大人気の竹田城も、廃城の経緯は結構ひどい感じであった。
竹田城最後の城主は斎村政広という、元々は龍野城にいた赤松氏の一族。
秀吉が攻めてきたときに投降したら城を取り上げられ、その後いくら頼んでも戻してもらえず、賤ヶ岳の戦いの恩賞で竹田城をもらった。
そして関ヶ原の戦いで西軍について、舞鶴の田辺城を攻めている間に西軍敗戦の報せ。
やべえ、と思ったところに、前から仲が良かった亀井茲矩(東軍)が「口きいてやるからこっちこいよ」と助け舟を出してくれて、これは乗るしかないと。
で、関ヶ原本戦の後も頑張っていた鳥取城を落として戦功にしよう、と攻めかかったけどこれがなかなか落とせない。
しゃあねえ城下町を焼き討ちじゃー、とまでやらかしてようやく陥落させたのだけど、これが家康公には大不興。
で、その後なぜか亀井茲矩はお咎め無し、斎村政広ひとりで全責任を負わされて切腹。主を失った竹田城も廃城へ。
亀井茲矩というのもかなり癖のある人物で、保身のために友人に罪をかぶせたんじゃないのかという噂も……。
伊勢亀山城・丹波亀山城
信長の伊勢侵攻以来、何度も戦いつつ近世城郭として整えられていった伊勢亀山城。
江戸時代に入って伊勢亀山藩が立てられてその藩庁となり、何人かの城主を経て三宅安信という大名が12000石で入っていた。
で、1632年、幕府が堀尾忠晴に「丹波亀山城の天守を破却するように」と命じた。
しかし何を間違ったのか、伊勢亀山城にやってきて「幕府の命にて天守を破却する」と工事にかかってバラしてしまった。
間違い解体されてる伊勢亀山藩の方でも気付けよって話だけれど、1632年は藩主の三宅安信が亡くなって、子の康盛に代替わりする大変な時期だったようだ。堀尾忠晴、ややこしいときにいきなりやってきて間違いで城壊していったんだよ。ひどい。
さすがに、間違い解体なんて馬鹿げた理由で天守を失った城は他にないだろうと思う。
なお天守以外は健在で、藩庁としても、また将軍上洛の宿所としても使われ続けた。
ちなみに丹波亀山城はその後も天守が残って、少なくとも明治初期まで現存していた。
大正に入って、新宗教の大本が、打ち捨てられた城跡を惜しんで購入し、本部施設として神殿を築きつつも石垣などを保存した。
しかし大本は当局や軍部と折り合いが悪くなってしまい、激しい弾圧を受けた。
そして教祖や幹部も逮捕され、裁判も開廷していないうちから警察が一方的に本部の破壊を決定。丹波亀山城址は、大本の施設もろともにダイナマイトで徹底的に破壊しつくされた。
(しかも裁判は結局、大本は訴えられた容疑のほとんどが無罪、つまり言いがかりだった)
松前城
北海道唯一の日本式城郭。 1854年という最後期の築城。
日本式なのにロシア軍艦の艦砲射撃に備えた頑丈な構造、緑の石材で亀甲積みにした石垣などなど、特徴的なお城だった。
そして明治に入って本丸以外は取り壊されたものの、天守は健在。
1941年に天守などが国宝に指定された。
数多くのお城が失われた第二次世界大戦も乗り切って、このまま上手く行けば現存天守として現代に残る。はずだった。
1949年6月5日、城跡にあった役場の宿直室で、暖房の不始末から出火。そのまま本丸に燃え広がり、あわれにも貴重な現存天守は焼け落ちてしまった。
松前城が今、現存13天守のひとつに数えられていたら、もう少し観光資源として強力になっただろうか。
観光需要で国鉄松前線も生き残れただろうか。
北海道新幹線も松前経由……は無茶にしてももう少し行きやすいところに駅くらい置いてくれただろうか。