堺風の頭部

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東大阪に大坂の陣の史跡を見る

 なかなか遠出も難しい昨今、じゃあ大阪のまだ知らない土地を見に行こう……ということで、東大阪若江城を見に行ってきた。
 三好長慶を知るシリーズ、お勉強越水城登城に続く第三段でもあるね。

 

若江城とは

 若江城は、現在の東大阪市の南側、八尾市との境に近いあたりにあったらしい。
 このあたりは今と昔で川の流れが全然変わっていて、昔は西に大和川(今で言う長瀬川)、東に玉串川(これは現在もある)、北に玉串川の分流の菱江川というのが流れて新開池(江戸時代に埋め立てられて鴻池新田などになった)という大きな池に流れ込んでいた。
 その水を外堀のように使って、城下町ごと総構えにしてた感じなのかな。

 現在近くを流れてる第二寝屋川なんかは、戦後になって開削された。大和川も付け替えられ、玉串川は水路みたいな細さになり、菱江川も新開池も消えた。

 

 南北朝時代の1382年に、河内国守護の畠山基国が築城した。
 当時、河内の南部に南朝の勢力があって、守護所兼防衛拠点として開かれたとのこと。

 その後はちょこちょこ大和の筒井氏に攻略されたり、水害でえらいことになったり、蓮如が来たり、畠山氏の同族争いで取り合いしてたり。

 いわゆる戦国時代に、河内守護畠山氏から三好長慶の手に落ちる。
 その後は子の三好義継の居城になった。義継は三好三人衆と対立してたけど、松永久秀、そして織田信長と手を結んで、河内北半国と若江城を安堵された。
 しかしその後、久秀といっしょに信長を裏切って信長包囲網に参加、でも武田信玄が死んで信長が盛り返してピンチ。
 で、京都から追放された足利義昭を匿ったもんだから信長に怒りを買って、佐久間信盛が攻めてきて若江城陥落。義継もわずか25歳で自害して三好本家も滅んだ。

 その後は、信長と石山本願寺の闘いの最前線となって、信長自身も入城したこともある。
 本願寺と信長が和睦した後は、もう不要になったと廃城に。
 その後すぐ本能寺の変があって秀吉時代になり、大坂城の築城のために若江城を破却して石垣や建物を移したとも。

 

 大坂の陣の逸話がよく残ってるのだけど、木村重成が徳川方を迎え撃つために、破却された若江城の跡地を急場の拠点にしてここで戦った。

 

近鉄若江岩田駅から

 さて、若江城には、近鉄若江岩田駅が最寄り。

 駅南側に岩田本通商店街という、ちょっと昭和の雰囲気が残る商店街。スーパーがフレッシュシンワっていうローカル店だったりするのが良い感じ。

 

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 駅から程なく、飯島三郎右衛門という人の墓が立っている。

 近くの高井田というところの富農の子で、弓が得意で秀吉・秀頼に仕えていた。
 大阪夏の陣の若江の戦いで、木村重成の麾下で徳川方と戦って、山口重信という武将に討ち取られた。

 

 もうちょっと行くと、ローソンストア100が見えるY字の三叉路があり、右に行く。

 

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 途中にあった和菓子屋「菓匠庵 白穂」に、若江城を「当時の畿内では最大規模だった幻の城」と称賛する掲示をしていた。若江城もなかってのを作ってるお店。

 

城址

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 駅から1.2kmほど歩いて、城址碑に到着。

 目の前を通る府道24号大阪東大阪線が拡幅されることになって、昭和59年にこの場所に、白蔵主を祀るらしいお社と、いろんな記念碑の類を集めたらしい。
 しかしこの記念碑、一部の文言を伏せている。治水事業に努めた篤志家やら、農業近代化に努めた農協の理事の顕彰碑があるのに、名前がわからないようにしてある。どういうこと?

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 若江城についての碑は、特に情報らしい情報はなし。
 裏側になにか伝説が書いてあるのだけど、これも碑文を埋めて隠した痕跡がある。埋めたセメントが剥がれてある程度読めるんだけど、よくわからない。

 石碑の文言を隠すって、そんなにしょっちゅうは見かけないと思うけど、ほんとになんなんだろう……。

 

 道を挟んですぐ北側、公民館があって、そこに東大阪市による若江城跡の解説板がある。
 内容は、さっき上に書いたのと城の概略と、発掘調査について。この公民館周辺で、二重の堀、土塁、建物、溝、井戸、瓦、土器、武器など、城の存在を裏付けるものが見つかってるとのこと。

 

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 それから、美女堂氏遺愛碑、というのが立っている。
 若江北町に、美女堂氏という旧家が昔からあったのだけど、この碑を建てた天保2年(1831)当時、かつては四戸あった家も二戸に減り、また残る一戸も没落していたとのこと。で、没落していた方の美女堂勝喜氏が、美女堂氏の系譜を懐古する碑を建てた。
 源満仲が、四男の美女丸のために若江北町に美女山薬師堂を建てたことから、その子孫が美女堂氏を名乗るようになった、とのこと。

 源満仲の四男というと、源頼平というらしい。うぃきぺには頼平の子孫が美女堂氏になったとは書いてないが。ちなみに満仲の長男はあの源頼光。頼平は満仲が死んだ時点で幼かったので、頼光の養子として育てられたとのこと。
 東大阪の地域情報サイトに、解説記事があった。

 

木村重成像(現存せず)

 Googleマップによると、近くに木村重成像がある。
 ただ、ごく最近まであったらしいけど、どうも老朽化で取り壊されたらしい。

 戦前には銅像だったけど戦争のために供出され、その後はコンクリート製になっていたと。まあ老朽化もするだろうし、ありがたみにも欠けるので、あえなく破却と。
 なんか最近建てられたばかりっぽい住宅が並ぶ路地があったので、多分そこがそうなんだと思う。

 

若江鏡神社

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 近くに大きめの神社があり、立ち寄ってみると、若江鏡神社という。

 延喜式内社で、創建年代は不明。斉衡元年(854年)の「文徳実録」という書物に、従五位社格を賜っていると記録がある。
 鏡神社というのは、神功皇后三韓征伐から凱旋の折、鏡を埋めたところを祀ってるから、と。鎌倉時代の石塔が一部残ってるそう。

 社殿も綺麗そうに見えて、これでも文政11年(1828)のものだからなかなかの古さ。
 また、元禄11年(1699)の大般若経600巻が残されているとのこと。

 

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 境内には、色々石碑がある。ほかにも消防団の顕彰碑とかも。

 

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 「楠木魂」というよくわからない碑、近づいて読んでみると、秀吉が若江城に在城していた頃にクスノキを植えたという。そのお手植えのクスノキが、道路拡張で移転することになって、この鏡神社の神木として移植したとのこと。
 この碑に使われている岩も、大阪城の石垣と縁がある巨石と伝説があるそう。実際には使われなかった残念石の類かなあ。

 

蓮城寺

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 すぐとなり、蓮城寺というお寺。

 ここに、木村重成の廟所がある。

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 お堂はわりと普通のお寺って感じ。名前通りに日蓮宗

 

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 廟所は、こう小さなお堂にされている。
 左下は木村重成が詠んだらしい「五月雨や 啼ひて今夜は 不如帰」という句碑。

 お堂は「鍵を外していますので、戸を開けてご自由に中に入ってお参りください」とのこと。
 木村重成と婦人(重成の死後、遺児を出産した後に殉死したとの伝説)の位牌、木村重成肖像画、それから加藤清正の像がある。
 加藤清正日蓮宗を信仰して保護していたので、日蓮宗側でも清正公信仰をやってるとのことで。

 

山口重信の墓

 蓮城寺から南へ、第二寝屋川まで来て、ちょっと東へ。
 公共墓地らしいところで、なんか目立つでっかい墓がある。

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 山口重信は、さっきからちらっと名前が出てるんだけれど、大坂夏の陣井伊直孝の麾下で戦った武将。
 さっき墓があった飯島三郎右衛門ら5騎を討ち取ったものの、生きて帰れず討ち取られてしまった。

 26歳の若さで死んだのだけど、その武功で父山口重政に牛久1万5000石が与えられたとのこと。
 この墓は、弟の弘隆が1647年に建立したもの。

 礎石に亀が乗って、その上に立った墓石には、林羅山の文章を石川丈山篆刻で刻んだ立派なやつ。
 まわりの玉垣も、重信の弟重恒が寄進したもの、灯籠も山口重成という家臣が寄進、花立は弘隆の息子重貞が寄進したもので、いずれも当時のまま。

 

木村重成の墓

 山口重成の墓から、第二寝屋川を南に渡って八尾市に入ってすぐの公園に、木村重成の墓もある。

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 戦後すぐには豊臣方の武将の墓なんて建てられなかったらしくて、山口重信を葬った隣にこっそり葬っておいたのを、宝暦14年(1764)になってから、木村重成を討ち取った安藤長三郎重勝という武将の子孫が建てたとのこと。

 場所は、第二寝屋川の開削にあたって、西に50mほど移動されている。元は山口重信の墓とは隣り合ってたらしい。

 なぜか文政11年(1828)に突然「残念様」といって木村重成の墓参りをするブームが起きたとか。

 

 左隣に「山口左馬介之墓」というのも立ってるんだけど、これは山口弘定という武将らしい。
 木村重成の妹婿で、ともに若江の戦いで討ち死にしている。相手方も山口だから紛らわしいな。

 

八尾市立埋蔵文化財調査センター

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 木村重成の墓のちょい南東、埋蔵文化財調査センターなるものが。

 外見が地味だったのでちょっとした施設かなあと思ったら、八尾は弥生時代から遺跡が多数あるところらしくて、かなり濃厚な情報密度の展示が行われていた。
 弥生式土器の形状が地域や時代によってどのように変わっていったか、とか、そんなレベルの話をみっちり文章パネルと写真で展示してるの。まるでついていけんかった。
 しかも、発掘された土器の清掃や組み立てなどをやる部屋を、そのまま見れるようにしている。
 図書室も、廊下にあふれるほど考古学関係の資料がみっちり。市販本とかじゃなくて各地の自治体や研究所の調査資料みたいなやつが。

 弥生時代や土器に強い人なら、さぞ面白かろうと思う。私にはハイレベル過ぎて驚愕するばかりだったけど。

 

西郡天神社

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 南へ歩いてくると、なにやら立派な神社。
 しかし私が見落としたのかもだけど、境内に由緒が見つからない。こちらのサイトに詳しかった。

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 お社の片隅に、なかなか味のあるイラストが。地元の若い子が描いたのかな。

 

加津良神社

 さらに南に歩いていく。どうもこの道は古代からあった道らしくて、道沿いにあるなんでもなさそうな神社が式内社だったりする。

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 小さな敷地しかない割に祭殿は立派だな、と思ったら、官幣式内社
 素戔嗚命が、このあたりにあった川から萱の船に乗ってやってきたことから、村人が崇敬して祀るようになったと。
 で、神前に萱の大松明を振る祭りをするようになって、このあたりの地名が萱振になった。

 清和天皇から官社に列せられ、朱雀天皇の時代には反乱を起こした平将門を誅滅する祈祷を行った。
 その後は牛頭天王を祀るようになったりしつつ、社領も広大だったらしいんだけど、今はこんなに小さくなってしまった経緯は縁起に書いてなかった。

 

恵光寺(萱振御坊)

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 加津良神社の少し南、浄土真宗西本願寺派のお寺。
 南北朝時代から室町時代、このあたりは戦争が多くて(そのために若江城が建てられたくらいなわけで)荒廃していたところ、蓮如が1470年に訪れて河内に布教し、子の蓮淳を開基としてこの恵光寺を開いた。
 河内随一の真宗寺院になって、萱振御坊、柳の御坊と呼ばれていた。往時にはこの一帯が寺内町だったそう。

 また、このあたりに萱振城という城があったらしい。
 けれどまあ、遺構もなにもなく、この恵光寺の解説碑の中で触れられてるくらいかな。

 

 ということで、木村重成の墓を参ってみると、弥生時代やら南北朝時代やらのやたら幅広い時代の歴史に触れることになってしまった。
 東大阪市・八尾市ともに歴史解説をしっかりやってたけど、これだけ幅広い時代の史跡があるならそれもうなずける感じはあるな。