堺風の頭部

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城プロRE尼崎城実装記念・尼崎探訪記

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 御城プロジェクト:REに、尼崎城が追加された。

 そういえば長いこと行ってないし、尼崎城の復元天守を作ってるという話も聞いてるから、いい機会だしちょっといってみることにした。

 

目次 

 

ユニチカ記念館

 自由業の気楽さで、いきなり水曜日に出かけたわけだが、それというのは尼崎のひとつ東側、大物駅からすぐ、ユニチカ記念館が水曜日だけオープンだからだ。

 ユニチカはもちろん今もある繊維会社なんだけれども、もとを辿れば尼崎に生まれた尼崎紡績会社が始まり。
 尼崎には広大な紡績工場が作られたんだけれど、その本社事務所として建てられた煉瓦造りの建物が保存されて、ユニチカ記念館として公開されている。

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 なお敷地入り口は北側の通用門で、南の正門に回っても閉められている。
 建物には正門側の玄関から入るので、ぐるっと建物を回ることになる。いろんな角度からこの歴史的建造物を舐めるように眺めるのだ。

 昭和レトロどころか明治の煉瓦造り洋館だよ。素敵極まりないな。
 近代化産業遺産にも、兵庫県の景観形成重要建造物にも指定されている。

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 明治の頃だとさぞかしハイカラな建物であろう。各部に丁寧に意匠が入ってるのもいいね。

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 昭和二十二年十一月二十八日に天皇陛下行幸なされたときの玉座が残されている。これの展示のために一部屋使われていた。

 他の展示は、バレーボール関係のがやはり多かった。足掛け7年で258連勝(海外遠征)、東京オリンピック代表もほとんど独占した、東洋の魔女ことニチボー貝塚バレーボールチーム
 一体いくつあるんだよというくらい無数のトロフィーが並んでるんだけれど、同じようにニチボー貝塚の本拠地だった貝塚市歴史展示館にも無数のトロフィーが並んでるので、途方もない強さを物量で示してくる。

 それからおじさんも大好きユニチカマスコットガールの展示もあったよ。カイヤも夏川結衣米倉涼子本上まなみ内田有紀もやってた。

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 繊維やファッションの文献類もあれば、事業の記録やかつての商品なども。
 一時はニチボー印の醤油売ってたこともあるらしい。この近くは戦前までは醤油蔵が多かったところらしいが、その絡みだろうか。

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 なぜか特急はとのヘッドマークがごろんと説明もなく置かれていたのだけど、朝日ファミリーの記事によれば、天皇陛下行幸に使っていたのがはとだと。

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 応接室も豪華。
 この部屋のショーケースには、なぜか、特に説明なく尼崎城の縄張り図があったりとかした。
 はとのヘッドマークといい、ところどころ、なぜか説明なくポンと置いてあるモノがあるんだけど、意味わかればすごいものだったりすんのかな……

 

 水曜日しか開いてないというのが難しいところなのだが、なかなか見るところ多い施設だ。

 

大物川緑地

 さて、大物駅からユニチカ記念館にかけて、妙に曲がりくねった緑地公園が続いている。
 でまあ、変に曲がりくねった道とか緑地は大体、川の跡だというのが常だ。

 大物川は、高度成長期に水質汚濁が酷くて埋め立ててしまったそう。
 緑地をずっと西にたどると、急に南にカクっと折れる、そこが尼崎城の外堀だったらしい。

 

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 まあ、比較的近年作られた公園なわけで、公園内に歴史的遺物があったりはせず、ほんとに単に公園だ。

 これを尼崎城とは反対側、北に遡って駅に戻り、さらに駅を超えて進んでいく。

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 うお、デゴイチおる。事前情報なかったから驚いた。
 しかもネコが堂々と居座っている。

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 で、デゴイチよりちょい南の、公園東側の墓地に、「残念さんの墓」というのがある。

 禁門の変で敗走し、尼崎藩に捕縛されたが何も喋らず男らしく自決した山本文之助という長州藩士の墓。
 「残念で悔しい、悔しいことがあれば自分に参ればひとつだけ願いを叶えてやる」と書き置きを残していったといわれ、その霊験にあやかって願いを叶えてもらおうと大阪から大勢参詣者が集まったそう。
 それで、禁門の変に負けていった長州藩に、大阪の人たちが同情するようになっていったと。

 ……という設定の伝説を長州が作って、以前から大阪では長州の人気があったということにして人心収攬を図ったんとちゃうのー。長州やろ。毛利元就の末裔やろ。

 

大物城?

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 大物というと、大物崩れ。信長より前の頃の大戦だ。

 桂川原の戦いで敗れて都を追われた管領細川高国が、西に逃れて播磨の浦上村宗の協力を得て再軍備、京大坂を勢力下に取り戻そうと進行。
 そして堺には足利義維を担ぐ三好元長の勢力があり、摂津で両者の戦闘が続いていた。

 そこに、播磨の赤松政祐が細川高国側の援軍としてやってきて西宮に布陣するんだけれども、彼は父親を浦上村宗に殺されていて、復讐を図っていた。
 援軍に来たのは完全にフリで、三好方と通謀していた。

 そして、いきなり裏切った赤松軍が西から背後を衝き、東から三好の軍勢も押し寄せて、もう細川高国浦上村宗はボロクソにやられて壊滅。
 かつての管領は、藍染屋の藍を入れる瓶に隠れているところを発見・捕縛されて、程なく切腹させられる無残な最期に。

 

 で、このあたりには大物城といわれる城があったようで、負けた細川高国が逃げ込もうとした。しかし、赤松方の手が回っていて城に入れず。無残。

 

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 大物城=尼崎城という話もあるけど、かの「日本城郭大系」では別とされている。私がちょっとググって見た浅はかな判断では、別物説のほうが強そうに見えるかな。

 大物駅南にある大物主神社あたり一帯が大物城だったんじゃないか、とのこと。

 ただ、この大物主神社も、1159年に平清盛厳島神社にいってきたときに、市杵嶋姫命をここに合祀したという伝承があるくらいには古い。
 神社が移動したんでなければ、城と神社が丸かぶりになりそうだが……

 

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 神社の東側あたりにあった長屋に、頼朝に追われて西に逃れてきた義経・弁慶が逗留したという伝説がある。それで昭和3年に碑が作られていたけれど、戦争で空襲があって消失した。
 なぜか、この新碑をいつ作ったのか書いてないんだけど。わりと新しく見えるな。

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 それから他に「汁醤油発祥の地」という碑がある。
 「汁醤油」ってのが現在の醤油と同じものかはわからないが。

 尼崎の醤油産業は戦後に壊滅してしまったんだけど、最近になって復活させたらしく、販売もされているとかで。

 

 大物主神社、面白げなものはあるものの、大物城についての情報はなにもなかった。うーむ。
 荒木村重が信長に反乱起こしたときにも出てくる名前なのだが、現地でもさっぱりわからないな……

 

尼崎城

 さて、大物川公園をたどって西へ、尼崎城へ向かう。

 公園が急に南に折れるところが尼崎城外堀跡だということで、越えたらもう城内。地名も「南城内」になる。

 

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 明城小学校の南側、国道43号に沿った所に碑が立っている。

 ここは伏見門というのがあったところだそうで、伏見門は西三の丸と南三の丸を区切る門。すると、南三の丸はモロに国道43号に横切られてしまっているな。

 本丸は明城小学校とか市立文化財収蔵庫とかになっている。

 

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 西三の丸、庄下川沿いに建っている桜井神社。
 もとは西二の丸跡に建ってたらしいが、1961年にここに移った。
 西二の丸跡あたりは現在は明城小学校の運動場とか、あとは琴の浦高校がある。琴の浦高校は2013年にできた新しい学校だから、神社を退かせたにしては時期が50年ずれてるが、空白の50年間には何があった土地なのかな。地元の人はだれでも知ってそうだが。

 尼崎藩主は松平氏だったけど、明治になってから桜井と改姓していて、そちらの名前で神社になっている。
 コレラ対策から日本赤十字社を起こしたりもして、明治になってもよき殿さまであった桜井氏。

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 天守の棟瓦が残されている。

 1623年の築城以来のものだとか。城自体は明治6年に解体されたんだけれども。

 

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 でもって、ようやく尼崎城の復元天守に到達。
 場所はだいぶずれていて、城内ではあるけど西三の丸の北西角あたりだ。
 が、まあ、ミドリ電化の創業者が10億円かけて復元してるものなので、本来の本丸の壱にある公有施設まで買い取って正しい場所に建てろともよういわんわな。

 尼崎城はもともとちゃんと天守の存在した城で、明治までは残ってたから資料もあれこれありそう(少なくとも縄張り図は、今日見れただけで両手に余るくらいある)。 外見はちゃんとつくられてるものかと思う。

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 場所がずれたおかげで、駅からも近くに見えるのはいいかもしれん。

 来年3月末にオープンして中にも入れるようになるらしいから、楽しみにしておこう。

 

尼信会館・貯金箱博物館

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 ここまで来たならちょっと寄っていきたい尼信会館。

 尼崎信用金庫は結構文化活動もやってくれるので、ちょうど今、尼崎城に関する特別展「尼崎城絵図の世界」が行われていた。
 名前通りに多数の縄張り図、時期の違うものを並べている。古いものは、1664年にはあるはずのものが描かれていない時期のものもある。

 5万国の尼崎藩の城にしてはえらく豪華なんだけれど、大坂の西を守るためには必要なもんだったということだろう。

 

 2階は尼崎藩にまつわるものと、世界の貨幣を展示する常設展。

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 重要刀剣、親国貞の脇差。とうらぶには……出てないな。

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 それから藩主の佩刀だった、初代守家の太刀も。

 結構刀の展示があって、常設展は写真撮ってもいいので、刀剣ファン注目だ。

 

 1階では日本水墨画大賞展をやってたんだけど、これが意外にもすごく面白かった。
 私は現代美術って理解できなくって、なんか無意味なものに意味付けしてるだけくらいにしか思えないんだけれども、水墨画はそうじゃなかったなあ。
 写実的なのもあれば抽象的なのもあり、伝統的に見えるのもあればイラストみたいなものもある。シンプルに筆の運びを見せるのもあれば、ものすごく精緻な描き込みをしてるのもある。
 山水図みたいなものばかりかな、という予断が大きく裏切られて、素人が見ても面白い展覧会だった。作品はウェブでも見られるので、細かな筆致まで見られるかはともかく、山水図だろ、という予断を覆されることはできると思う。

 

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 隣の貯金箱博物館も、何年ぶりかの訪問。
 おみやげの貯金玉をくれるのも相変わらずだった。嬉しい。