堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

天王山に登って山崎城址を見る

 近場でまだ行ってない著名な城も少なくなってきたけれど、山崎城がまだだった、ということで。

 しかし駅を降りたら雪降ってて、強くなっていくばかり。
 山の上で吹雪とかになるまいな、と思って、一旦大山崎町歴史資料館に退避。

 小規模なんだけど、信貴山縁起絵巻に描かれてる山崎の様子(エゴマ油の採油が左官で、その道具が描かれてる)とか、ちょっとマニアックなところも突いた展示。
 学芸員さんだろうか、わざわざ話しかけてくれて観光名所やら色々教えてもらった。行基が開いた山崎院の記念碑とか、瓦窯の跡があることとか事前チェックしてなくて、先に教われてありがたかった。

 

 

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 登り口は、JR山崎駅からでも阪急大山崎駅からでもそう遠くもない。
 かなりの急斜面だけど、てくてくと登っていく。

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 マンホールのふたが。

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 ちょっと上がると、宝積寺に到達。たからでら、と地元の人は呼ぶらしい。
 山崎の合戦では秀吉の本陣が置かれたとか。

 聖武天皇の命で行基が開いたとされていて、仏像の寺宝が多いお寺とのこと。
 大黒天、と提灯が見えるけれど、なんか打ち出の小槌も名物らしい。つい数日前に行事があって色々公開されてたんだけど、と歴史資料館で教えてもらった。

 

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 この三重塔も、なんか秀吉が一夜で建てていったらしい。
 墨俣一夜城は木材を川から流した、石垣山一夜城は木を目隠しにして建ててから伐採した、と手口も伝承されてるけど、これはどうしたんだろな。

 

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 お堂はさすがの立派さ。

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 こっちは打ち出の小槌を納めてるとこかな。赤瓦なのはなんだろう。

 400円で中も拝観できるんだけども、どうも寺務所に人の姿がないタイミング(12時頃だったから昼休みかも)だったので、あいにくそのまま天王山に上がっていってしまった。

 

 ここから、天王山への登山道に入っていく。

 スニーカーとかなら問題なく登れる程度には整備されていて、高さも200メートルくらい、時間もまあ30分あれば山頂。
 京阪神間の駅から近い、という好条件までつくから、山城としてはこれほど初心者向けなとこは少ないと思う。

 

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 登山道の途中に何箇所か展望台がある。三川合流のあたりを見晴らせて景色もいい。
 どっちに何が有るかの案内がついた展望台もある。淀城は(場所わかってれば望遠鏡使って)見えるよ。勝竜寺城は木立が邪魔で無理か。

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 山崎の合戦の最中、秀吉が天王山の中腹まで駆け上がって高い松に目をつけ、その上に軍旗をかかげて味方の士気を鼓舞した、という話があって、この場所の松がそうだったという。
 初代の松が明治中頃まで残ってたというんだけども、その後4回植え直されて、これは5代目の昭和63年植樹。初代長生きすぎん?

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 すぐそばには、山崎合戦の碑。しかしなんかやけに新しいんやけども、看板に平成30年3月って書いてる。まさか「麒麟がくる」で客が増えるとあてこんで……

 さておき、こちらの看板では、「山崎の合戦の前哨戦で、明智方の松田太郎左衛門尉が天王山を抑えようとしたが、秀吉方の堀尾吉晴が先手を打って抑えた。そしてこの場所に馬印を掲げて味方を鼓舞した」とある。
 旗と馬印、どっちかけたのだろう。両方?

 

 そこで名前が出てる松田左衛門尉政近は、亀岡国人の並河易家とともに、天王山の裏手から回り込んで側面を突く遊撃部隊になってたようだ。
 今もハイキングコースが、山頂を通り過ぎて山の北側、小倉神社のある方へと続いてるので、昔からそういう道があったのかな。 

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 登山道の先には酒解(さかとけ)神社があるのだけど、思いがけずでかい大鳥居が。

 鳥居の向こうに天然色の看板が見えるけれど、これは堺屋太一の文章に岩井弘という人の絵で、絵物語にして山崎の合戦を解説するもの。登山の道中に全部で5枚あって、順に見ていけば山崎合戦のあらましがわかる。

 

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 さて天王山は、禁門の変の舞台というか、蛤御門を襲った長州藩が撃退された後に真木和泉が立てこもった場所でもある。
 一般の兵士は逃して、同志十七名で抗うも新選組郡山藩(現地看板による。うぃきぺだと会津藩)の攻撃を受けて、小屋に立てこもって爆死したという。

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 その17名の墓がずらりと並んでいる。

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 このへんでまた雪が強くなってきて、かなりの吹き降りになってきた。
 雪というかみぞれみたいな感じだったなあ。

 これは多分酒解神社の末社で、右は天照大神、左は蛭子神。真ん中がちょっと、看板が小さくしか写ってなくて読めない。ここで雨宿りさせてもらったのだけど、名前すら見落とすとは不敬な。

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 そしてこれが酒解神社なのだけど、まー、建物の配置がどうやってもまともに写真に撮れない。カメラマン泣かせやなあ。

 フルネームは自玉手祭来酒解神社。たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ。
 元正天皇の時代、717年建立といわれ、平安時代延喜式神名帳にも名神大社として掲載されている。

 うっかり、ただの神輿庫に見えて写真撮り忘れたんだけど、一般的な校倉造じゃなく板倉造の珍しいものだったそう。現存最古の板倉造りの建物と案内板にあった。

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 酒解神社から山頂はもうすぐなんだけど、倒木だらけで、それを切り倒すチェーンソーの音が聞こえる。多分これ去年の台風21号の影響かな。あれほんと被害大きかったな……

 そういえばこのあたりで道が曲がってたとおもうけど、これ虎口だったかな。この上はすぐ本丸になる。

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 で、到着しましたね。

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 ちょっと小高くなってるところが天守台だったらしくて、天守もあったらしい。

 大山崎って、昔は三川合流のところで港があったりして、かなり商業が賑わってた街だった。
 山崎の合戦の後、秀吉はすぐに山崎城の築城にかかって、山崎の街も城下町にして保護した。大坂城完成までは、秀吉つまり天下人の居城だったと。

 ……だけども、京都に聚楽第、大坂には大坂城を建てる方に注力するようになって、こんな要衝の城を奪われたら逆にやばいな、となって、2年弱で破却されてしまった。

 

 大山崎町観光アプリを出してて、GPS拾って天守台近くでカメラを起動すると、ARで再現された天守の姿が見られる。

 ARで見る限りはだいぶ小型の天守っぽかったな。宇和島城みたいなこぢんまりしたやつ。

 

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 帰路はちょっとルートを変えると、山崎聖天を通る。

 寺伝では、899年に宇多法皇御願寺として開いたというけど記録がなくて、はっきり記録にあるのは1681年。勝尾寺の木食上人以空が歓喜天を祀って再興したと。
 中御門天皇やら、住友・鴻池・三井などの大商人から信仰を受けて発展。それで歓喜天が有名になって山崎聖天と呼ばれるようになったけども、実は本尊は観音菩薩で寺の名前も観音寺。あらら。

 左手前に写ってる銅の灯籠も、1697年に住友吉左衛門友信が、別子銅山の銅で鋳造して寄進したもの。阪神淡路大震災で損傷したときも、住友グループと住友家が寄進して補修した。

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 山門も立派。新しそうではあるけれど。

 

 山崎聖天から線路近くの道まで降りていって、駅に戻る方向にいくと、瓦窯跡がある。のだけど、3月末まで整備工事中だった。

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 さらに駅近くまでくると、山崎院跡。

 725年に行基は山崎に淀川を渡る橋をかけた。それから山崎に道場として開いたのが山崎院。
 さすがに1300年前のことだと古すぎて目立つ遺構とかはないけれど、発掘調査で菜食された壁画の欠片が出て、当時は華やかに飾られた建物があったんだろう、とのこと。

 

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 山崎駅近くには、離宮八幡宮という広い神社もある。

 859年に、清和天皇の命で宇佐八幡宮から勧進されてきた。もともと嵯峨天皇の河陽離宮があったところに開かれたから離宮八幡宮となった。

 足利義満が、大山崎一帯をこの八幡宮の神人在所として「守護不入地」と指定してから、明治維新までずっと神領として自治区になっていた。

 

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 油祖人、という像が立ってるのだけど、平安時代離宮八幡宮の神官が「長木」という油絞りの道具を作った。テコの原理でエゴマの実を潰して油をとるやつ。
 元々は神前に捧げる灯明の燃料だったのが、後にエゴマ油の独占製造販売権を与えられるようになって、エゴマを買い付けては油にして売る産業ができたと。
 それで離宮八幡宮が、本邦製油発祥の地となっている。

 

 と、今回の大山崎散策は以上。

 アサヒビールの山荘美術館とか、サントリーの蒸溜所とかに遊びに来たことはあったけれど、文化財とか史跡も豊富な土地で見応えあるな。