堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

大阪市「旧町名継承碑」めぐり (2) でんでんタウン近辺

 大阪市の旧町名継承碑めぐり、2回め。

 事前調査によると、日本橋でんでんタウン近辺にもいくらか見られるようだ。そのあたりを巡ってみた。

 

drive.google.com

目次

 

訪問記19年2月7日

 用事のついでに平日からふらっと。

 

南高岸町(浪速区

f:id:mubouan:20190208103753p:plain

 木津市場のすぐ南、敷津小学校の隣に高岸公園というのがある。その南端に立っていた。
 現在の住所では、敷津東3丁目9番。

 地名の由来は、このあたりが川沿いで少し小高いところだったから、という。
 今は川などまったく見当たらないのだが、しかしなんばパークス西側の「パークス通り」と呼ばれる広い道路、なんだか周囲と調和しない感じにカーブしている。これは川の跡っぽいな。
 すこし調べてみると、どうやら高津入堀川という運河だったようだ。
 この近くは鼬川とか難波入堀川とか色々流れていたみたいで、昔はほんとに水の都やったねんなと思える。

 南高岸町があれば北高岸町もあったようだが、旧町名継承碑が立っているかはまだ情報がない。
 旧町名継承碑は公共施設や公園の敷地に立ってたりすることが多いので、浪速区役所近辺の公共施設を見て回ってみればもしかすると。年金事務所、郵便局、税務署、スポーツセンター、府立体育会館あたりかなあ。

 

広田町(浪速区

f:id:mubouan:20190208105729p:plain

 木津市場からちょっと東、今宮戎神社のちょっと北に廣田神社がある。
 その鳥居を出て左手(東の方)へ進むと右手に見える市営住宅の前に碑がある。
 現在の住所では、日本橋西2丁目7番。

 今宮戎神社の有名さに比べると、そのすぐそばの廣田神社は今はやや知名度が低いのだけど、四天王寺の鎮守とされている古社だ。
 かつて廣田の杜といわれる鎮守の森が広がってたそうで、もちろん広田町の由来も廣田神社からだ。

 

西関谷町一~二丁目(浪速区

f:id:mubouan:20190208112233p:plain

 これだけちょっと撮影日が違う(1月31日)。
 大阪市立浪速小学校・日本橋中学校の敷地西側、南海本線沿いの角に立っている。住所は日本橋西1丁目9番。

 最近、南海本線の高架下がEKIKANなる商店街にされて、通りかかる機会も増えたあたり。以前はなにもなくって、近くの住民でなければあまり通りかかるところじゃなかったな。

 碑文には、「(関谷町という)町名は、旧村(今宮村)当時の字名に由来する」というだけで、あまり情報がない。。
 広田町は今でも廣田神社があるし、南高岸町の碑は高岸公園に立っていたりと、地名の痕跡があるけど、関谷町のあたりには、関谷と冠した建物や施設も見当たらない。
 まあ、痕跡もないからこそ、継承碑でも残さなければ本当に消えていってしまうのかもしれないな。

 

東関谷町一~二丁目(浪速区

f:id:mubouan:20190208110731p:plain

 かつて日本橋でんでんタウンの中心地だった恵美須町駅近く。
 1-B出口を出て、近くの十字路をちょっと西に入ったところ、駐輪場に立っている。
 現在の住所では日本橋5丁目15番。

 昔だったら、ここを駐輪場にするのはもったいないと思える場所なんだけど、もう電気街は北にずれてしまった。寂しいものよ。

 

(碑未発見)北日東町・南日東町

 さて、東関谷町一~二丁目の碑があるところから、堺筋を超えて東に渡ると、市営日東住宅が建っている。
 旧広田町に広田住宅があったとおりで、このエリアは北日東町・南日東町という地名だったはずだ。

 しかし、碑は今回歩いた範囲では発見できなかった。
 いかにもありそうなんだけどなあ……

 もしかすると、改築中で現在板塀で覆われているNTT日本橋ビルにあったのかもしれない。

 あるいは、北日東町・南日東町は、住居表示の実施よりも前、1962年に日本橋東に編入されて消えている。住居表示の実施で消えたことが碑の立つ条件なのかも。

 

 碑を探しながら、公園や公共施設があったらそこを探す、といった調子で北上していったが、成果なし。

 

御蔵跡町(中央区

f:id:mubouan:20190208115753p:plain

 電気街のでんでんタウンに比べると高い知名度ではないが、南海本線なんば駅南口からまっすぐ東へ伸びる道を、堺筋を超えたところから、履物屋街「はきはきタウン」と呼ばれるエリアになる。
 御蔵跡町の碑は、そのはきはきタウン北側の歩道にある。
 現在の住所では中央区日本橋二丁目一八番。

 江戸時代には天王寺村と呼ばれていた地域で、ここらには幕府の米蔵天王寺御蔵あるいは高津御蔵)の跡地があったために、明治に御蔵跡町という地名になった。
 住居表示で、日本橋二丁目と高津三丁目の一部となって消えた。

 なぜかこの碑は碑文の傷みが酷く、かなり読みづらかった。

 

 幕府の米蔵があったのは、宝暦2年(1752)~寛政3年(1791年)の間。
 ちなみにその直前には天王寺村鋳銭所があって、寛永通宝を作っていた。しかしこれは1741年に作られて、45年には早々と操業停止。支配人が不正かましたりして頓挫したとのこと。それで跡地が米蔵に。
 このネタは、黒門市場東側裏手の黒門公園にある、天王寺村鋳銭所跡の碑と、その説明文から仕入れた。

 しかし米蔵の方も、湿気が多くて米が傷むとして40年足らずで廃止、近くの難波御蔵に統合するかたちで廃止された。その後、土地は民間に払い下げられて御蔵跡町になっていった。

 

河原町一~二丁目(中央区

f:id:mubouan:20190208121010p:plain

 千日前なんてもう数え切れないほど歩いた街なのに、その裏手にあるこの小さな公園はほとんど入った記憶がない。もしかしたら初めてかもしれない。
 道具屋筋商店街の途中にある東方面への路地を進んでいけば見つかる、難波千日前公園の中にあった。
 現在の住所では、難波千日前五番。

 昔はこのあたりに溝が東西に通っていて(碑文に川ではなく溝とある)、その溝沿いの(かわら:川辺の水が枯れて砂や石が多くなっているところ)と呼ばれていたのが由来、とのこと。
 もちろん現在はそんな溝はないのだが、地図を見ると、なぜか土地を三角形に切ってしまう変な道がある。もしかしたら溝の跡かなあ。

 御蔵跡町の碑がひどく傷んでいたのに対して、こちらはずいぶんきれい。多分建てられた当初から柵の向こうなんだろう。

 

蔵前町(浪速区

f:id:mubouan:20190208122001j:plain

 この無法な自転車の止めっぷりが大阪らしいが、なんばパークス北端、なんばCITYの南北間のところに建っている。多分大抵は自転車に埋もれていて気付かないと思う。
 現住所では難波中二丁目10番。

 すぐそばに、難波御蔵・難波新川跡の碑もある。こっちのほうが目立つ。
 御蔵跡町の天王寺御蔵とは別で、享保18年(1733)からあった。蔵前町はこちらの難波御蔵の前だったことが由来。
 さらに道頓堀川まで船運のために通されていた水路が難波新川。

 難波御蔵は、1732年の享保大飢饉に対応するために、救援米を備える目的で置かれた。1791年に天王寺御蔵を廃止して、こちらを増築。かなり大規模な米蔵になってたそうだ。

 しかし明治30年(1897)にはもう使ってないから解体して、タバコの工場を作った。
 それで工員さんが集まって難波の街が発展していったのだけど、戦争の空襲で壊滅。

 その跡地は、1950年に南海ホークス大阪球場に。
 1990年まで使われて、しばらくは球場のグラウンドが住宅展示場、スタンドがウインズ難波という使われ方になっていた。
 馬券を買える年じゃなかったけど、大阪球場跡のウインズには一度連れて行かれたことがあったな。今の小奇麗なウインズじゃなくて、昭和のおっさんの楽園だったから、ちょっと怖かった記憶がある。

 そして今ではなんばパークスだ。

 

 今回はこの程度で。
 なかなか歴史ネタの収集できる旧地名が多かったな。