堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

戦国時代の泉南について

 好きでそうしたわけでもないけど、私は和泉国南方の生まれだ。
 泉南市という自治体もあるけれど、ざっくり和泉国南部を指して「泉南」と呼ぶこともよくあって、岸和田市以南(貝塚泉佐野熊取町田尻町泉南・阪南・岬町)を指す。

 

 でまあ私は、「信長の野望」を嗜む程度には歴史ファンなわけだけど、実家の近所に戦国時代の史跡みたいなものが、本当に少ない。

 城にしても、岸和田城くらいしか知名度がある城はない。
 ゆかりのある戦国武将で一番知名度が高いとなると、日根野弘就?
 岸和田城も、信長の時代以降には特に地元にゆかりのない人に使われてる。

 合戦といったら、大坂の陣での樫井の戦いが辛うじて知られている戦かな。他はなんというか、信長や秀吉が紀州征伐する通りすがりに焼かれたとかそんなの。

 

 畿内でここまで戦国エピソードの少ない地域もちょっと珍しかろう。
 こんなところに生まれて歴史ファンになってしまうなんて、とも思うんだけど、しかし私よりはるかに歴史に詳しい友人は北海道の人だ。別に故郷の史跡の有無は関係ないのかもしれない。

 

 

延喜式で下国

 平安時代の朝廷は、日本を国に分けて律令制を布いた時、国力によって大国・上国・中国・下国に分けた。
 その頃のことだから日本の中心は畿内で、大和・河内・伊勢は大国、山城・摂津・紀伊は上国。
 それが、都にほど近い和泉国は、中国にすらされず下国

 下国って、島国の隠岐壱岐対馬・淡路とか(佐渡は中国)、志摩・伊豆といった半島、山深い伊賀・飛騨が指定されてるもので、畿内の平野部にある和泉国が下国。

 私も知った時は驚いたけど、理由ははっきりわからなかった。
 どうも当時は人口が少なかったみたいで、未開の原野みたいな土地が多かったんじゃないかな。
 現代でも感じるんだけど、泉南は川が少ない上に流量も細くて、降水量も少なすぎる。至るところに貯水池があり、神社も水請いの神様を見かける。現代でも有名な作物は、降水量の少ない土地に適したタマネギ。
 これだと、稲作ベースで石高を数えたらかなり低くなっちゃうとか、そもそも水田が作りにくくて居住地として適さなかった、それで人口も伸びない、といったことだったかもしれない。

 

 

 まあ、今住むには非常に暮らしやすい気候だとはいえる。
 ただ、泉南は気候以外が酷すぎる、特に学校教育がひどいから、「大阪市内の会社に勤めながら郊外の泉州に戸建てマイホーム」とかやっちゃうと、子供が不幸になる。絶対にお勧めしない。
 どれくらいひどいかは、生まれ育った私に直接聞いてくれれば1時間くらい喋り続けられると思う。

 

和泉国守護について

 さて、和泉国には堺があって、足利義満の頃に続けて反乱の拠点になった。

  1300年代末の和泉守護は山名氏清で、南朝との戦いで功績を上げて和泉守護になったんだけど、山名氏内部の後継者争いに足利義満がつけ込む形で、反乱を起こさざるを得ない状況に追い込まれた。
 義満が将軍命令で、「山名時熙氏之を討て」といっておいて、氏清が従ったら、後になって「やっぱり時熙・氏之は許したから攻めた氏清が悪い」と言い出すという無茶苦茶なやつ。
 それで氏清は明徳の乱を起こし、堺から京へと攻め上ったものの、敗れて戦死した。

 続いて和泉守護になったのは大内義弘明徳の乱の鎮圧ほか、各地で武功をあげていた名将。和泉・紀伊と九州四カ国の守護を兼ねる大身になっていた。
 でも、足利義満が「金閣寺作るから人員出せ」といい出したのに、「武士は弓矢で奉公するもんだ、お前の風流遊びなんか知るか」と突っぱねた。
 それで義満からの諸々の嫌がらせがあって、義弘が海路で堺に上陸、応永の乱を起こすに至ったが、結局鎮圧されて堺で討ち死に。

 そういうのがあって、堺のある和泉に強い権力者は置けない、となって、守護をふたつに分けた。地域的にふたつに分けてるんじゃなくて、全域をふたりで共同統治、っていう特殊ルール。
 1400年代には、細川氏が和泉守護になる。分けた両方が細川氏。どちらも元をたどると阿波の細川氏の分家。
 しかし、それほど強い力を持てるほどじゃなかったみたいで、阿波の細川氏やら紀伊・河内の畠山氏、そして三好氏らに翻弄された末に実権を失っていった。

 つまるところ、和泉国が戦国時代的に地味な土地になってしまったのは、堺を警戒して和泉国を弱体化させた足利義満のせいっぽい。

 

岸和田城

 楠木正成の甥に和田高家という武士があって、楠公から和泉守を譲られて、今の岸和田、当時は岸と呼ばれる村にやってきた。そしてそこに城を築いて、岸村の和田の城だから岸和田という地名ができた、という伝説がある。
 それは今の岸和田駅南西側にある城じゃなく、駅の東にあった岸和田古城らしいのだけど、これを発掘調査すると15世紀後半のものだとわかっちゃって、時代が合わない。
 和田高家も登場する文献によって書いてることが違ったり、どうも架空の人物らしい。

 南北朝時代の14世紀前半に岸和田治氏という人があって、この人が湊川の戦い楠公と共に戦って負けたものの生き延びて、その後も南朝の武士として何度も武功を挙げ、また岸和田荘を開拓した記録もある。地名の由来はこの人らしい。
 ただ、城を建てたかはわからない。記録がない。
 こちらはちゃんとした一次資料に登場するのに、なぜか太平記に書いてもらえなくて存在感がない。ひどいもんだ。

 なぜか太平記から漏れたマイナー武士が拓いたという史実より、楠公の甥だという架空人物の話のほうがずっとポピュラーになってしまっている。
 そこは、史実を掘り起こして堂々と、岸和田治氏という知られざる偉大な武士があった、その人に開かれた土地だと言い張ってほしかった。

 

 ともあれ15世紀には城はできてたらしくて、1400年代の細川家が和泉守護だった時代は岸和田城を使っていたらしい。
 守護代だった松浦氏(マツウラではなくマツラと読む。諱が一文字の珍しい家)が、細川氏や、その後に阿波からやってきた三好氏の下で岸和田城主として治めていた。

 三好が衰退して織田の勢力が和泉に来ると、松浦氏は追い出されちゃったようで、岸和田城主もコロコロ変わるようになる。まず織田信張蜂屋頼隆
 本能寺の変があって秀吉時代になると中村一氏が入り、そして小出秀政が入る。
 小出氏は、父の秀政が岸和田3万石、子の吉政が出石6万国を領有した。
 秀政が死んで、吉政は岸和田に移転。出石は子の吉英に譲られた。
 吉政も死ぬと、吉英が岸和田に移転。出石は弟の吉親に譲られた。いちいちスライドする。
 吉英のときに大坂の陣があって、大坂城のすぐ隣の岸和田城にいながらも、徳川方について活躍した。
 で、家康の命で吉英は出石に戻るんだけど、出石にいた吉親の方は園部に移された。やっぱりスライドする。

 その後、松平康重が城主になってしばらく治め、彼も山崎へ転出。
 ようやく将軍家光の時代、その後安定して岸和田を治める岡部宣勝が入った。このまま13代、廃藩置県まで続く。

 

 岸和田城に行くと、岸和田城の殿様は岡部様だとプッシュされていたように記憶している。まあそりゃ江戸時代を通して治めてたから、代表的殿様で当然だけれど。
 岡部宣勝は時代的に武功で名を挙げるのも難しく、戦国武将というイメージは持ちづらい。大坂冬の陣には出てるんだけれど。有名とも言いづらいと思う。
 決してボンクラではなくて、前の城主だった松平康重が悪政を敷いていたために、赴任早々に一揆を起こされかけたのを、宣勝は武力を使わず説得し、善政を敷いて岸和田を立て直したとされている。

 松平康重はそんなに悪政だったのか。
 うぃきぺの岸和田藩の項目を見ると、康重時代に「表高5万石ということになってるけど、土地が肥沃だし技術も進歩したから」といって、6万石に改めるように申し入れてる。
 延喜式で下国にされる少雨の和泉国で、土地が肥沃だからと1万石も積み増すのはちょっと不思議にも感じる。島原の乱の原因になった松倉勝家も、幕府に媚びるために4万石を10万石だと申告して、10万石分の年貢を取り立てる暴政をやらかした。
 本当に6万石が妥当だったのかもしれないけれど、農民からすれば年貢がいきなり上がるのだから、そりゃ不満は高まる。

 そこらの外様大名とかならともかく、松平が悪政を敷いてたなんて話を伝えてたら、後釜の殿様の株が上がる以上に幕府から睨まれそうな気もする。それでも伝わってるからには、松平康重の高直しがよほど怒りを買ってたのかもしれないな。

 

戦国泉南の有名人

 どこの土地でも、やはりご当地の戦国大名は贔屓されるもので、福知山では明智光秀は逆賊じゃなくて名君だし、高知でも安芸市だと安芸国虎が贔屓だとか。
 じゃあ泉南の武将を私が贔屓にしてるかというと、そもそも地元の武将をあまり聞いたことがない。

日根野弘就

 和泉国人や郷士には、和泉三十六郷士という小領主の連合があったらしい。のだが、正直名前が挙がってる人をまるで知らない。

 まだしも知名度があるのは、日根野氏だろうと思う。
 美濃斎藤氏の家臣に日根野弘就というのがいるけど、これは和泉国日根野郷士から分家して美濃に移った家。弘就が和泉の日根野孫次郎という人に送った手紙が現存していて、本家との付き合いもあったみたい。
 弘就は斎藤家が滅亡してから流浪する羽目になるのに、別に和泉に帰ったりはしてない。頼れるほど大きな勢力でもなかったのかな……。
 しかし江戸時代に信濃諏訪藩を立てる日根野高吉は、弘就の子だ。諏訪38000石ならよく出世したものだといっていいと思う。

 まあ、和泉で何かやったわけではないんだけども。

淡輪重政

 他に著名なのは、淡輪荘国人の淡輪重政。淡輪氏は三十六郷士には加わってないけど、水軍を抱えていて、信長の下で石山本願寺攻めにも加わっていたりした。
 泉州南部の歴史に関しては、現在の岬町にある海水浴場「ときめきビーチ」のホームページが詳しい。漁協がページ作ってるんだけど、かなり歴史好きなおっちゃんでもいるんだろうか。

 水軍の活躍が評価されたのか、織豊政権下ではそれなりに地位があったらしく、淡輪重政の妹・小督局が秀次の側室になっていた。で、秀次事件に巻き込まれた。
 重政は小西行長に仕えたけど、関ヶ原で西軍についてしまって。
 大坂の陣でも西軍に加わって、塙団右衛門と一緒に樫井の戦いで討ち死に。この戦は司馬遼太郎が「言い触らし団右衛門」という短編小説に書いてるから、読んだ人は多いように思う。ふたりとも墓所がいまも泉佐野市にある。

 小督局は、処刑される直前に女の子・お菊を産んでいた。これが泉州ではちょっとした有名人。
 関白の姫として生まれた直後に両親を亡くし、長じて山口兵内という武士に嫁入りしたら新婚5日で大阪夏の陣大坂城へ。お菊自ら密使になって手紙を届けに出る。
 紀伊から和泉へと山を超える時、男装するために山中で髪を切って松の根元に埋めたといわれている。それが「お菊松」と呼ばれ、今でも彼女の悲運の人生を偲ぶ記念碑が残る。
 しかし、使者として走っている間に、夫も義父も、叔父の淡輪重政もみな討ち死に。そして自らも捕らえられて処刑された。悲運の女性。

根来衆

 織豊時代までに、紀伊国北部、和泉国との県境にあたる和泉山脈の南側すぐ、根来寺が寺領72万石という巨大な寺領を持っていたという。ちょっといくら何でもでかすぎる気がするが。

 

 根来寺のある岩出市のウェブサイトによると、足利尊氏の頃に、和泉国信達荘を寄進されたことから、根来寺の勢力が和泉に広がり始めたと。室町時代から、和泉守護と対立する和泉の郷士と結んでたらしい。
 信達は今の泉南市の一部だけど、ちょうど根来寺から和泉山脈を超える県道63号線、かつて根来街道といわれた道を和泉国へと越えたあたり一体を指す。

 紀伊・和泉・河内あたりの郷士・国人は、次男坊三男坊を根来寺に送り、僧坊を建ててそこの主に収まらせる、ということをよくやってたらしい。 根来寺は多額の寄進を得られ、郷士は大勢力の高いポジションを得られる。

根来大膳盛重

 戦国時代の根来衆筆頭に根来大膳という人物があるんだけど、これは現在も熊取町に住宅が残る中家の出身。

 小牧・長久手の戦いの時は、岸和田城に攻めかかっている。これは中村一氏の防戦を破れなかった。しかし秀吉の背後を脅かすには十分だったようで、秀吉が前線を離れて大坂城に戻ったりもしている。
 もちろん秀吉が怒って、翌年には紀州征伐

 今の貝塚市内で、山手の千石堀城、平野部近木川沿いの積善寺城、海手の沢城(ほぼ遺構もないけど沢という地名は残る)、といった城で交戦したんだけど、あいにくたった3日で壊滅しちゃった。相手が悪い。
 そのまま秀吉は山を超えて根来寺にやってきて、僧は逃げ去り伽藍は焼かれ、大伽藍が三日三晩燃え続けたのが和泉からも見えていたとか。

 結局これで根来衆も壊滅、根来大膳はやむなく逃亡して、残った僧侶と共に家康を頼って還俗。
 この時に成瀬正一という徳の高い人の下につけられて、鉄砲隊の根来組が組織されてそこに組み込まれた。
 関が原にも大阪の陣にも参陣。江戸時代に入って大和に領地を貰って旗本になった。86歳まで生きた。

 

顕如 at 貝塚御坊

 ほんの二年ほどだけど、現在の貝塚市顕如上人が来ていて、浄土真宗の本拠地になってた時代がある。貝塚御坊、現在は願泉寺という名前になっている。

 

 本願寺教団と顕如は、信長包囲網が破れた1580年、信長と和睦した。
 それで石山本願寺を退去して、鷺森御坊(南海和歌山市駅の東に今もある)に移った。
 そして本能寺の変があって、秀吉の時代が来た1583年夏、貝塚御坊に移った。

 顕如貝塚御坊に移った頃は、秀吉がちょうど賤ヶ岳の戦いを終えた直後で、対抗勢力を駆逐して政権が安定したところ。
 大坂城の築城も開始している。これは旧石山本願寺の跡地に建てられる。

 そんな時期に、顕如紀伊の鷺森御坊に居させると、近くにいる雑賀衆根来衆に担ぎ出されて、またややこしい武装勢力化しかねない。
 一旦引き離して、秀吉の本拠地大坂と、根来・雑賀の紀伊の中間に置いておく方が、秀吉にとっても安心だろうと思う。

 1584年には織田信雄がゴネたことから小牧・長久手の戦いが起きる。
 このとき、やっぱり雑賀衆根来衆岸和田城を襲っているので、思ったとおりに危険だったわけだけど、この時に貝塚御坊の顕如が呼応して暴れたなんて話は見当たらない。先述の通り、泉南の国人や郷士根来寺関係者が多かったから、呼べばある程度集まりそうな気もするんだけど。
 貝塚御坊も、元々根来寺から住持を招いているし、信長時代の紀州攻めでは焼き討ちに遭ったりもする程度に、紀州勢と関係が深い寺だ。それでも顕如は動いてない。

 というかうぃきぺの顕如のページだと、貝塚御坊時代は完全にすっ飛ばされてるくらいだ。まあ、何もしてないんだと思う。

 1585年には、秀吉は紀州征伐に向かって、根来寺を焼き払い、雑賀衆を壊滅させた。
 で、顕如には大坂城にほど近い天満に土地を与え、今の造幣局のところに天満本願寺を開かせて、貝塚から移転させている。

 もし顕如が、雑賀根来と一緒になって挙兵でもしてたら、紀州征伐のついでに一緒に叩き潰されてたと思う。
 動かなかったことで、もう顕如に戦意はないと確認できたから、大坂のまちづくりの一環として真宗門徒が集まる寺内町を開かせ、経済的に利用する方針をとった、と。

 そう考えれば、顕如貝塚御坊にいて何もしなかった二年間も、なかなか意味のある時期だったことにできる。
 ま、決めつけの話で、実際どうだったかは、もっとちゃんと歴史を研究してる人が考えることだけど。