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『河内のオッサンの唄』は楠木正成公の歌だった説

 何を言っているかわからないと思うのだけど、最近私の周りで大流行している歌といえば、まず『うまぴょい伝説』、そして『河内のオッサンの唄』である。

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※比較

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 ところで先日SNSで、楠木正成公を「河内のオッサン」と呼ぶジョークを見かけた。

 確かに楠木氏は金剛山の麓、河内国・千早赤阪に館を構えていたという。

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千早赤阪村楠公生誕地碑

 でもって、このあたりには千早街道という、河内から大和へを結ぶ道が通っていて、交通の要衝であった。
 鎌倉時代には、こういう山越えの街道近くに道を抑える山城があるもので、それが楠木氏の詰城たる千早城。三方を谷に囲まれ、後方から尾根伝いに金剛山につながっているという、天険の堅城であった。

 千早城を築城するのは、すでに後醍醐天皇の倒幕戦・元弘の乱が進行している頃で、後醍醐天皇笠置山に敗れて捕らえられる事態になった。
 後醍醐帝に呼応して挙兵した楠公も、居城の赤坂城を幕府の大軍に攻められた。

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下赤坂城址

 多勢に無勢の戦で、楠公は激しく防戦するものの、下赤坂城が急造の城で長期戦に耐えられないと判断。自ら城に火を放ち、そして焼死体をいくつか残していくことで楠木一族が自決したと誤認させ、幕府方を撤退させることに成功。
 そして潜伏の後、新たに赤坂城に入った城主に奇策を仕掛けて城を奪還。そして速やかに周辺を制圧していった。

 そこに、幕府の北条高時は、30万という追討軍を東国から派遣してきた。
 当然来るとわかっていた追討軍を迎え撃つために、楠公金剛山一帯を要塞化し、その本陣として千早城を築いた。

 1333年2月、到達した幕府の大軍は、まず上赤坂城を水の手を切って降伏させ、将兵を皆殺しにして六条河原に晒した。
 そして、楠木正成の1000人足らずという小勢の籠もる千早城に、幕府の30万の大軍が押し寄せ、幾重にも取り囲んだ。

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千早城二の丸といわれる場所に建つ千早神社

 しかしこの僅かな手勢で、楠公は計略の限りを尽くして城を守る。

 そう、この千早城の戦い、これこそ、『河内のオッサンの唄』に歌われている

 

千早城の戦いと河内のオッサンの唄

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 はるばる東国からやってきた幕府軍を待ち受ける楠公、「オー良う来たのワレ」「久しぶりやんけワレ」と剛毅に迎える。一度は城を奪われてからの再戦であるからこそ、久しぶりという言葉が出てくる。

 「まあ上がって行かんかい」「早よ上らんけオンドレ」とは、金剛山上に要塞を構えた楠公が、上がって来れるものなら来てみろという挑発であろう。

 

 そして、「ビールでも飲んでいかんかいワレ」である。
 当然ながら鎌倉時代の日本にビールなどない。これはもちろん暗喩であろう。

 千早城の戦いにおける楠公の恐るべき火計は有名だ。
 幕府方が、千早城を囲む谷に橋をかけて一気に攻め上ろうという戦法を打ち出した。橋をかけるところまで成功し、数千の兵が橋を渡って押し寄せようとする。
 そこに楠公は、橋に向けて大量の薪を投げ入れた上、水鉄砲に燃料油を入れて噴射して火を放った。橋の上の兵は後続に押されて撤退もできず、炎は谷風に煽られて一気に燃え上がり、哀れ幕府方の兵は焼け落ちる橋とともに谷底に落下していった。

 ビール、つまりアルコールなのだから、燃料の比喩なのは明らかだろう。
 水鉄砲で油を噴射したという故事も、ビールを振ってから開けて吹き出させることで表されている。

 「これから熱いのワレ」「仕事がエライのワレ」と哀れな幕府方の兵を挑発しつつ、「もっと飲まんけオンドレ」「男はもっと飲まなあかんど」とさらにビール(燃料)を浴びせる、楠公の恐ろしさがよく表されている。

 

 また、幕府方は「こんな連中とマトモに戦わなくても、包囲してたら兵糧が切れて降伏するだろ」と高をくくって、ただ漫然と包囲、一部は遊女まで呼び寄せて遊び呆けるほど弛緩した雰囲気になっていたという。
 「おまんとこのおかん元気け(おかん=母親だが、この場合は妻だと解釈できる) 連れて来たったらええのにワレ」というのは、領地を離れてるのをいいことに女遊びにふける東国武士への痛烈な皮肉といえるだろう。

 挑発も重要だ。楠公の挑発に応じて攻め掛かると、伏兵や奇襲で散々な目に遭わされる……というのがパターンではあるのだが、それでも激昂して攻めかかってしまうほどの挑発術も、楠公にはある。

 

 歌では突然関東弁になって「酒の一升も飲んじゃってさ 競馬もやっちゃってさ」「てやんでべら坊めやんけ」と言い出すところがあるが、これはもちろん東の田舎武士をおちょくっているのだ。
 関西に来た東京モノへの嫌味で東京弁を真似るのは、現代でもよくある嫌がらせだろう。関西人が東京行った時かて同じようなことしよるやんけワレ。

 また、「競馬をやる」とよく歌っているが、楠公鎌倉時代随一の武士。もちろん馬術に関しても優れていることは疑いない。皇居前の楠公像の乗馬は、後藤貞行という馬を知り尽くした彫刻家による。

 他にも、「楠公の軍団がが京に攻め入るぞ」という噂を早馬を飛ばして京都に流布し、混乱に陥れる計略を使ったこともある。
 楠公のことだから、複数の早馬を同時に送り出し、誰が早く任務を終えて戻ってくるか競わせる、つまり競べ馬くらいはやらせているだろう。

 

 様々な手口の奇襲に翻弄され、損害ばかり重ねていく幕府軍
 さらに大和吉野あたりの野伏が楠公について、幕府軍の補給線を攻撃しはじめた。補給が崩れた大群は弱いもので、急速に飢えて戦意を喪失、逃亡兵が続出する事態に。
 隠岐に流されていた後醍醐先帝も脱出し、倒幕の綸旨を出すと、赤松円心ら有力武将の蜂起が続発。
 千早城に兵を割いて手薄になった各地では反乱を抑えきれず、足利高氏六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻略してしまった。

 3ヶ月の防衛戦の後、ついに幕府軍は撤退。楠公千早城を守り抜き、そして鎌倉幕府を倒した。

 

 「気付けて帰ったらんかい 前のドブ川にはまったらあぶないどワレ」と気遣うようなフレーズがあるのだが、幕府軍10万が一斉に撤退しようとして大混乱が起き、川や谷に落ちて死ぬ兵が続出したという。
 これは、楠公勝鬨といっていいフレーズだろう。

 

 ここまで明らかに付合しているのであれば、『河内のオッサンの唄』=千早城の戦い楠木正成公を称える歌である、ということは疑いないだろう。
 楠木正成公は、日本一の河内のオッサンだといえる。

 

 

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