堺風の頭部

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幕末泉南知行図

 うぃきぺの「日根郡」の記事を眺めていた。
 すると、「旧高旧領取調帳」という文書に記載されている、明治初年時点で日根郡のどの村が誰の領地だったか、という記録がまとめられていた。

 和泉国の、特に南の方はみんな岸和田藩の領地だろうと思っていたのだけど、意外とそうでもない村がある。
 京都守護職が取ってたり、遠くの大名が取ってたり。

 しかし昔の村の名前ではなかなかピンとこない。
 現在の地名から推定して、Googleマップにピンを立てて見やすくしてみた。

 

 まずは以下のリンクを開いてみられたし。

drive.google.com

 日根郡(今の貝塚市泉佐野市・泉南市阪南市・岬町)と、南郡(貝塚市岸和田市)の各村について、知行別に色分けしてみた。

 旧村名は、今でも大体地名として残っているので、Googleマップ上のその場所にピンを立てた。
 波有手村など、現在と違っても場所がわかるところはピンを立てた。わからんかったのは諦めたが、片手で足りる程度で済んだので。 

 

 では地図を見ながら。

青:岸和田藩領

 和泉国南部は、もちろん多くは岸和田藩領。

 岸和田藩は6万石だったが、初代藩主岡部宣勝が長男に53000石、弟に5000石と2000石と分知した。

 

赤・オレンジ:幕府領

 赤は、岸和田藩預かりとなっている幕府領。

 これは、岡部宣勝が下の子に分知したところかな。分知で独立したら岸和田藩の家臣じゃなく幕府直参の旗本御家人になって、形の上では幕府から知行所を貰うようになる、と思うのだけれど。

 分布を見ると、お寺に近い村が多いように見える。
 南郡の方(北寄り)は、久米田寺近くが多い。ちなみに粂田村というそのものの名前の村は、幕府にも大名にも支配されない「寺社除地」とされている。
 日根郡の方は、奈良時代に海会寺という大伽藍の古代寺院があって、その末寺が今でも一部残っているところ。あじさい寺こと長慶寺がそのひとつといわれる。

 

 オレンジは、誰それの支配所と明記されているもの。

 日根郡の沢村(現在の貝塚市澤)は、岡部竜八郎支配所とある。多分岡部の殿様の一族だろう。

 南郡には、屋代増之助支配所というのがある。
 石見銀山の代官の名前がそれで、時期も合っていそうだが、石見じゃなくてこんなところに知行所があったんだろうか。

 内海多次郎支配所の方は、ちょっと何者かわからなかった。

 それから「大坂町奉行朱印地」として貝塚町が挙がっている。
 これは本願寺貝塚御坊の寺領とされたところだろう。

 

紫:京都守護職役知

 これも幕府領だが、京都守護職役知は紫にした。
 今でいう泉南市阪南市に多い。

 次にも触れるけど、大坂城代京都所司代(幕末には守護職)→老中という譜代大名の出世パターンがある。
 大坂城代に遠くの大名が任命されると、便利のために所領の一部、1~2万石ほどを大坂近くに移す。
 大坂城代京都所司代に出世しても、そのまま引き続き支配を続けたりするんだろう。出世とともに加増されて増えるかもしれない。
 京都所司代をやめれば幕府に戻すが、たまに戻さないケースもあるようだ。

 

 今回の知行地は幕末の状態なので、京都所司代じゃなくて守護職
 つまりは松平容保の所領ということになる。

 泉南市阪南市の人たちが、「うちは岸和田とはちょっと違う」と言い張るにはいいネタかもしれない。

 

よもぎ色:日立土浦藩

 ここから、よその大名の飛び地。

 土浦藩が、今でいう岬町あたりを、かなり大きな範囲で領有している。
 このあたりは海と和泉山脈が近づいているから平地が少なく、人口や石高はそれほど高くないかもしれないが。

 

 土浦藩領になった経緯は、先述の大坂城代京都所司代→老中の出世コースに乗った、土屋政直という人によるようだ。
 なぜかはわからないが、土屋政直が老中になって京都所司代を辞めても、和泉淡輪は 土浦藩領のまま残された。

  土屋政直は八代将軍吉宗の擁立に尽力したり、忠臣蔵の事件にも薄く関わってたりするので、ちょくちょく時代劇や歴史小説に登場する人物でもある。
 岬町の人たちが、「うちは岸和田とはちょっと違う」と言い張るにはいいネタかもしれない。

 

 大阪府南端のあたりは、昔から岸和田藩とは別の支配があった。

 戦国時代の末期には、桑山重晴による隠居地として、谷川藩1万石があった。
 これは次の代で潰れて、御所藩の飛び地として吸収される。しかしこちらもお世継ぎがなく断絶。御所藩領は幕府領になる。

 元々ひとつの藩として1万石ほど固まった地域だったから、土浦藩にぽんと任せるにもちょうど良かったのかもしれないな。

 

緑:近江三上藩領

 今の阪南市海寄りの波有手村他3村と、少し離れて田尻町の吉見村が、三上藩の領地となっている。

 三上藩は1万石の小藩で、今でいうとJR野洲駅から南の方へいった野洲川沿いのあたり。
 藩主は遠藤氏で、遠藤胤統の代に大塩平八郎の乱を鎮圧するのに功績をあげ、若年寄に出世して2000石の加増を受けている。
 多分その加増2000石がこの、和泉の4村かと。

 三上藩は、外様の小藩ながらも将軍に重用してもらえた恩義を感じていたみたいで、維新でも一貫して幕府側。明治に入って一度は所領を没収された。
 後に旧領を回復されて三上藩知事になったが、その後、三上から吉見村の方に藩庁を移した。

 日本有数の小さな自治体である田尻町が、一時は12000石の藩庁所在地になっていたというのも、なかなか面白い。
 南海本線吉見ノ里駅から、まっすぐ海の方へ下がってくると、このあたりにしては大きめの春日神社がある。ここが藩庁吉見陣屋の跡地だ。
 田尻町の人たちが、「うちには岸和田のとは違う殿様が居た」と言い張るにはいいネタかもしれない。

 

グレー:山城淀藩領

 淀藩の領地も、南郡に今の岸和田市北寄り3村と、日根郡泉南市の男里川河口あたりの男里村、計4村がある。

 淀藩の稲葉氏は、10万2000石もあるなかなかの大身なのだけど、この所領が全国各地に分散している。
 祖先をたどれば、戦国時代に美濃三人衆のひとりとして有名な稲葉一鉄に至る。
 代々やたらと転封が多くて、美濃から越後やら関東各所やら、そこらじゅうに飛ばされまくっている。それで飛び地が残りまくったのかと思う。
 おかげで、合計は10万2000石といっても、淀藩の運営にすぐ使えるような手近な資本が2万石分もなかったとかで、いつも困っていたそうだ。

 和泉の殿様になったことはないのだけど、7代藩主稲葉正諶が越後に持っていた所領を和泉や近江に移転したらしい。この人も大坂城代から京都所司代になってるので、所領を移す制度を利用できたのかな。
 越後よりは和泉や近江が近くて使いやすいと思ったんだろうけど、事態の改善にはならなかったようだ。和泉の中ですら散ってるからなぁ。