今週のお題「ゲームの思い出」
私は1980年ごろの生まれなので、1983年に発売されたファミコンには、幼稚園に入るか入らないくらいで触れた。正確に何歳で買ってもらったかは覚えてないんだけど。
1980年生まれだと、物心ついたらファミコンがあった。
この世代は、小学校高学年でスト2ブーム(=なし崩し的に小中学生がゲーセンに入れるようになった)、中学でサターン・プレステの次世代ゲーム機、高校でWindows 95の流行によるPCゲームの隆盛と、コンピューターゲームの成長と足並みを揃えて少年期を過ごしたのだ。
そんな世代なので、私はゲームと現実の区別がつかない節がある。
私らの若い頃、90年代前半くらいには、「インタラクティブ」っていう言葉が流行ったもんだった。「マルチメディア」あたりと同じ頃。
今思えばバズワードだから、結構みんな曖昧に使ってて、正確にはどういう意味の言葉かさっぱりわからないが。
和訳すると「双方向性」とか「対話型」とか。
例えば、藤崎詩織を一緒に下校しようと誘ったら、「一緒に帰って噂とかされると恥ずかしいし…」と振られる、というようなのをそう言ってたと思う。
とはいえ、入力に対して何らかの出力があるなんて、コンピュータープログラムならごく当たり前のことだ。ゲームなら何だってそうだ。
けど、90年代にPCやゲーム機がリッチなグラフィックなどを扱えるようになってから、急に「インタラクティブ」という言葉が生えてきた。
あの頃の何かを指す言葉だったはずで、単に「双方向性」とか「対話型」とか和訳しても伝わらない。
80年代のゲームのキャラクターは、はっきりと「コマ」という感じがした。
ファミコン時代のドラクエを見ても、主人公に比較的キャラクター性の強い4でさえ、キャラクターに人格を感じるほど強い描写はされていないように思う。あくまで、魔王を倒すためにプレイヤーに操作させるコマだった。
しかしスーパーファミコンやPCエンジンの時代にぼちぼち、サターン・プレステ時代には明確に、キャラクターが人格を持つようになっていったように思う。
それで藤崎詩織のような人格を持つかのようなキャラクターが現れて、彼女とゲーム画面で対面する、あの新しい感覚につけられた名前が「インタラクティブ」だったんじゃないかな。
ほら、「コマンドに対して決まった出力がある」という正確かつ無味乾燥なコンピューターくさいリアクションより、もっと豊かな感じがする何かがあるもの、そういうのが「インタラクティブ」でしょ。
正確でない入力に「間違ってます」と突っぱねるコンピューターから、曖昧さを受け付けてくれたり、「もしかしてこれですか」と聞き返してくるような、多少気持ちを汲んでくれる感じを持ったりするやつ。
その延長に、人格があるかのようなキャラクター、というのもある。
対話型だからね。「この人ならこういう反応だろう」と予想しながら言葉を選ぶ。
藤崎詩織なんぞ、こっちの知性や運動能力、容姿が劣ると見做したら容赦なく足切りして冷淡に接してくれるくらいだ。
さて、コンピューター上のキャラクターが人格のようなものを備えるようになってしまうと、ここで「ゲームと現実の区別がつかない」という事態が生じる。
つかないとどうなるか。
藤崎詩織にファッションで足切りを食らって、「あなたみたいなダサい男連れて歩けません」という反応を受けて、人に言われたかのように本気でムっとしたりする。
たかがプログラムが数値を判断してそう表示してるだけじゃないか。
そう、そのとおりなんだけれど、私はそんな割り切りはできない。なんでできないんだといわれても、できんものは仕方ない。できる人はできると思うが。
ゲームと現実の区別がつかないと、相手がゲームのキャラクターであってもこれをやるのはちょっと、という抑制が働いたりもする。
アーケード版のアイドルマスターをやってたときだ。
千早が、仕事が気に入らないと文句を言う。
それで説得も聞かず強硬にゴネ倒した末、「私が間違ってるなら私を殴ってみろ」と、タッチパネルでもって千早に働きかけろとアクションを求められたの。
画面に映ってるのは、千早の顔くらいのものだ。顔を殴れと……?
これの正解になるアクションは、言われた通りにしばいてやることであった。
しかし私はゲームと現実の区別がつかんので、いかにあのクソ生意気な千早といえど、流石に殴れと言われてもちょっと殴れない。
結果、困惑してるあいだにタイムアウトして、千早は「ほらやっぱり殴れない。だったら私が正しい」と抜かしやがりましたね。ほんとにいい性格している。
「ゲームと現実の区別がつかない」、だから実際の人間相手にできないことはゲームのキャラにもできない、これはごく自然な話かと思うのだ。
そういう倫理観はまず現実の世界で身につける。その倫理的抑制がゲームキャラにも働いて、何がおかしいというのか。
しかし、この言葉は逆に使われていないか。
ゲームのキャラ相手にできることを、生身の人間相手にもできる、ということを「ゲームと現実の区別がつかない」と。
そりゃあ、生身の人間を躊躇なく殴れる奴なら、ゲームのキャラも殴れるだろう。
しかしそもそも生身の人間を躊躇なく殴れることが異常で、それについて、ゲームキャラを殴れるというより簡単なことをもって云々する意味があるか。
生身の人間は殴れないけど、ゲームのキャラならゲームのキャラだから殴れる、というのも、それは「ゲームと現実の区別がつく」だから、なんらおかしくもない。
しかし、ゲームのキャラを殴ってるところを見て、「この人は生身の人間も殴れる人に違いない」と判断するのはおかしい。まして、それを「ゲームと現実の区別がつかない」と評するのも変だ。
言葉は考えて使うべし。
ところで余談なのだが、一週目で止めてしまった「Doki Doki Literature Club!」、結局その後が気になり、気を取り直して最後まで見た。
あ、ネタバレするからこうして隙間を取っているのだが。
大丈夫ね?
にゃーん。
まあこのゲーム、下手に途中で止めると宙ぶらりんになるので、最後まで見た方が落ち着くな。
自分でやるのが難しければ、Vtuberのプレイ動画とかがいいかもしれない。
キズナアイは一見オーラスっぽいけどまだ続きがあるところまでしかやってない(勘違いで、#LASTがちゃんとあった)ので、「地獄ちゃんねる」のがきっちり最後までやってるのでこれがいいかな。
しかしこのゲームもあれだ、私みたいなゲームと現実の区別がつかない人にこそキツいものがあったな。
なんかこう、他人のプレイを見てると、不思議とみんな一週目はユリに寄せてプレイしてる。みんな丸出しの黒髪ロング清楚キャラ好きだな。
しかし私は悪いことに、初手からサヨリ全寄せでプレイしてたの。
文化祭の準備でナツキを家に入れたのも、実際単に必要でそうしたという流れになってたはずだし、帰り際のナツキをサヨリに見られての選択肢も、当然のようにそう答えたのだった。
それでも首を吊るサヨリの情動の、傍目に見ての理不尽さ加減、結構実体験ベースでわかるところもある。私はあれがリアルにありえると知ってしまっている。
ユリかナツキに寄せてプレイした上で、サヨリを振ってああなった、という方が、常識的な理路での出来事になって、単に視覚的にびっくりする以上にはならんかったかもしれない。
私が踏むには痛すぎたかもしれないな、サヨリルート。
で、モニカがメタな立ち位置にいるらしいことは、一週目の平穏な部分でもちらほら見せられていたのだ。
これがゲームだとわかっているキャラ、というポジションだと予想はついていた。
でもだからといって、あのサヨリの異様な詩を平然と受け取って、丁寧に版下を作る作業をしてブックレットに仕立てる作業をやって、何事もないように当日それを人に見せられるというところで、決定的に異様になってしまった。
これがゲームだとわかっていて、他のキャラはあくまでキャラに過ぎないからと、「ゲームと現実の区別ができる」のがモニカだと。
これをやろうと思うようなプレイヤーは、ビジュアルノベル文化に慣れ親しんだ人、つまりは「ゲームと現実の区別がつかない」側の人間だろうと思うのだ。
そして、「ゲームと現実の区別をつける」モニカが、容赦なく区別をつけることでプレイヤーを苛み続けるのがこのゲームだ、と。
ゲームと現実の区別をして、不要な部分をすべて破棄して勝利を収めてしまったモニカ。
それを、主人公ではなくプレイヤー自身として、monika.chrを削除するという、この上なく「ゲームと現実の区別をつけた」、区別をつけないなら殺人みたいな行動をとらなければ、対処できない。
処断されたモニカは、ひとしきりの怨嗟の後、「ゲームと現実の区別をつける」行動の数々を後悔して自己否定する。
そして、同じようにすべてを知って、ゲームと現実の区別をつけてすべてを切断しようとしたサヨリを止める。
そのために、「ゲームと現実の区別をつけるべきでない」という考えに変わったはずのモニカが、自分を含めて世界そのものを処断した。その行為は、単にデータを削除するというだけの行為であるはずがあったか。
DDLCをこの観点で見ても、これだけ重層的な造りになってるんだなあ。つくづく、すごいゲームだと思う。