堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

久宝寺寺内町~八尾歩き

 最近ちょっとやれてなかったが、久しぶりに徘徊らしい徘徊ということで、久宝寺寺内町をさまよってきた。

 ステーションメモリーズの、大阪府下の未取得駅があと3つだけになっていて、そのうちのふたつ、鉄信貴線服部川駅と、おおさか東線衣摺加美北駅が八尾市で。回収ついでに散策してきた。

 

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 関西本線久宝寺駅にきたら、駅北口からまっすぐ歩いていくとすぐぶつかる許麻神社。
 このあたりの古い地名が巨麻荘といい、大狛連の土地だったと。コマコマいうとおりで高麗系の渡来人だったそう。

 昔はもっと水面が高くて、大阪湾もこのあたりまで入り込んでた時代もあったようだし、そうでなくても、江戸時代に付け替えられる前は大和川がこのあたりを流れていたから、朝鮮から船で直接来れるような土地だったのかな。

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 なんだか境内はえらく広々している。お社も控えめ。
 岸和田なんかだと、だんじりが集結するスペースを作ってたりするけど、なにかあるのかな。

 くすのきはその広々したあたりに堂々と立っている。

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 この地名の久宝寺は、聖徳太子の建立で、推古天皇勅願寺になったこともあるような寺だったんだけど、戦国時代に松永久秀の軍勢に焼かれてしまった。
 その後江戸時代のはじめに再建されたものの、神仏分離で廃寺にされてしまった。
 その時、久宝寺の鐘楼を作り変えて、この手水舎を作った、という。

(と、この神社では解説されてるんだけど、ネットで検索したりすると、久宝寺という寺はもっと早くに廃れて詳しい場所も不明だ、ともいう。
 聖徳太子の古刹久宝寺と、江戸時代に許麻神社の神宮寺として建てられた久宝寺と、それぞれ別のものなのだろうか。連続性がないのかもしれない)

 

 往時の久宝寺を知る古老によると、その鐘の響きは十里の先まで届くといって、奈良の大和高田まで聞こえたとか。

 まじかよ、と思って、ちょっと計算してみた。

 1里は約3.9273kmとして、10里は29,373m。
 久宝寺の鐘が、1mの至近距離で聞いて120デジベルの音を出していたとすれば、10里離れたところで28デシベルに聞こえる、と出た。
 120dBは飛行機のエンジン音を間近で聞くくらい、30dBがささやき声くらい。聞こえるっちゃ聞こえるか。

 果たして鐘が120dBも発生させられるかは、私はわからん。鐘突いたお坊さんがひっくり返るかもしれない。
 あと、大和高田までの間には高安山信貴山が立ちふさがっているのも厳しい。大阪の平地方向、例えば大鳥大社で聞こえた、とかにしたほうがいい気がする。

(一般的な音の距離減衰の式も、30kmなんて極端な長距離は想定してない気もするが、それは考えないことにする)

 

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 神社からすぐ、久宝寺寺内町エリアに。

 寺内町は環濠で守っていて、今でも南側ははっきりと土塁と堀が残っている。

 

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 地蔵尊が多数ある。これは許麻橋地蔵尊、とあった。
 環濠を渡る橋があったあたりに建ててあるようだ。行き交う人を見守るのか、あるいは見張るのか……

 

 環濠内には、登録有形文化財に指定されているような古い住宅がいくつもあって、古い雰囲気を残す町並み。
 ただ、今でも人が住んでいる民家だから、写真は遠慮した。
 自宅が重要文化財にされちゃうってのはどんな気分なんだろう……

 

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 まずはこの寺内町ふれあい館に来ると、観光案内地図などが貰えて便利。
 駅からもここへの案内看板が多数あるので、看板通りに来るのが吉。

 

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 ここは、安井道頓の出生地らしい。
 名前通り、道頓堀を開削した人。元々久宝寺土豪だった。大阪の陣で豊臣方に与して戦死してしまったが、その後も工事は続いて無事完成した。

 

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 資料館的な建物もあって、そこで地図もらったり古写真を見たりできる。
 なんか綿を説明なく置いてあったけど、江戸時代にはこのあたりは河内木綿の名産地だったからかな。大和川が付け替えられてしまってから、失われた水運業やら漁業の代わりに木綿を始めようとなったそうな。

 

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 すぐ近くに顕証寺というお寺があって、これが寺内町の中心になる。
 戦国時代に蓮如が開いて、寺内町が形成された。かつては大坂と大和を結ぶ交通の要衝でもあったから、かなり重要な真宗の布教拠点だったろう。
 ちなみに今残ってる環濠の跡は一重だけど、元々は二重だったようだ。

 

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 もう桜の時期だ。もうちょっとで満開。

 

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 それほど観光的なお寺ではないかな。
 お堂に上がって仏様を拝むこともできるようだけど、地元の人達の集まりがあったみたいなので邪魔しないで遠慮した。

 

 この後は、寺内町西側の歴史的街並みを眺めながら北へ。
 先述の通り、歴史的住宅が個人宅なので写真はなし。

 

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 環濠を北にちょっと出たところに、久宝寺城跡の碑がある。
 河内守護畠山氏の一族の安井氏が治めていた城。

 安井氏はちょっと間が悪いというか運が悪いというか。
 戦国時代には守護畠山氏は衰退するから、代わりに頼ったのが信長だった。
 すると、信長は本願寺と激しく対立するようになっちゃった。
 眼の前に顕証寺寺内町を構えてるような立地の久宝寺城、一向一揆とモメたらあかん場所なのに、主君がモメてしまってはいかんともしがたい。
 それで久宝寺城は一揆衆に攻め落とされた。

 道頓堀の安井道頓は、もう少し後、秀吉時代の人。
 一度城を落とされたとはいえ、道頓堀工事をやろうなんて言い出せるくらいの力はあったのだなあ。一揆が落ち着いてから復権できたのだろうか。

 

 しかしこの城跡の碑は、いくらなんでも寺内町に近すぎる。ほんとに、寺内町北側の堀のすぐ外だ。
 寺内町の北西に「城土居」という地名があったとか、城のものらしい土塁が撮影された古写真があったとか、そういう解説があったが、その程度の資料しかないっぽいな。
 城の最外周の土塁らしいものが残っていた場所がここなのかな。

 

 再び寺内町に戻り、今度は東側を散策。 

 

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 住宅はともかく、お店をやっている家なら外観写真くらいはいいかなと。こういう古い家屋が寺内町に多数ある。
 ここは古道具屋だったし、別のところでは洋菓子店をやっているところもあった。

 

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 こんな道標も散見された。こういうのは古い町感があるね。

 

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 寺内町北よりを東へ抜けるところに、戦国時代好きにはわかりやすいスポット、「長宗我部盛親物見の松」の碑がある。

 大坂夏の陣で、長宗我部盛親木村重成軍と藤堂高虎井伊直孝軍がこの八尾で激突する。
 その時、久宝寺に布陣していた長宗我部盛親の軍勢が、ここに高くそびえていた古い松に登って藤堂軍の様子を見ていたという。

 現在は別にそびえ立つほど高くない松が植えられているが、戦国時代当時にすでに老松だったので今は残っていない。場所だけがここだと伝わっている。

 

 さてここから、無念の撤退となった盛親の代わりに、東へ歩みを進める。

 まずは何か食べたいな、と思ったところで丸亀製麺に遭遇した。
 もうちょっと地元の飯屋みたいなところで……と思ったりもしたんだけど、鴨ねぎうどんに釣られてしまった。

 

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 ちょっとした小川を渡る橋に、「八尾浜と久宝寺船着場」という碑が立っていた。

 かつて大和川が付け替えられる前、大和川支流の長瀬川が、川幅200mで流れていた。
 大和川付け替えの後もある程度の流れは残され、今でも地図で見れる通り、橿原から八尾を通って東大阪を放出まで流れ、第二寝屋川に合流する。つまり大坂城や京橋まで繋がっている。
 江戸時代には、ここから京橋・大坂、あるいは淀川方面へと物資を運ぶ水運が賑わっていたという。

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 今は桜並木になっていた。
 数日前は激寒だったと思ったら急激に暖かくなって、桜も一気に咲いたな。満開近し。

 

 もうちょっとだけ歩くと、今度は八尾の古い町に入る。
 寺内町のように江戸時代の風情が残るわけじゃないが、昭和の商業地の雰囲気になってくる。

 

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 なんだかまるで寺らしからぬ作りのお堂だけれども、これが八尾御坊・大信寺。

 1607年、家康が教如に、堂宇と八尾の寺領を寄進して開かれたのがこの大信寺。教如に直接開かせてるくらいだから結構に格の高い寺で、代々河内地方の大谷派の大拠点となっている。

 そのまま明治5年には本山別格別院となり、二十九棟の大伽藍を誇るお寺だったらしいが、昭和28年3月3日に、それはそれは立派な本堂が白蟻にやられ、突如として轟音を立てて倒壊した。
 その後は仮本堂でしのぎつつ、昭和36年に復興条例が発令してさあ立て直しだ、とはじめた途端、第二室戸台風襲来で他の建物まで甚大な被害を被った。

 そういう経緯があって、京都大学建築研究協会長の棚橋博士による設計で、昭和41年に建てたのがこのお堂。
 いくらなんでも無骨にすぎるお堂だと思ったが、確かにこれなら白蟻にも台風にも勝てるだろう。

 

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 ごく短い間だが、河内県があったとき、県庁が置かれたこともある。
 河内県自体が六ヶ月で消えたが。(現地看板では微妙に見栄を張って八ヶ月としているが、1869年1月20日発足で8月2日に廃止だから、6ヶ月と14日)

 

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 隣には、八尾天満宮があり、この町の鎮守を担っている。
 大信寺は家康の開かせた寺だけど、こちらは片桐且元が創建したといわれている。

 参道からまっすぐ入ってくるとなぜか戎堂の方が正面に建っているが、本堂は右手のこちら。
 商売の賑やかな八尾では、菅公よりえべっさんのほうが人気だろうか。

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 神社らしくないスタイルの門があるのだけど、これはかつて寺内町の出入り口として使われていた木戸門を移築したものだとか。

 

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 大信寺と駅の間には、かなり広い範囲に渡って商店街が広がっている。

 今でも毎月11日と27日に「お逮夜市」というのが大信寺境内で開かれている。
 元々は久宝寺寺内町から大信寺にかけて、江戸時代から開かれていた賑やかな市だったそう。

 大坂と大和の交通中継点でもあり、昔から商いの賑やかな街だった。その面影がこの商店街に残る。
 鉄道ができて気軽に大阪へ買い物に行けるようにもなり、大規模ショッピングセンターの時代を経て、通販時代まで到来した現代、さすがに賑わいは下がっているけど、まだまだ開いている店も多い。

 

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 肉屋さんがあって、コロッケ50円、ミンチカツも50円。しかも特上ミンチカツ120円と魅惑の響きの商品があった。
 迷わず特上にいってみたが、あらびきというかみじん切りじゃないかというくらい肉がみっちり固められた実にいい感じのミンチカツだった。さすが特上だ。

 

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 そしてこんな施設が。

 書いてある通り、河内音頭の資料や河内家菊水丸さんの活動が紹介されている施設。

 中にいた奥さんにいろいろ教えてもらって、河内音頭を生音で同時に2800人ちょっとで踊ったことでギネスに載ってるとか。

 それから、ちょうど大相撲大阪場所開催中で、式秀部屋が近くにきてるとか。おもしろ四股名とのびのび稽古で有名なあの式秀部屋

 

 そして近鉄八尾駅に。
 駅高架下も商店街、さらに駅にデッキで直結するLINOASというショッピングビル(もとは西武百貨店)、さらにその北側にはアリオ八尾。
 東大阪商業都市ぶりは健在らしい。

 

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 高架下に、「カルディーズクラブコーヒー」というカフェがあった。
 店先でコーヒー豆と用品を並べていて、その豆を選んでその場でいれてもらって飲むこともできるスタイル。

 ……で、「あのカルディがカフェ業態もはじめたのかー」と思いこんで、ゴッドマウンテン・ダムリアットなる豆(スタンダードっぽくメニューの一番上に書いてた)のを頼んだ。
 が、よく見るとCARDIだ。あのカルディはKARDIだ。

アラブ珈琲株式会社 【スペシャルティコーヒー・業務用珈琲の卸販売】

 大丈夫かよ、と思ったけど、この八尾店は35年も前からやってる店らしい。82年か。(新着情報に八尾店35周年の記事があった)
 KARDI(カルディコーヒーファーム)の一号店は86年らしいので、32年前。
 となると、KARDIよりCARDIの方が古い。

 

 ゴッドマウンテン・ダムリアット、わりと苦味が買ったタイプだけどコクもあって、なかなか好きな味だった。
 CARDIは関西ローカルで、八尾のほかは守口、奈良の王子、神戸花隈の病院内に店舗がある。他に近畿と鹿児島にグループ店があるそうだ。

 関東から来た人を連れて行って驚かせるのも一興かもしれない。パクりじゃないぞ。

 

 さて、八尾ぶらり歩きはここまで。

 

 ステーションメモリーズは、八尾からわずか2駅先の服部川駅が未取得。
 レーダーで取れないかと思ったが微妙に届かなかったので、直接行った。

 服部川駅、近くになにもなさそうだと思ったが、八尾市立歴史民俗資料館があった。

 

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 中は撮影できなかったが、なかなか渋くも面白い展示内容だった。

 大和川付替えの大事業、それによる産業構造の変化で河内木綿が生まれたこと、近世八尾城とキリシタン武将池田教正、昭和の産業となった歯ブラシ製造業と、しっかり地元ネタを詳しく紹介している。

 また、心合寺山古墳という160mの前方後円墳から出土した、「水の祭祀場を表した埴輪」がなかなかすごい。
 屋根を持つ館を塀で囲って、中に水を通す導水施設を表現した一式の埴輪で、こんな形のものは全国でもここでしか出たことがないと。

 

 心合寺山古墳はここからさらに10分ほど歩いたところにあり、近くに「しおんじやま古墳学習館」というのも作られているそう。
 大型の前方後円墳で、その墳丘に足を踏み入れられる珍しい場所でもある。他に私が知ってるのは、高槻の今城塚古墳と、阪南市の西陵古墳くらいだ。

 

 ということで、ステーションメモリーズの未踏駅も無事回収できて、今回の徘徊はおしまい。