ちょっと間が空いているが、別にやめていない。
(行って写真とって、碑文をマップに書き写して、そこでめんどくさくなって止まりがち)
花見にいったついでに、南天満公園沿いに大量に並んでるやつを押さえた。
目次
訪問記4月7日
金屋町一丁目(北区)
選挙中かつ、桜も咲いて花見シーズンに入った南天満公園を順に攻める。
うっかりしてたけど、天満橋北詰に空心町の碑があるのを見落としてしまった。
地図を見ての通りで、大量の旧町名継承碑がずらっと並んでいるところ。
一応、かつての旧町域に碑を立てることになっている。多分短冊状に町域が並んでたんだろうな。
金屋町とは、金物屋が多かったとかではなく、天満組の惣年寄・金屋氏の家があったのが由来。
朝日町(北区)
碑のある場所がわかるように周囲を含めて写した写真を載せることにしていたのだが、この碑はうっかり撮影ミスしたようだ。碑文アップで代用する。
由来は、佳名によるとだけ書かれていた。
信保町一丁目(北区)
江戸時代半ばに「しんぼ」という薬が製造販売されていて、それに信保という字が当てられたのが由来とのこと。
のむらしんぼ先生は関係ない。はず。
岩井町一丁目(北区)
地面が硬い岩盤だったけど、そこを頑張って井戸を掘ってみたら良い水がでた、ということで岩井町になったとのこと。
龍田町(北区)
由来は佳名によるという資料はあるが確かなものはない。一六八八年の地図にもう記載があったとのこと。
本願寺天満別院の門前町だったというが、天満別院は曽根崎通あたりまで北にあるな。やはりだいぶ南北に細長い町割りだったのかな。
壺屋町一丁目(北区)
「酒蔵があったので酒壺に由来」「陶器の水がめ・油がめを売っていたことに由来」という説があると示した上で、元禄以前は茶染町といわれていたことから考察して「染色用の壺が多数あったからでは、と、看板を書いた人の見解が記載されている。
淡々とした記述が多い旧町名継承碑にしては珍しく、人の顔が見えるような碑文だ。
河内町一丁目(北区)
河内の人が集まって商売を始めたところだったのが由来、とのこと。
滝川町(北区)
一六八八年にもう「たき川丁」と地図に書かれてたらしいけど由来は不明。近くの龍田町や朝日町と同じく佳字表現じゃないか、とのことだけど、滝川って佳字なのか。
此花町一~二丁目(北区)
難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べにさくやこの花
(碑文より)
市之町(北区)
これも書いた人の顔が少し見える碑文で、江戸時代の絵図を検討すると、一七三〇~四九年にこの地名が成立したと考えられる、という。
天満青物市場が近くにあったので、それが由来かなとのこと。