大阪を歩いていると、時々道端に、白い石の板に金属板をはめ込んだような碑が立っている。碑文には「旧町名継承碑」とある。
かつて、住所や郵便の宛先などには地番というのを書いていた。「○○町の○番地」みたいなやつ。
しかし都市化が進んでくると、町が繋がってしまって境界がわかりにくくなったり、町の中でも地番があっち飛びこっち飛びで順番通りにもなってない、同じ番地に何軒も家があるなど、郵便配達などで色々不便になっていた。
そこで、昭和37年に「住居表示の関する法律」というのができて、今まで複雑でわかりにくかった地番を整理し、町名と番地をつけなおして整理することになった。
道とか川を境界として、この範囲が○○町、その中で一丁目二丁目三丁目、さらに何番地、さらに何軒目……といった、現在使っている「住居表示」を定めていった。
もちろん全国の大事業になるから、すぐにできることでもない。
大阪市で施行されたのは昭和50年代~平成頭くらいのようだ。区によって違う。
多くの町や村の名前を住居表示に整理したとき、かつて存在したけど住居表示には採用されず、消えていった町名が出た。
そんな地名にも、歴史もあれば住人の愛着もある。
ということで、それを記録して残し、かつてこの地はこう呼ばれていた、と知らせる碑が建てられている。
で、この旧町名継承碑、かなりたくさんある。
繁華街の真ん中にでも、気がつけば道端に立っていたりする。
一体いくつあるのだろうかと思うが、大阪市も一元的にリストアップしたりはしていないようだった。
目次
ネットで情報収集
闇雲に捜すのも難しいので、まずはネットで情報収集した。
FourSquareでたくさん発見している人があった。大阪市のかなり広い範囲に渡ってリストアップしている。すごいな。
それから、たっく氏のblog「大阪どっかいこ!」にも、私が見た時点で60件ほど記事がある。北区あたりの碑が多いようだった。
場所がはっきりわかるような多数の写真が添えられていてわかりやすい。
さらに、Googleマップでずばり「旧町名継承碑」と検索しても、ある程度は見つかるようだ。Ingressのポータル・Pokemon GOのポケストップになったりしていると思われる。
で、ネット上で見つかった情報について、できるだけGoogleストリートビューでもって、その場所に存在するということを確認した上でマーキングしていったのが上のマイマップだ。
青マークに付いては、ネット情報のみ。情報間違いや、私の記録ミスなどもあると思う。
私が実際に現物を確認できたものについては、赤マークに変えていく。
訪問記 19年1月26日・中央区~北区
さて、天満橋OMMビルのリコーイメージングスクエアに用事に行ったとき、近くの碑をいくつか収集してきた。
京橋一~三丁目(中央区)
天満橋OMMビルの外すぐ。天満橋交差点北東角の植え込みに建っている。
今は京橋駅が賑わっているのだけど、意外と住居表示に「京橋」という町名はもう存在しない。
駅があるところ、つまり現在のいわゆる「京橋」エリアは、結構北東にずれてしまっている。
旧町名の「京橋一~三丁目」は、明治以前からあった京橋一~六丁目が、明治5年に改められたもの。
中央区が平成元年に住居表示を実施すると、現在の中央区天満橋京町・北浜東・大手前一丁目に分離されて消滅。この碑は大手前一丁目にある。
京橋という橋は現存していて、大阪城を京橋口から出てまっすぐ北に向かい、寝屋川を渡る橋がそれ。
現在のいわゆる京橋エリアは、橋を渡って東へ行ったところ。旧京橋一~三丁目は、橋を渡らずに西側。かなり違う。
天満橋筋一丁目(北区)
京橋一~三丁目の旧町名継承碑から、北へ向かって天満橋を渡る。大川の北側には、南天満公園という公園が川沿いに続いている。
この公園は、どういうわけか大量の旧町名継承碑が並び立っている。
とりあえず、天満橋北詰を東に向かうことにする。
旧町名継承碑は、公園に入ってしまうと見えない位置にある。公園北側の道路から見る。
道沿い、最初に見つかるのは天満橋筋一丁目の碑。
現在の住所では、天満一丁目の4番か5番。
明治5年に、今井町と天満二丁目から分離してできた。昭和53年に北区の住居表示実施で、天満一丁目となって消滅。
名前通り、天満橋のかかる筋沿いの町だから、という由来。
今井町(北区)
ちょっと東にすぐ次の碑、今井町。
明治からあった町名だが、昭和53年の住居表示で天満一丁目になった。
現在の天満一丁目3か4番にある。ちょうど境目くらいだ。
大坂三郷天満組の惣年寄だった今井氏にちなんだ町名、という説がある。
臼屋町(北区)
今井町の碑からさらにちょっと東へ。
狙ってやってるのかは不明だが、この道沿いの碑はT字路の突き当りに建っているようだ。目に止まりやすいのかな?
明治から大坂三郷天満組の臼屋町だったが、昭和53年に住居表示により天満一丁目になった。
維新前には高槻藩・永井氏の蔵屋敷があったそう。
1657年の地図に「うすや丁」と書かれていて、臼を扱う商人が集まっていたところかと推測されるとのこと。まんまやな。
新川崎町(北区)(1)
写真中央の植え込み、向かって右端あたりに立っている。目印になりそうな大きな木があったのでこの写真で。
造幣局の南門を出てすぐ。春に桜の通り抜けをやったらここに出てくるのかな?
こちらは明治初期には、西成郡川崎村とされていた。昔の西成郡は今の西成区よりはるかに広大。
大蔵省が造幣局をここに造ったとき、造幣局の敷地を新川崎町という地名にした。その前にもう川崎町が別にできていたから、こちらは新がついた。
現在の住所では、この碑は天満一丁目にあたる。
新川崎町(北区)(2)
造幣局には南からは入れないので、川沿いの公園を北上していき、国道1号線を渡る。泉布観と櫻宮公会堂を眺めて、さらに北へ抜ける。
OAP(大阪アメニティパーク)の、アートコートギャラリー前。
ここに、新川崎町の碑がもうひとつ建っている。
新川崎町の北部分が、明治29年創立の三菱金属大阪精錬所の敷地になった。その精錬所は1989年に閉鎖され、敷地が再開発されたのがこの大阪アメニティパークだ。
碑文は、造幣局南にある方とは後半が異なる。こちらでは、三菱金属大阪精錬所について触れている。
こちらの碑は、現在の住所では天満橋一丁目にあたる。
今回は手始めということで、これだけ。
北の方は先駆者がいるようだし、これから私は南の方を掘ることになるかなあ。