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大阪市「旧町名継承碑」めぐり (9) 浪速区踏破(暫定)&西成区へ

drive.google.com

 着々と攻略の進む旧町名継承碑。

 浪速区については、ついに現状で判明している全ての碑について、現地調査を完了した。

 次は西成区天王寺区などに進出したいが、西成についてはかなり充実した事前情報を得られた。

 

目次

 

訪問記2月27日

 まず浪速区北側の、のこりふたつの碑から。

西円手町(浪速区

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 OCATの西、なにわ筋沿いの念仏宗無量寿寺大阪別院の門前にある。
 住所は桜川1丁目6番地。
 ちなみにGoogleマップにも位置が登録されているのだが、寺の中にあるような位置になっているな。見ての通り、歩道の車道側にある。

 考えすぎると悩む町名だが、エンテちょう、と読むようだ。
 読み方を調べていたら、浪速区の旧町名地図を掲載しているページを見つけた。参考にさせてもらおう。

osaka-hk.org

 

東円手町(浪速区

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 OCATの前かと思ったら、隣のホテルモントレグラスミアの前。千日前通りを挟んで無効になんばHatchが見えているはずだが、阪神高速が邪魔。
 住所は湊町一丁目2番地。

 古くから、湊町駅(現・JR難波駅)がどんと構えるのが東円手町だったようだ。
 円手町の由来は、難波村時代の字の名前だという。円手、ってなんのことかな。

 

訪問記3月1日

水崎町(浪速区

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 JR新今宮駅北側の道路上にあるのだが、なんだかいまいち「ココ」と示せる目印がない。
 すぐ北の空き地はそのうち高級リゾートホテルになるらしいが。
 住所は恵美須東3丁目16番地。

 碑によればここは水崎町となってるが、馬淵町というのもこのあたりのはず。すぐ北、今の恵美須東3丁目13番地は馬渕町で、大阪市立馬淵生活館というのがあった。
 馬淵町の碑は今のところ未発見。

 碑文には記載がないんだけど、明治33年に「釜ヶ崎」という地名が水崎町に統合されたという記載が、西成区史にあるそうだ(釜ヶ崎ウィキより)。
 今、釜ヶ崎といったら関西線の南側に広がるエリアを指すように思えるが、元をたどると北側、あるいは関西線南北にまたがるエリアだったらしい。

 

霞町一~二丁目(浪速区

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 通天閣の西の堺筋沿い、MEGAドン・キホーテの北隣にある大阪高速電気軌道(大阪メトロの運営会社)の技術事務所前にある。
 住所は恵美須東三丁目四番地。

 すぐ近くにある阪堺線の停留所が、かつて南霞町停留所だったのに、2014年に新今宮駅前停留所に変更になった。
 わかりやすい名称に変えたという話だけど、阪堺線の停留所は古い地名を残しているのが多いのに、安易に変更するのも無粋な気がするなあ。
 わかりやすさでいってしまえば、今池は萩之茶屋東とか、今船は天下茶屋東とか飛田新地口とかになっちゃうぞ。
 北天下茶屋停留所なんて、南海天下茶屋駅東にあるのにその名前だから紛らわしい。でも、かつての「天下茶屋」という町域の北寄りに、北天下茶屋停留所がある。南海の天下茶屋駅があるのは南吉田町とか東吉田町の町域だ。

 

 さて、これで現在、存在を把握できている浪速区内の旧町名継承碑はすべて現地確認できた。

 以前の記事で、碑が未発見の旧町名をリストアップしてあるが、相変わらずこれらは発見されない。
 Googleマップでは回れない木津川公園や難波支援学校あたりに、木津川元町の碑があるんじゃないかと睨んでいる。
 芦原橋駅近くに散在する公園に栄町の碑もあるかも、というところで、合わせて一度現地調査にいってみよう。

 

西成区の旧町名事前調査

www.kamamat.org

 西成区については、こちらのサイトで旧町名のマップを公開してくれていた。

 これを参考に、私の作ってるGoogleマイマップにも、西成区の旧町域を示すレイヤーを追加してみた。

 それにより、ひとつ疑問が出ている。

 

 かつての西成区では、多くが「○○通」という、通りの両側にある家々をひとつの町にまとめる形の町割りになっていた。
 そのため、住居表示実施時に、○○通→○○という町名変更が多数出ているのだが、そういう町名に旧町名継承碑が作られるのかどうか?

 出城通→出城、長橋通→長橋、鶴見橋通→鶴見橋、松通→松、橘通→橘、潮路通→潮路、という例があるが、これらはいずれも旧町名継承碑が見つからない。
 鶴見橋北通が消えているが、鶴見橋北という町名はできていない。旧町名継承碑は見つからない。
 旭北通・旭南通を合わせて旭という町名になっているが、これもどちらの旧町名継承碑も見つからない。
 千本通が消えたが、千本という町名はできていない。千本北・千本中・千本南ができている。これも、千本通の旧町名継承碑は見つからない。
 玉出本通と玉出新町通がなくなったが、玉出はできていない。玉出中・玉出東・玉出西ができた。これも、玉出本通・玉出新町通の旧町名継承碑は見つからない。

 ただし一例だけ、梅通という町名については、旧町名継承碑がある。
 梅通は消えたが梅という地名は作られなかった。町域は、旭と梅南に分かれた。
 このケースにおいてのみ、梅南に「梅通一~九丁目」の旧町名継承碑があるのがわかっている。

 継承されずに消えた町名を残すために継承碑を作っているのだと思うが、消えた、とはどこまでを指すのだろう。

 

 確かに消えていて、旧町名継承碑が見当たらないのは、西入船町・東入船町・松田町・苔山町・北神合町・南神合町・北吉田町・南吉田町。
 西入船町って、あいりん労働公共職業安定所くらいしかない町域なんだけど、探しようがないな……

 

 それから、津守町東・津守町西が統合されて現在の津守になったが、町域が広大すぎて碑を探すにもどこを探せばいいかなあ、という感じ。
 旭北通・旭南通が旭になったのに旧町名継承碑が見当たらない、という事例に従えば、津守町東・津守町西も碑を作っていない可能性もある。