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大阪市「旧町名継承碑」めぐり (7) 考察編: 浪速区にあるかもしれない旧町名継承碑

 私にとって難波近辺はホームグラウンドで、浪速区西成区天王寺区、それから中央区の南寄りくらいは若い頃から馴染みの土地だ。泉佐野から通って、だけど。

drive.google.com

 なので、すでに現地確認できた旧町名継承碑も、なんば近辺に集中している。

 しかし、ネット情報で見つけられなかった旧町名継承碑が、ひとつ発見された。

 

新川一~三丁目(浪速区

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 写真を見ての通り、浪速スポーツセンターの北東角で発見された。
 住所では浪速中3丁目8番地。
 夜間に通行人の多いところを避けてちょっと裏に入ったら、通りかかったところでばったり。

 なんばパークスのあたり、かつて大阪球場だったあたりは、かつて幕府の米蔵があった。その運用には水運が必要だったから、湊町あたりから運河が作られ、それが難波新川と呼ばれた。
 その川沿いにあった町だったので、新川と名付けられた。

 ちなみに難波新川は難波入堀川とも呼ばれてたくらいで、端が行き止まりになってる流れない水路だった。そうすると汚くなる。それで南の鼬川(浪速区役所前あたりを流れていた)に繋げて流れるようにしたのが明治12年
 米蔵明治30年にもう使わないとなって閉鎖。でも難波新川は結構長く残って、昭和34年に埋め立て。

 

浪速区から消えた町名

 ネットで所在情報を得られているが、まだ現地に行けていない浪速区旧町名継承碑は、のこり四つ。
 JR難波駅あたりの東円手町・西円手町と、新今宮駅あたりの水崎町と霞町一~二丁目だ。

 町名が消えているけれど、碑の情報がネットにない町がまだいくつかある。
 今回見つけた「新川一~三丁目」の碑も、ネットで情報がなかった。

 

 消えた町名を事前に確認しておき、町域のあたりをつけておいて、そのあたりの公共施設などを探し回る、という手順で、存在するなら発見できるかも。

 

 で、大阪市の町名の変遷についてはなんとWikipediaにまとまっている。好都合。
 以下が、昭和五五年に浪速区で住居表示の実施されるに伴って消えた町名だ。()内は、現在のどこの町に含まれているかを示す。

 

  • 木津川元町(浪速西・木津川)
     現在の浪速西と木津川は、芦原自動車教習所や難波支援学校のあるあたりで境界を接しているので、そのあたりと見られる。
  • 勘助町(浪速東・大国・敷津西)
     マックスバリュ塩草店近く、JRの線路沿いの大きな交差点あたりが、浪速東・大国・敷津西の重なるところ。ホビーカンスケっていう模型屋があるんだけど、これは地名由来の店名っぽい。
     しかしこのあたりは、公園も公共施設もなにもないところだな。碑が立ってそうな施設って、市営住宅くらいか?
  • 難波新地(難波中)
     道頓堀川の南岸あたりの盛り場のとこらしいが、難波中はごくごく一部しか道頓堀川近くに区域がない。楔形に難波中が中央区側に食い込んでるような区割りになっている。大部分は中央区なのかな。
  • 栄町(塩草)
     現在の塩草の一部になっているようだ。かつては六丁目まであった町なのだけど、浪速町東・西が作られたときに割譲されて小さくなって、最終的に塩草に吸収されて消えた形かなあ。だとすると、芦原橋駅あたりが塩草・浪速西・浪速東の境界になる。
     駅近くに公園がいくつかあるので、見るとしたらこのへんかな。
  • 北高岸町(敷津東)
     南高岸町の碑が見つかってるので、その北にあるはず。
     久保田鉄工所は明治時代、北高岸町に本店工場を置いていた時期があるようだ。しかしどうも、移転したわけでもないのに大正末=昭和元年にそれが「船出町工場」と改称されているように読める。そして今でもそこにクボタの大きなビルがある。
  • 船出町(北高岸町・南高岸町の一部から設置、現在の難波中・敷津東)
     船出町は、昭和元年に浪速区が成立するとともに、北高岸町・南高岸町の一部を編入してできた町名。
     これはひょっとすると、北高岸町・南高岸町が難波新川の両岸にまたがっていたのを、東岸だけ分離して船出町とした、ということか。今のクボタ本社は東岸にあるので、同じ場所で北高岸町から船出町へと地名が変わったのでは。
     船出町は、西はパークス通り(かつての難波新川)、東は南海本線を境に西関谷町や広田町に接する、南は阪神高速(かつての鼬川)、北は難波中にもかかっていたならヤマダ電機があるブロックも含むかな、もしかするとパークスまでかも、といったエリアとみられる。
     すると北高岸町は難波新川の西側。南限ははっきりしないが、南高岸町の碑は高岸公園にあるのでそれよりは北。西限は国道26号線までいくと敷津になるのでもう少し東。北限は、旧鼬川とみられる浪速区役所前の道が有力。
     ……と、これだけ町域の推定ができているのに、碑の在り処が思い当たらんなあ。Googleマップで見回っても見当たらない。歩いてみても見つけられない。
  • 東入船町(恵美須東・恵比寿西)
  • 西入船町(恵比寿西・戎本町)
     元々浪速区西成区の境界あたりにあった町で、関西本線に沿って両区の境界を設定したときに分断された。ちょうど新今宮駅あたりだ。
     浪速区側の両町は、新今宮駅北側なのは明らかだが、浪速区側の旧町域と思しきエリアは水崎町の碑が建っている。多分、浪速区に碑はない。
     いかにも船の出入りが多い港があったような地名に見えるが、ここには川が流れていないはず。かつての鼬川はもうちょっと北だ。
     こちらの記事によると、船乗り相手に稼いでいた商人の苗字という説が出ている。地名もそうだとすると、船から降りた人が遊びに来るような土地だったのかもしれない。
  • 馬淵町(恵比寿西・戎本町)
     水崎町の北隣。検索すると、60年代頃にはスラムと扱われていた地域らしく、西成のあいりん地区と一連の、荒れてしまっていたエリアだったようだ。