堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

僕は運動ができない(でかいのに)

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 もちろん私も「寝言は寝てから言え」と反応したい口なのだけど、少し抑えて、私がスポーツ嫌いになった子供の頃のことを書いておこうと思う。

 恨み節吐き出すだけだけどな。

 

僕は運動ができない(でかいから)

 子供の頃というのはスポーツできる子がヒーローになりやすい。まあ、それ自体は別に、長所のある子が賞賛されるのはいいから、どんどん褒めて伸ばしてあげればいいと思うのだけど。

 で、私は全然運動できなかった。

 

 私は、生まれた時点で4200gもあって、今なら過体重児とか巨大児とかいわれるサイズだった。その後もそのまま巨大に育って、5歳の時の身体測定で128cmという数字を出していた。

 最終的に、182cmほどまで伸びた。

 高身長なのはいいけど、すらりとした長身じゃなくて、なんか縦にも横にもそのまま拡大したみたいな体格。あまり格好良くはない。特にでか頭ぶりは相当なもので、バイクのヘルメットなんかXXLでないとダメだ。

 

 こんなにでかいと、体が重すぎる。

 歩きだすのも遅かったらしいし、小中学校の体育の授業でやるようなことは全然ダメだった。

 その上、今でもそうだけど循環器が弱いみたいで、漏斗胸で呼吸もやたらと荒くなるし、スポーツテストの踏み台昇降運動で心拍を測ったら、3回やって3回とも180越えてるくらい、脈が上がりやすくて下がらない。汗もものすごい。

 

 で、小学校なんて、運動ができないだけでいじめの理由になるけど、私の場合は「体格がいいのにできない」だから、より一層熾烈になる。

 「子供のうちから大きいやつは早く伸びるのが止まる」というやっかみを何回聞いたかわからない。嫉妬してなきゃこんなこと言わんだろうし、嫉妬されてりゃ嫌がらせも激しくなろう。上から見下されるのが気に入らないと殴られたことも数知れず。

 

 子供の頃から今でも、他人は、これだけ身体が大きければ運動能力が高いだろう、という前提で話をしてくる。

 「ええ身体してるけど何のスポーツやってんの?」って、多分、悪意まったくなし、むしろ体格を褒めてるくらいのつもりで聞かれる。そしてやってないといったら「なんやもったいない」。もういつものパターン。

 それが体育会系人間だと、「体格という才能を無駄にするな、スポーツをやれ」となる。私にとっては体格は持て余すもので、体格以外はことごとく平均以下なのに。

 体育の授業とかで全然できないところを見ると、「やる気がない」とか「やればできるからやれ」とか。体育教師の覚えは実に悪い。同じように運動がダメでも、小柄な子よりキツく当たられる。

 

 自分では、過剰な体格はスポーツする上でのハンディキャップなのに、他人からは、体格を長所とみなした上で体格なりに高い運動能力を求めてくる。そして勝手に見込んだ能力がなければ失望、ひどければ罵倒される。

 すごい理不尽。

 

僕は体育会系に適応できない

 高校の頃、アメリカンフットボール部の勧誘を受けた。断って断って、結局パソコンクラブを創立した上でそっちに入って逃げたけど。

 私はでかいだけで運動はダメだ、といっても、「入って運動してたらできるようになるから」という。

 まあ、体格は後天的にはあまり伸ばせないだろうけど、筋力体力は鍛えることができる、それは事実だろうと思う。

 しかし、鍛える効果も人によって違うように思う。猛練習してもあまり伸びない人もいるし、稽古嫌いの関取とか練習嫌いのプロ野球選手もいる。私は心臓やら肺が頼りないのもあって、あんまり鍛えて強くなる気もしない。

 

 何よりも、体育会系社会には、絶対適応できない。中学でやらされたからわかる。

 

 私の少し上の世代は、尾崎豊を聞きながら学校のガラスを割り、盗んだバイクで走り出していた。校内暴力とかいうやつ。

 各地の学校で色々対応を模索していたんだろうけど、私の行った中学というのが、教師が校内暴力以上の暴力で生徒を制圧する、という殺伐とした手口を成功させた中学だった。

 

 入学して最初の体育の授業は、やたらと広かったグラウンドの端にまで走って行かされ、反対側にいる体育教師に向け、出せる限りの大声で出席番号と名前を叫べ、という。

 教師が聞こえたら戻っていいが、聞こえないなら繰り返せ、と。

 広いと行っても平坦なグラウンドだから、聞こえないわけがない。理由も基準も不明なまま、教師が気に入るまで繰り返す。私も何度やっても聞こえないふりをされ続けた。

 私は馬鹿正直に声量を目一杯だしてたけど、相当時間が経って、試しにわざと声をちょっと裏返して演技をしてみたらよしとされた。子供の演技ひとつで済むような下らないレベルのことだった。

 まあ、いきなり暴力的に理不尽を押し付けて屈服させる、という手口なのは今から見ればわかるけど、これを12歳の子供に。

 その後、何かあれば殴られ、気に入らなければ授業時間中ひたすら走り続けさせるような、指導ですらないような授業ばかり週3で。殴られたことは覚えてるけど、スポーツの指導はほとんど忘れた。

 柔道の授業ですら、何分で柔道着に着替えろと言われて、遅かったり帯が緩かったら殴られた記憶ばかりで、やった技って支釣込足、あとなんだっけ、っていうレベル。

 

 極めつけが体育祭だった。

 10月10日に向けて、9月になったら放課後に全員集められる。そして、腕と太腿を水平まで上げ、行進曲に全員が乱れなく揃った行進の練習をさせられる。手足が下がれば殴られ、リズムがずれれば蹴り飛ばされ、日が沈むまで、怒鳴られ続けながら毎日。

 そして体育祭当日には、近隣の学校の先生まで見学に来ている中、全校生徒を暴力で屈服させたことを証明する入場行進が披露される。

 これ、生徒側に何の喜びもないの。スポーツで鍛えるなら、身体は苦しくても何らかの成果があった喜びは得られるだろう。けどこれは最終的に、暴力に屈服させられた屈辱を披露させられるだけ。

 虐待以外のなんでもないよなあ。奴隷以下だ。

 

 こういうところで、教師の言うことには絶対服従、理不尽であっても従わされ、逆らえば殴られる、という体育会系的、というか大戦中の帝国陸軍みたいな生活を3年させられた結果、順応はできんかった。

 元々教師に逆らうタイプじゃないけど、それでも忘れ物とかミスはする。すると殴られる。気をつけてもミスはしてしまうから、毎日暴力におびえるだけだった。連帯責任やら、単純に能力的にできないことでも殴られるから、結局回避のしようがなかった。

 そういうストレスをみんな受けてるから、はけ口を求めていじめは横行した。教師が見てなければひどいもので、全クラスに2~3人ずつくらい、気が向いたらいたぶられるターゲットがいた。

 家が学校のすぐそばなんだけど、タバコ吸いながら歩いてる生徒は同級生にも、卒業後にもよく見ていた。そりゃ殴るだけじゃ道徳の涵養になんかなるはずもないし、抑止力にすらなってない。

 

 まあねえ、運動部のような、耐えて結果を残せれば栄光があるような世界であれば、理不尽に耐え、暴力を乗り越えた先につかめるものもあるかもしれない。

 あの暴力中学には、耐えた先になにもなかった。その点では、体育会系とは違うのかもしれん。

 ただ、結果に何があるかという以前に、その前の、暴力に服従させられる段階が無理。

 3年間暴力に耐えた末に、何も得られなかった経験があまりにも強い。未だに強い。だから今でも、まずパワハラで従順にさせるタイプには適応できなくて、まあ鬱になってだめになる。頑強というか鈍いというか、そういう精神力をつけるという意味ですら完全に逆効果になった。

 

 体育が嫌いな生徒を半減させたい、というなら、ほんと、やり方はどうするつもりだろう。

 授業なんて全員参加で、たとえ苦手でもやらされる。苦手なことをやるというそもそもの苦痛を超えて、やっぱり楽しい、と思い直せるような、そういう指導を、特に小学校でやれるだろうか。

 「やったらできるようになって好きになる」くらいの甘い認識でただ強要して、「できないのは努力がたりないからだ」という態度をとったら、たったそれだけでやられる方は一生嫌いになる。

スポーツによって「人生が変わる」「社会を変える」「世界とつながる」「未来を創る」の4つを基本方針に
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H73_R00C17A3CR8000/ より) 

 このふわっとした基本方針には不安しか覚えない。下手にやったら人生も社会もマイナスに変わるのに。

 最近は下手な体罰はできなくなってるみたいだから、私がやられたみたいな酷いものはなくなってるものだと思いたい。あんな体罰、教師のサディズムが満たされるだけだし、私は何も得てない。

 殴れなくなったのが気に食わないサディスト教師は逆行させたがるかもしれないが、異常なのはそいつだ。

 

僕ができるスポーツ

 さて、体格で勝手に期待されて失望される理不尽さと、あの酷い中学によってすっかりスポーツは嫌いになった。

 20代の頃は見るのすら嫌だったな。

 今でこそ相撲見るのは好きになってるけど、正直にいえば今でも、相撲部屋の稽古の様子とか見ると、恐怖心が出てくる。時津風部屋の事件とかほんとに辛い。

 

 私がやり方によっては身体を動かすのも苦痛でない、と初めて知ったのは、20代も後半になってからだった。

 座り仕事であまりにも運動不足に思えて、土日にできるだけ歩きまわることにした。

 3キロも歩いたら疲れ果てると思っていたんだけど、デジカメ持って寺社仏閣やら巡って歩くと、思ったよりは歩けた。

 ちょっとずつ歩く距離を伸ばせるようになり、Googleマップを眺めつつ、未踏の地域を埋めるようなつもりで毎週歩きまわってたら、どんどん長く歩けるようになった。

 今は、長距離を歩き回るだけなら人並みか少し余分にできる、と認識している。過去のblogの徘徊記事でも、結構な距離を歩いているのがわかると思う。

 まあヒトの取り柄だしね。長距離移動能力。

 

 それ以前にはあらゆる運動が底辺レベルにダメだと思っていたから、たかが「長距離の歩行」ではあれ、わりとできると思えたのは大きな変化だった。

 小学校の頃にやらされてたボーイスカウトでは、キャンプ場まで歩くときには常に私が真っ先に力尽きていた。歩くだけでさえ、子供の頃はできないことだった。他より10キロは荷物多いみたいなもんだったからなあ。

 20代後半に歩きはじめて、30歳を過ぎて久しい今でも、相変わらず歩くだけならいける。特に体力の衰えも感じない、というか、20代前半までという普通なら体力活力に溢れている時期にダメだったせいで、むしろ今のほうが身体は健康で体力もある。

 

 しかしまー、よく歩けるようになれる、ということにすら、気づくのに生まれてから25年以上かかった。

 学校でもボーイスカウトでも運動はさんざん押し付けられたけど、それからは何の喜びも感じず、何もできるようになったと思えず、ただ苦痛だっただけなのに。

 

 きっかけは、たまたま仕事で写真撮影をすることになった。勉強してみたら面白くて、自分でもデジカメを買った。カメラ持ってたら被写体が必要だけど、とりあえず近所を歩いて探すことにした。

 住んでるところは見どころがある土地ではないから、電車で出かけるようになった。そして乗りつぶしオンラインを知って鉄道完乗という趣味を知り、なら路線の端っこまで乗って行ってそこを歩いてみよう、と思い立った。

 見に行くところのネタは、変わった博物館があるぞとか、元々歴史も好きだし城に行ってみようとか、関西に多い天皇陵を巡ってみようとか、広げていった。駅から遠くても歩けるなら目標にできる。

 「歩く」という行為に、いろんな趣味を結びつけているから、歩くことに飽きることがない。だから、何年も続けている。

 誰に教えられたのでもなく、自分で見つけた。

 

 まあ私のケースは、長距離に渡って徘徊するという運動に、他の趣味がうまく噛み合っただけだから、私以外の誰にでも適用できるものでもないだろう。

 でもまあ、底辺級の運動音痴が、20代も半ばを過ぎてから、好きでやれる運動を発見できた、という一例ではある。

 スポーツそのものの、身体が鍛えられるとか、試合に勝てるとか、そういう直接的な楽しさは今でも感じない。でも、他のことの楽しみを運動と結びつけることはできた。

 

 長く歩くくらいの体力がついたら、やっぱり便利ではある。街で買物する程度でも結構歩くもんだし、それで疲れなくなった。翌日以降に筋肉痛が残ったりもしない。

 過剰に精神論じみたメリットがあるとは思わんけれど、まあ、多少の体力はいろいろ幅広く役に立つとは思う。

 私が運動を勧められたり押し付けられたりした時は何一つ良い結果がなかったから、私は人には勧めない。けれど、何かの弾みでやる気になったら、やってみるといいんじゃないかな。やらされるよりは、自分でやるほうが続くと思う。