私なんかはファミコン直撃世代なので、子供の頃の思い出のゲームはいくつもあるもんだけど、なんといっても「天地を喰らう」「天地を喰らうII 諸葛孔明伝」は、特に好きなゲームだった。
中国を駆け回るスケールのストーリーに、戦った敵将を次々を仲間に引き込んでいけるコレクション性とか、全般に軽快なシステム面(フィールドを歩くのが速いとか、オート早送り戦闘とか)、その上でグラフィックも音楽も良かった。ほんとにあらゆる要素が抜群だった。
しかしそんな神ゲーで育った私は、後に大きな問題を抱えてしまうのであった。
このゲームは、一応三国志演義をなぞっているように見えて、あの時代の大きな出来事や戦争をすべて劉備一党の手柄にしちゃった上、劉備の負け戦はすべてスルー、最終的に蜀漢が呉も魏も滅ぼして中国全土を武力統一してしまう。
一応、日本の小説になった三国志は通読したから、最終的に魏が司馬一族に乗っ取られて晋になりかわりつつも全土を統一するのは知ってる。「天地を喰らう」が、ものすごく劉備に寄せたドリームストーリーなのもわかってはいる。
けれど、やっぱり三国時代の歴史全体の認識がズレてる。
「天地を喰らう」で劉備がやってたことについては、「これは劉備のやったことじゃないな」とわかっていても、そもそも描かれてないことを忘れる。
特に、夷陵の戦いと聞いて「なんだっけ?」と思ってしまった自分に呆れてしまった。
これはいかんので、天地を喰らうI/IIと、史実とを見比べて、差異をちゃんと確認しておこうと思う。
まあ、今の中年だったら同じような三国志理解をしてる人も多かろうから、少しは役に立つかと思う。
天地を喰らうI・IIのストーリー
さて、天地を喰らうI・IIのストーリーをざっくり。
どちらも劉備および配下の武将たちが主役となって、ドラクエ的RPG形式で中国統一を目指す。
Iの方が時代的に前から始まって、まず黄巾賊の討伐、次に董卓討伐。
そして袁術征伐、袁紹征伐、荊州平定、諸葛孔明が参加して入蜀、そして呉・魏と次々征服していく。わりとシンプルに武力で中国を統一しちゃう流れ。
2の方は、かなり三国志演義の流れに寄る。
最初は袁術征伐から始まって、袁術を倒すも、曹操の攻撃を受けて劉備軍は壊滅。関羽・張飛とはぐれて単身で袁紹を頼る。
劉備は袁紹麾下で顔良・文醜とともに曹操と戦うものの、謎の武将に顔良・文醜が討ち取られてまたも劉備軍は壊滅。
そして場面が切り替わり、曹操の下で客将となっていた関羽が主人公に。劉備が袁紹のところにいると知って、曹操の支配地を脱出して帰参を図る。張飛と合流しつつ関羽が劉備のもとにたどり着く。
時代が飛んで、劉備は荊州の劉表の客将になっていて、反乱鎮圧で功を上げて新野城を預かる。そこで諸葛孔明らが加入。
荊州に曹操軍の侵攻があり、劉備も応戦するものの、肝心の劉表が病に倒れる。劉表死後に実権を握った蔡瑁は曹操へ降伏しようとし、戦いになる。
ひとまず蔡瑁を排除した後、呉から魯粛がやってきて、劉備軍と呉の連合で赤壁の戦いへ。連環の計で曹操の大軍を壊滅させる。
孔明は天下三分の計を立てて、劉備らは蜀へと侵攻を開始する。
ここからは割と武力で解決する感じになって、蜀を征服、漢中に進行してきた魏軍を撃退して漢中も征服、そのまま北伐に突き進んで曹操を倒し、曹丕も倒した、と思ったら司馬懿がクーデターを起こし、それも倒せばエンディング。呉には触れずそのまま。
1は結構単調に次々武力征服していく感じなのが、2は波乱万丈の物語。
2はわりと劉備が負けるところも多いんだけど、それでもやっぱり、夷陵の戦いのような決定的な大敗北はすっ飛ばされている。
史実と比べながら
さて、ではゲームのストーリーと、史実で劉備がやってきたことを比べていく。
史実といっても、ウィキペとかで調べがつく範囲のことだから怪しい部分は多いと思うんだけど。
黄巾の乱以前
一応、劉備の生い立ちなどを多少触れていく。
出身地は例の楼桑村、生まれたのは西暦161年。
別に裸一貫の農民とかじゃなくて、祖父は県令、父も官吏だった。ただ劉備が幼いうちに父親が亡くなっていて、裕福な状態ではなかった。
それでも叔父の助けを得て、同郷の儒学者・盧植に学ぶ。この頃、公孫瓚と同窓になって親交を持つようになった。この頃からカリスマがあったみたいで、他にも人脈を広げてスポンサーもついたりしてたとのこと。
黄巾の乱
で、劉備は関羽・張飛や簡雍(なぜか初期メンなのに無視されがちなひと)らと共に、黄巾の乱を鎮めるための義勇軍を結成する。それは史実。
しかし天地を喰らうでは、陶謙の下で張角らと戦うことになるんだけど、これは時代的にも場所的にも違っている。
劉備は鄒靖の下にいた。彼は幽州、北の万里の長城近くに勢力を持ってたみたいなので、徐州とはけっこう遠い。
184年に張角の蜂起があって、これは幽州あたりまで広がっていたから、劉備も戦ってはいたんだろうけど、別に張角と直接対決して討伐したなんてことはない。
張角を鎮圧したのは、盧植、董卓と皇甫嵩。
反董卓連合
天地を食らうIの董卓は、黄巾賊制圧直後にいきなり洛陽を支配しちゃう、
どういう流れで彼はそうなったか。
董卓は黄巾賊鎮圧に失敗していて、184年には一度失脚している。
しかしそのすぐ後から始まる、辺章・韓遂が西方で起こした反乱の鎮圧に功をあげて兵力を強めた。
そして189年に、霊帝が没した。
もともと黄巾賊や異民族の反乱が続発したのが、政治に関心をなくした霊帝が宦官に丸投げし、宦官が専横を振るっていたのが原因のひとつ。
崩御と共に、大将軍の何進が、宦官を排除するために地方の有力者を呼び寄せて圧力をかけることにした。それで董卓やらが都に軍勢を率いてやってきてしまった。
しかも何進は宦官に暗殺されてしまい、何進の握っていた軍事権も宦官に……と思ったけど宦官が嫌われていて官軍は従わず、袁紹や袁術らが宦官を一掃。
この混乱の中で、新皇帝の少帝が董卓の手に落ちてしまった。帝を担いで洛陽に入り、何進配下の軍勢を吸収したり、さらに丁原を呂布に暗殺させてその兵を奪い、都で最大の武力を持つ存在になっていた。
そして少帝を廃位して替わりに献帝を立て、用済みの少帝を毒殺してしまうような、暴虐をふるう。
そして190年、反董卓連合軍が結成される。
190年ごろの劉備が何をしてたかというと、なんか官職についたのに放り出したりを繰り返してたみたいで、いまいち安定しない。
191年から公孫瓚の下に身を寄せてるみたいだけど、この時点の公孫瓚は、北方で30万という黄巾賊残党の侵入があって、その鎮圧をやっていた。
鎮圧の過程で公孫瓚の軍事力が膨れ上がっていって、すぐ隣にいる袁紹が警戒して対立関係になる。
そして191年は、反董卓連合軍の方でも動きがある。
袁術の配下にある孫堅が奮戦して、一度董卓軍の徐栄に敗れるものの再起し、胡軫・華雄・呂布を撃破、一気に洛陽まで陥落させてしまう。
天地を喰らうでやってるような戦いは、実際にやったのは孫堅。
三国志演義では、劉備が連合軍にいて、汜水関の戦いで関羽が華雄を討ち取ったりしてる。史実では、公孫瓚の配下にいたこの時期の劉備・関羽が、洛陽攻撃軍に参加してるとは思いづらいけれども。
天地を喰らうIでは、董卓を長安まで追撃して止めを刺すのだけど、史実はそうならない。
孫堅は袁術から任じられて豫州刺史(州の行政長官クラス)をやっていたんだけど、袁紹が他の人を豫州刺史に任じて送り込んだものだから、争いになってしまった。
連合軍最大勢力の袁紹と袁術が対立したから、連合は瓦解。
董卓は悠々と長安でまた暴虐をふるっていた。
けれど192年、それを見かねた王允が、呂布を唆して董卓を暗殺させた。それで董卓一党も瓦解。
しかし王允も、董卓配下で遠征中だった李傕・郭汜らの投降を受け付けずに突っぱねたら、李傕らが逆襲。長安が攻め落とされてしまって王允も殺された。
長安は李傕と郭汜に治められることになったものの、行政能力が皆無で、仲間割れまでしはじめて、めちゃくちゃになってしまった。
そして献帝が脱出して洛陽へ戻っちゃったため、帝の権威を失った李傕は求心力がなく、みるみる衰退して198年には討伐された。
ここまで、特に劉備が関わるところなし。
反董卓連合軍の分裂によって、袁紹・曹操と劉表が、袁術・孫堅と公孫瓚・陶謙がそれぞれ結んで勢力を分ける。
地図的にいうと、黄河の北の袁紹の、更に北側に公孫瓚がいる。黄河の南の袁術も、東の徐州は陶謙だけど西には敵の劉表がいるって状態で、なかなか面倒な勢力図。
この争いは、袁術方が今ひとつうまく行かない感じで押されていく。
まず191年から、袁術は孫堅に命じて劉表を攻めさせる。
董卓軍を撃破したくらいだから孫堅は強いのだけど、この戦では劉表配下の黄祖と戦っているときに事故みたいに矢に当たって討ち死にしてしまった。
公孫瓚も配下の劉備と共に袁紹・曹操と戦うものの、これも苦戦。
そして、193年には曹操が陶謙を攻める。
陶謙が曹操の父を殺してしまって、曹操が恨みをむき出しに攻めかかったから、虐殺みたいな戦いになってしまった。本当に怒り任せに進軍したのか、兵糧切れを起こして撤退していったものの、徐州の被害も深刻。
このとき公孫瓚は、援軍として劉備を陶謙の下に送る。
ところが、陶謙が劉備を気に入ったらしく、ものすごい厚遇して引き止める。
翌194年に曹操がまた攻めてきて徐州が蹂躙されるものの、今度は曹操の本拠地で陳宮が呂布を使って反乱を起こしたもので、また曹操は慌てて撤退。
その直後、陶謙は病で倒れ、徐州を劉備に譲ると遺言して死去した。
こういう流れで、劉備は徐州の主になる。
天地を喰らうでも、劉備が陶謙にやたらと気に入られ、黄巾の乱平定の功績で徐州を譲るという厚遇ぶりなんだけど、経緯は違えど史実でも徐州を譲られてる。そんなんあるんだなあ……。
袁術の凋落
袁術は193年に、自ら曹操を攻撃していたけど大敗。求心力は落ちていた。
194年に徐州で独立した劉備も、袁術につくのはやめて、袁紹・曹操方と結ぶことになった。
195年から袁術が徐州を攻め、概ね勝ってるんだけど劉備を完全に倒すところまでいかない感じで手こずる。やっと198年に劉備が曹操のところに逃げる。
天地を喰らうIでは、劉備が真っ向から袁術を倒してしまうんだけど、この頃の劉備はそこまで強くなかった。
公孫瓚も、袁紹と長期戦を続けていたものの敗北。
北方の本来の支配者で、また漢王朝の宗家でもある劉虞との関係も悪化し、ついに殺害してしまったために評判を落とす。
また孫策も袁術配下で働いていたけど、関係が悪化。
孫堅の旧臣だった朱治、黄蓋、程普などの名将を返還させ、さらに多数の名士や武将を集め、長江の南へと進出して地盤を確保し、独立。
斜陽な雰囲気になってきた袁術だけど、長安の李傕のところから献帝が逃げ出したと聞き、もはや漢王朝の力はないと見て、自ら皇帝に即位することにした。
それで197年、国号を仲として、袁術が皇帝に即位した。
配下だった孫策は即位を止めたけど聞き入れられず離反。諸侯も即位を認めない。
袁術はみるみる凋落していって、199年には袁紹を頼って落ち延びていく。その逃避行も、曹操に命じられた劉備に阻まれて、袁紹に合流することもできなかった。
結局、旅程で病死。
天地を喰らうIIの袁術編は、わりと史実に近く、逃げている袁術を捕まえて討ち取る役目。
袁紹の凋落(官渡の戦い)
天地を喰らうIでは、袁術の次は袁紹だという感じで、劉備自ら冀州征伐に向かう。
もちろんこれは架空。
正史では、劉備は袁術の攻撃で徐州を失って、曹操の客将になっている。
袁紹と袁術が対立していた頃は、袁紹の麾下にあった曹操だけれど、190年代半ばに東奔西走してどんどん勢力を大きくしていた。
そして196年、曹操が献帝を庇護して、洛陽から許昌へと遷都。曹操が漢王朝の庇護者として実権を握る。
またこの頃に、劉備と曹操が共同で呂布を捕らえて処刑する。天地を食らうIIだともっと後まで呂布がちょろちょろするけど、本来はここで退場。
しかし199年頃から、傀儡にされることを恐れた献帝の密勅で、曹操暗殺計画が動き出す。これに劉備も加わっていた。そして計画が露見。
劉備は徐州へ逃れてまた軍を挙げ、曹操と対決姿勢を取るものの、曹操本人が親征してきたら敵わず、袁紹の下へ逃亡した。
天地を喰らうIIでも、袁術を倒した直後に曹操の大軍に襲われて逃亡するので、わりと正史や演義に近い描写。劉備の奥方や関羽が曹操の手に落ちるのも正史通り。
袁紹もまた公孫瓚を下して、黄河以北と青州の巨大な版図を持つようになった。
袁紹と曹操が二大勢力として、一触即発の状態に。
200年になっていよいよ、袁紹が曹操との戦争を決意。
ただ、やることは決意したものの、長期戦か短期決戦かで陣中がモメまくり、ぐずぐずしてしまう。というかやる気だったら劉備が徐州で挙兵した199年の時点でやってればいいのに……。
結局、白馬という土地に袁紹軍が侵攻。
一応袁紹軍が勝って白馬が陥落するんだけど、曹操の軍師荀攸の計略で、猛将顔良・文醜を戦死させられてしまう。
天地を喰らうIIでは、曹操軍の謎の武将として関羽が登場して、顔良・文醜を討ち取るのだけど、これは三国志演義のとおり。正史でも顔良の方は関羽が討ち取っている。
そして直後に場面が切り替わり、関羽が曹操の下を離れて劉備に合流を図る千里行が始まる。官渡の戦いのその後はばっさり省略。
この関羽の千里行、てっきり演義だけの話かと思ってたんだけど、正史でもそうなってるらしい。
ただ、いくつも関所破りをして押し通るのは演義の脚色。孔秀とか卞喜といった関所の守将もみな架空の人物。正史では、曹操は関羽を止めずにそのまま行かせた。
この後の官渡の戦いは、袁紹軍が大軍を生かしてじりじり曹操を押していく。
曹操軍の後方で起きた反乱に劉備を派遣して支援させるなどもして、曹操はどんどん苦境に陥る。もともと兵糧も袁紹側に余裕があったから、曹操は持久戦もできない。
しかし、袁紹軍の参謀許攸が内紛で曹操に寝返る。そして烏巣にいる輸送部隊が手薄だと情報を持ってきた。
そして素早く曹操が行動して、守将の淳于瓊を撃破して兵糧を焼き払った。
袁紹は対応に失敗し、反撃に曹操本陣を攻撃するよう命じた張郃・高覧が、そのまま曹操に降伏してしまった。
名将張郃と大量の兵糧を失った袁紹軍は大混乱、そのまま敗走していった。
南方で攪乱作戦を行っていた劉備も、袁紹本隊が負けてしまってはどうにもならず、劉表の下へと逃げていく。
冀州に戻った袁紹は、ますます臣下の内輪もめが悪化、讒言が入り乱れて投獄・処刑される者も出る。さらに力の衰えを見て反乱が続発。
そして202年には袁紹が没する。
さらに長男の袁譚と末弟の袁尚との間で後継者闘いが勃発。結局どちらも、袁譚は205年、袁尚は207年に曹操に滅ぼされ、更に巨大な版図が曹操の手に収まる。
荊州・三顧の礼
天地を喰らうIでは、そもそも劉表の客分になることもなく、荊州北部はほとんど城がなくて名士の庵ばかりある平和な土地になっている。
そのまま南の方の武陵・長沙・桂陽・零陵の城を攻めて征服していく流れ。荊州南部は赤壁の戦いの後に獲得する土地なんだけど、Iでは赤壁をやらないので。
IIでは、劉表から新野を与えられて、曹操の侵略への防戦や反乱鎮圧などを行う。
正史でも、劉備は劉表から新野を借りて雌伏する。
207年、劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎え、天下三分の計を説かれ、荊州獲得と西の益州侵攻を進言された。
同年に劉表が亡くなった。そして後継者の劉琮は、劉備が交戦しているのを差し置いて、曹操に降伏を決める。
新野で孤立してどうにもならなくなった劉備だけど、「もう劉琮を討って荊州を領有してしまえ」と諸葛亮に進言されたのは、劉表に受けた恩を仇で返すようで嫌だと断ってしまう。
仕方なく、一旦新野を捨てて落ち延びることにするんだけど、今度は劉備を慕った住民がついてきてしまい、のろのろとしか移動できない。そして曹操軍に追いつかれ、劉備の軍勢は散り散りになってしまう。
この退却戦も、いかにも演義っぽいんだけど正史に書いてる。
長坂橋で張飛が仁王立ちになって数万の軍勢を食い止めたという話も、流石にひとりじゃないものの、実際に20騎程度の手勢でやったらしい。
趙雲も、阿斗(劉禅)と劉備の奥方らを救出した。
もっとも、劉備は民を見捨てられない仁君かと思わせて、いざ曹操軍に襲われたら住民どころか妻子も見捨ててひとりで逃げようとするから、慌てて趙雲が妻子を回収した……みたいな話みたい。
そして、孫権に派遣されて荊州の様子を伺いに来た魯粛と会い、その手引で、劉表のもうひとりの子・劉琦のいる江夏まで逃れて、とりあえず身を落ち着ける。
天地を喰らうIIでは、劉表没後は曹仁の侵略を博望坡で撃退しつつ、劉琮配下で実権を握る蔡瑁を征伐して荊州を平定。
しかし曹操本隊が来て新野では支えきれずに撤退戦へ。劉琦と魯粛に助けられて江夏へ……という流れも正史の通り。
赤壁の戦い
天地を喰らうIではまるごとすっ飛ばされるが、IIでは曹操軍100万の大軍を壊滅させる痛快イベント。208年10月のこと。
赤壁は三国志演義の派手な記述が有名で、無人の舟を曹操軍に近づけて矢を射かけさせて10万本の矢を集めたとか、諸葛亮が祈祷で南東の風を吹かせたとか、龐統を曹操軍に送り込んで「舟を鎖で繋げば揺れが小さくなって、船に慣れない兵でも酔わない」と騙す連環の計とか、黄蓋の苦肉の策とか面白い話があるけど、さすがにこれは創作。
天地を喰らうIIでは、演義に従った派手な大戦イベントになる。
南東の風を吹かせる祈祷のために、一度日本に渡って大蛇から卑弥呼を助けて秘術を授けてもらう、という一幕があったりもして、演義をさらに脚色している。
しかし正史では、赤壁は意外と描写が少ない。
曹操軍が赤壁で孫権軍に大敗を喫したとは書かれているけど、将兵が疫病で弱ったこと、火攻めでやられたこと、くらいしか書かれてない。わりと淡々と曹操軍が行殺されてる感じ。
荊州南部四郡征伐
ともあれ、決戦の後、荊州に周瑜や関羽が追撃戦を仕掛ける。
これは、曹仁が江陵で殿を務めて奮戦する。一年に渡って頑張ってとどまり、周瑜に重傷を負わせる場面もありつつ、ギリギリまで戦って撤退。すでに関羽が北に回り込んで道を塞いでいたんだけれど、李通が関羽に突っ込んで血路を開いて曹仁を逃した。
そしてこの頃に劉備は何してたのかというと、武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部四郡を攻め取っていた。
荊州ってすごく南北に長くて、この南部四郡は赤壁からさらに南西の方。曹操が北に逃げていくのとは反対側に向かってることになる。まあ根無し草になってる劉備にとっては、拠点となる土地が必要だったんだろうけど。
この戦いは正史ではさらっと流されていて、荊州四英傑なんてネタにされている人物は、名前くらいしか書かれていない。演義ではやけに脚色されてるんだけど。
天地を喰らうIでは、赤壁すっとばしていきなり四郡制圧。
IIでも、太守らを次々破っていく。一部で底の浅いだまし討があったりしつつもわりと簡単に突破できる。
でもって、Iでは平定後の荊州南部に呂布がうろつくようになり、遭遇戦で撃破することになる。
IIでも呂布が桂陽に現れ、また傘下に加わり、桂陽城を任せるなんて脇の甘いことをして、やっぱり裏切られ、決戦の末討ち取る。
ゲームでも史実でも、馬良・馬謖や龐統など荊州の知識人、それから黄忠・魏延が劉備の下に加わるのがこのとき。
正史の黄忠はもともと劉表の配下で長沙を守っていて、曹操が荊州を征服したときはそのまま長沙で韓玄の下に入る。そして劉備が長沙を落としたときに帰順。
魏延は、正史ではもう少し後、入蜀の時から登場する。
入蜀(益州侵攻)
そして、孔明の天下三分の計に従って、次は益州を征服することになる。
天地を喰らうIだと、わりと遠慮なく武力で侵攻する形。
IIでは、張松や法正が劉備を益州に招き入れるような話になっている。
とはいえ、いきなり漢中に攻め込んで張魯を撃破し、その後は劉璋配下の諸将に疑われて戦いになり、結局そのまま成都まで武力制圧するような流れ。
正史でも、張松・法正が劉備を迎え入れる流れは同じ。劉璋があまり優れた人物ではないと判断して、赤壁で曹操を破った劉備に益州を任せようと画策。(当時の知識人階級の間では、状況から判断すると天下三分の計は自然に出てくるようなアイディアだったらしく、張松・法正もそれを実現しようとしてたのかもしれない)
そして211年、もともと戦が苦手と自認していた劉璋は、曹操や張魯が侵略してくるのを恐れ、張松らの進言を容れて劉備に援軍として入ってもらうことにした。
劉備は、蜀と漢中をつなぐ街道の関所、葭萌関に駐屯して張魯に睨みを効かせる。しかしあんまり戦わない。
しかも212年には、揚州での曹操と孫権の戦いや、荊州での楽進と関羽の戦いが起きて、「張魯は籠城してるだけだから」とほったらかして援軍に向かおうとした。さすがに劉璋が軍需物資や兵の援助を渋って関係が悪化。
ここで張松の企てがバレて誅殺され、関係決裂。まあ劉璋から見ると完全に外患誘致した売国奴だから……。
もう劉備も遠慮なく武力侵攻しはじめ、どんどん城や関所を攻め落としていく。雒城の張任にはさすがに時間がかかったものの、3年で成都まで迫って劉璋を包囲。
そして214年、劉璋は降伏して開城、益州は劉備の手に落ちた。
三国志演義や天地を喰らうでは、できるだけ劉備が善玉に見えるように描く傾向があるけれど、まあ、そんなにきれいに益州を取ったとはいえないような……。
劉璋が酷い悪政をしていたことにすれば大義名分も立つんだけど、そこまで捏造できる材料がなかったかな。
荊州割譲・漢中制圧
入蜀の後、天地を喰らうIでは物語が急展開。
曹操が病死し、孫策も暗殺される。そして孫権の軍勢が荊州に進行し、関羽・張飛が苦戦中という。
この時点で214年として、曹操が死ぬのは220年だからなぜか早い。
逆に孫策はずっと前、200年に死んでいる。官渡の戦いで北に向かっている曹操の背後を突いて、許昌を南から攻撃しようとした。しかしその途中、たまたま単独で外出したところで3人の敵と遭遇、重傷を負って26歳にして早逝した。その時点で弟の孫権が後継者になっている。
孫権が劉備に、荊州の割譲を求めた。孫権から見ると、曹操にやられて逃げてきた劉備に貸してやった兵で取った土地なんだから、益州を自分で取ったなら荊州は返せ、と。
劉備が解答をはぐらかしたら、215年に孫権が呂蒙を荊州に送り込んで武力で奪いにかかった。
天地を喰らうIだとそれで蜀と呉の全面戦争になっちゃうんだけど、正史ではそこまでいかない。むしろ劉備と孫権が争っていても曹操が喜ぶだけなので、魯粛と関羽が会談して荊州を分割して半分ずつ取って、ひとまず和解することになる。
天地を喰らうIIでは、入蜀後は漢中に侵攻する。
漢中にいた張魯はすでに曹操に討伐されていて、代わって夏侯淵が守っている。
これは正史通りの流れで、219年の定軍山の戦いで黄忠が夏侯淵を撃破し、漢中を奪う。
曹操が自ら漢中奪還にくるものの、攻めあぐねて戦線降着、「漢中は鶏肋」といって撤退していく。
そしてここから正史と天地を喰らうIIのストーリーが分離し、このまま北伐に突き進む。天水を落とし安定を落とし街亭を落とし五丈原を突破し、長安から洛陽へと攻め上がって司馬懿と対決、撃破してエンディング。
樊城の戦い
ゲームでは劉備が中国統一に突き進み始めるところだけど、現実は厳しい。むしろこのへんから、劉備の転落が始まる。
219年、定軍山の戦いで夏侯淵が討ち取られたことで、荊州を治めている関羽もまた荊州北部の南陽郡へと侵攻を始める。
まずは曹仁が守る樊城へと攻めかかるが、そこに曹操が于禁が率いる大軍を援軍に差し向ける。
そこに長雨から、近くを流れる漢水の氾濫が起きた。于禁の援軍や、樊城から出て遊軍で動いていた龐徳など大勢の将兵が水没してしまった。関羽はすかさず水軍を出して、于禁は降伏、龐徳は抵抗を続けて斬られた。
しかし、関羽が留守にしていた本拠地の江陵に、呂蒙・陸遜らが攻め込んできて陥落してしまった。(もっともこれ、降伏した于禁の3万の兵士を抱えた関羽が急に食糧難になって、呉の食料を略奪したもんだから、その報復で攻め込まれたもので、呉が悪質な裏切りをしたというものではない)
樊城も落城寸前に見えて曹仁が耐え続ける。さらに徐晃が援軍にやってきて、ついに関羽を退却させる。
本拠地を失っていた関羽は益州に逃げるしかなかったが、孫権の追撃から逃げ切れず、220年1月、臨沮で捕縛された。
関羽を召し抱えたいと思いかけた孫権だったものの、「狼の子を養うことはできない」とたしなめられ、斬首を決断した。
夷陵の戦い
そして劉備は中国統一どころか、蜀漢の滅亡を決定づけるような大敗の戦に向かってしまう。
221年、劉備は皇帝に即位して、国号を漢とした。
そして、関羽の仇討ちのため、劉備が呉への東征を決断。
が、直後に張飛が部下の范彊・張達によって殺害される幸先の悪さ。
劉備の親征で、軍勢は長江を下って荊州に向かう。
意外に、この蜀軍の総数がはっきりしない。大軍としか書いてなくて、三国志以外の書物に4万余りと記載があるらしい。演義では75万とあるけど、ちと無茶。
孫権は、陸遜を大都督として迎え撃たせる。これは5万の軍勢と明記されている。
そして劉備は呉軍を撃破しつつ夷陵にまで至るものの、益州から長江に沿って長々と補給線が伸びている状態。
ここまでいいところ無しに苦戦していると思われていた陸遜が、伸びた補給線、敵陣の火攻めに弱い状態を見破り、一気に夜襲を仕掛けて火を放った。
補給線が壊滅し、大損害を受けて潰走する蜀軍は、援軍に駆けつけた趙雲に助けられつつなんとか白帝城に逃げ込んだ。
そこに魏の軍勢が呉への援軍と称して南下してきて、呉は劉備の追撃はせず魏軍と対峙することを選んだ。
ひとまず放置された劉備だったが、成都に帰ることできず、223年6月10日に白帝城で崩御する。
これで蜀は、動かせる軍勢の半分と、荊州を失ってしまった。この国力低下で、のちの北伐はますます苦しい条件のものとなってしまった。
南蛮征伐
劉禅が蜀漢の帝位を継いで、諸葛亮は南部の平定にかかる。
225年から南征が始まり、三国志演義では妖術や奇策が飛び交うファンタジーバトルになるんだけど、正史ではそこまでではない。
孟獲が7度捕まって7度許されたことで蜀漢への固い忠誠を誓った、というのは正史にある(でも諸葛亮伝にあって猛獲伝にはないらしい)。
ともあれこれで、南方異民族から徴税ができるようになって、衰えていた蜀に大きな潤いになった。
北伐
天地を喰らうIIで描かれる北伐は、益州獲得後の漢中での夏侯淵撃破から、そのまま実行に移される。夷陵の戦い・南蛮征伐はすっ飛んでいる。
(天地を喰らうIは、先に呉を攻め滅ぼしてから北上するような流れになってるので、もはや孔明の北伐とすら関係ないので置いとこう)
で、以下のように撃破していく。
- 南安 - 曹休
- 安定 - 曹純
- 天水 - 夏侯楙
- 陳倉 - 郝昭
- 街亭 - 曹真・張郃
- 斜谷の関 - 曹彰
- 鹵城 - 曹操
- 祁山の関 - 荀彧
- 葫蘆谷 - 曹操
- 渭水関 - 曹丕
- 五丈原 - 司馬懿
- 長安 - 張遼
- 沂水関 - 司馬師
- 洛陽 - 司馬懿・司馬師・司馬昭
実際の北伐は、洛陽まで抜けるどころか五丈原で孔明が死んで終わる。
また五丈原までも一回で突き抜けるわけでなく、5回に渡って行われた。
第一次北伐は、どうも魏の方では劉備が没した蜀はもう死に体だとみなしてたみたいで、西の方を守る将軍も夏侯楙という、まあ夏侯惇の息子というだけで武略に欠ける臆病者だといわれてた人。まあ、完全に舐めていた。
228年春に、漢中から斜谷道を抜けて郿を攻めるぞとアピールして趙雲を出し、しかしこれは陽動で、西に回り込んで魏に侵入した。
祁山に攻め込んだ蜀軍に驚いて、天水・南安・安定の三郡が蜀に降伏。姜維もこのときに蜀に下っている。
やっぱり対応できてなかった夏侯楙は更迭されて、明帝(曹叡)が自ら長安まで親征、蜀軍には張郃を向かわせた。
そして孔明は、馬謖に指揮を任せて街亭で張郃と交戦。しかしここで馬謖が山に布陣してしまい、張郃に水の手を切られた。そしてボロ負けする。
結局蜀軍は撤退し、天水・南安・安定も張郃・曹真に取り返された。
それで「泣いて馬謖を斬る」の故事どおり、馬謖は処刑された。
なお、天地を喰らうIIで敵将として出てくる南安の曹休は、正史では呉の方で戦っていた。安定の曹純は、210年に死んでいる人物。斜谷の関の曹彰も、223年に死んでいる。
第二次北伐は228年12月で、蜀軍は漢中から陳倉道(斜谷道のすこし西)を通って北進して抜けた先の陳倉城を包囲。
城の守将・郝昭はよく健闘して、諸葛亮が繰り出す新兵器もことごとく対処して籠城を続けた。すぐ落とすつもりの小城が落ちず、蜀軍は兵糧切れ。あっさり帰っていくことになった。
第三次北伐は229年春に動いて、陳式を派遣して武都・陰平(どちらも蜀の北の山岳地帯)を攻め落とした。魏から郭淮が反撃に来たものの、孔明が自ら動いて撃退した。
230年になると、魏の方から反撃があり、曹真・司馬懿・張郃・郭淮らが討伐軍として蜀を攻める。
蜀の方は漢中太守の魏延に防御を固めさせ、李厳に兵を与えて援軍に出した。
しかし運悪く、本隊である曹真の行軍中に大雨があって、食料が腐ったりして進軍できなくなった。さらに魏延や呉懿の反撃もあって苦戦し、撤退していった。
231年の第四次北伐は、孔明自身が出した軍勢で山を超え、祁山を包囲する。
包囲を保ったまま、鹵城に陣を構えて援軍に来た司馬懿・張郃を迎え撃った。戦闘では蜀側が優勢だったものの、また食糧不足になって撤退。
どうも、そもそも山を超えて大量の食料を補給するのが難しいみたいで、李厳が補給をするはずだったけど失敗していた。
退却する蜀軍を張郃が追撃したが、これは伏兵に遭って撃退され、名将・張郃もついに戦士してしまった。
天地を喰らうIIでは、鹵城になぜか曹操がいるけど、これはとっくに死んでいる。
祁山も荀彧が守ってるけど212年に死んでいる。
第五次北伐は少し間を開けて234年。
褒斜道(これは斜谷道の別名らしい)を抜けてすぐの五丈原に布陣する。
司馬懿もすぐに対応して、東の川を挟んで布陣して持久戦に。
対峙している間に、呉が呼応して荊州・合肥へと攻め込むんだけど、これは魏の守将の活躍で撃退されてしまいった。
五丈原は膠着状態が続いたまま、8月、孔明が病死。蜀軍は撤退する。
孔明は最前線で司馬懿と対峙している魏延に殿軍を任せて退却するよう遺言していたのだけど、魏延が裏切って最前線から単独で撤退していく。
いきなり最前線の部隊が撤退するんだから蜀軍の異変が明らかだったけど、司馬懿はなにか裏があるかと思って追撃を思いとどまった。
それで蜀全軍も撤退できたものの、山を越えて漢中に戻ったところで、先にひとりで逃げていた魏延の軍勢が、戻ってきた蜀軍に攻撃を仕掛けた。が、そんなやり方では将兵の士気が上がらず、あっさり魏延が敗退。
魏延って、反骨の相があるとか裏切りを示唆するような話があるんだけど、天地を喰らうでは裏切る状況にならないからそのシーンを見られないのよね。
天地を喰らうIIで五丈原以降に出てくる守将は、まあ史実が存在しないけど、張遼はさすがに時代が違って222年没。まあ、魏を代表する名将としての出演かな。
それから三国志演義では、五丈原で睨み合う間に孔明が一計を案じて、葫蘆谷に魏延が兵糧を運び込んでいるふりをして司馬懿を誘い込み、火攻めで仕留めようとした。火をかけるところまでは成功したんだけど、ちょうど豪雨が来て司馬懿が九死に一生を得る、というエピソードがある。
天地を喰らうIIでは、これは曹操が火計を仕掛けて待ち構えていて、劉備軍が釣られてしまったところで、六甲天書(道教の秘本)で雨を呼んで鎮火する、というシーンになっていた。
北伐以後
いい加減長いし、蜀漢主人公視点で見るともう、この後は負け戦を繰り返して滅亡していく感じだけど。
孔明の死後、流石に北伐は長期間止まる。
その間に姜維が西方の異民族と戦って味方につけるなどして地位を高めていく。
253年に姜維が軍のトップに立つと、また北伐に挑んだ。254年・255年にやったのは勝ったけど、256年には大敗。257年に魏の諸葛誕が反乱を起こしたのに呼応するが、反乱失敗とともに撤退。
そして批判が巻き起こって北伐は停止された。
姜維が軍事にばっかり専念してたら、劉禅が宦官の黄皓に政治を丸投げしていた。それで内政も乱れていく。
262年にまた北伐して失敗。流石に姜維は成都に戻れなくなって漢中を守る。
263年に魏から征伐軍がやってきて、姜維は漢中で鍾会の軍勢を食い止めてたら、別働隊の鄧艾が西に回り込んで成都の近くまで侵入してきて、劉禅がびびって戦いもせず降伏。姜維も仕方なく降伏。
最後に姜維は、益州を治めるようになった鍾会をそそのかして魏に反乱を起こさせようとした。
それで本当に鍾会が反乱を起こそうとしたものの、部下がついてこず、鍾会と姜維が誅殺されて、ついに蜀漢は完全に滅んだ。
劉禅は別に殺されてもないんだけど(皇太子の劉璿は姜維と一緒に殺された)、まあ自分で蜀漢復興なんてやれる人ではなく、洛陽で65歳まで飼い殺された。