堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

嵐山天皇陵めぐり

 全国の天皇陵を巡ってみよう、と数年前から少しずつ進めていたのだけど、最近進んでなかったので久々に。

 大阪はみんな行った、奈良もあらかた、京都がさほど進んでないけど割と密集してるから行けば進むはず。
 一番遠い安徳天皇陵は行ってあるし、昭和・大正天皇陵も東京にいる間に行った。難関は讃岐の崇徳天皇陵、淡路の淳仁天皇陵かな。

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 Googleマップにまとめた。赤がまだ、青が参拝したところ。黄色の後村上天皇陵は、行ったら工事中で入れなかった。

 

 

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 さてまずは阪急で嵐山駅へ。

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 てくてく歩いて渡月橋を越える。何度か来てるから程々に景色を楽しむ程度で。

 桂川の北側を東へ少し、長慶天皇陵があるが、その前に。

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 ちょっと写真の撮りようがないような小さなスペースだが、長慶天皇陵に隣接して安倍晴明墓所がある。

 一時期の陰陽師ブームは結構なもので、ここにも「住宅地やからあんまり騒がんといておくれやす」という旨の看板があった。そういう時期もあったんだろう。
 大阪阿倍野の出生地も、ここ嵯峨の墓所も、ネームバリューほど賑やかではない。なぜか屋敷の跡にできたらしい京都の晴明神社だけは、極端な賑やかさというか俗化著しい有様なのだけど、どこで差がついたんだろう。

長慶天皇嵯峨東陵

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 長慶天皇嵯峨東陵には、東側からが参道。しかし西側からも裏道的にやってこれる。

 正直、長慶天皇といっても、いつの、どんなことをした帝かさっぱり出てこないが、九十八代天皇南北朝時代南朝方三代。資料が少なくて、大正時代まで本当に在位していたのかすらはっきりしていなかったらしい。

 どうも、敗色強まった時期の強硬派天皇だったそうで、譲位してからも南朝への協力を求めて全国を巡っていたという貴種流離譚みたいな話があるとか。
 しかしそのおかげで晩年の記録がなく、そこらじゅうに「ここにいた」という伝説ばかりがあって、どこが陵墓ともわからなかった。
 結局、天龍寺の塔頭である慶寿院の跡地を陵墓に比定することになったのがここ。

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 隣には、慶長天皇の皇子である海門承朝墓所
 また難しい立場に生まれてしまった人だが、しかし素晴らしい能力の持ち主だったそうで、仏門の高僧として力を持ちつつ、南朝の皇子として室町幕府との調整などにも多く働いたという。小説にでもなってたら面白そうだな。

 

後嵯峨天皇嵯峨南陵・亀山天皇亀山陵

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 西に戻って、嵐電の嵐山駅すぐそばの天龍寺

 ここも京都らしい名刹だが、今回はこの中にある後嵯峨天皇亀山天皇の陵墓へ。

 門からまっすぐ入って本堂の手前、右手に墓地への門がある。
 天皇陵もそこにあるのだが、「墓参の方以外は入るな」との看板があり、竹竿を渡して塞いでいる。
 本堂の料金所で聞いてみたら入っていいとのことで、まあ、天皇陵に参拝するのも墓参ではあるから、竹をくぐって入った。

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 右手が後嵯峨天皇嵯峨南陵、左が亀山天皇亀山陵。
 天皇陵って大抵は鳥居が立ってるような神道っぽいものが多いのだけど、京都の天皇は寺院との結びつきも強くなって、仏教化しているようだ。

 後嵯峨天皇は、土御門天皇の皇子だったが、父が上皇になってから土佐に流されたために若い頃に苦労した。しかしそれゆえに政治的に中立なポジションにあったために、天皇に即位することになった。
 天皇としては、上手く貴族も掌握して幕府とも関係を良好に、安定した政権運営をしたのだけど、息子の後深草天皇亀山天皇、どちらの系統を正統と定めずに亡くなってしまい、南北朝の分裂を起こしてしまった。

 亀山天皇は、陵も並んでる通りで、父にはかなり贔屓されていたようだ。しかしそれゆえに南北朝が分裂していった上、しかも上皇として治天の頃、元寇があった。なんともややこしい目に遭ってる天皇だ。

 

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 一旦、桂川に降りて、天龍寺裏手の方へ。亀山公園というのが整備されている。

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 角倉了以銅像があった。安土桃山時代の京の豪商で名前くらいは知ってるけれど、晩年は治水事業に邁進してたそうで、桂川(上流の保津川大堰川と呼ばれるあたり)の開削もやったからここにあるのかな。

 他に、周恩来の詩碑もあったんだけど、中国かららしい観光客がぎっしり集合していてちょっと近づけず。まあ、漢詩の素養のかけらもない私より値打ちわかりそうだ。

 

 

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 ここには、後嵯峨天皇亀山天皇後伏見天皇が荼毘に付された火葬塚がある。
 鎌倉時代にもなれば火葬されるのが当たり前だろうけど、火葬塚か。やっぱり大阪や奈良だと古い天皇が堂々たる古墳を作ってるから、火葬塚となると京都独特のものか。

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 竹林の道もチラ見して、トロッコ嵐山駅を過ぎて、どんどん北へ行く。

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 御髪神社という、名前通りの髪様を祀る神社があったよ。心配な方はどうぞ。

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 嵯峨天皇の皇女、有智子内親王墓所もあった。

 このあたりは小倉という地名で、小倉百人一首もそうだし、小倉餡発祥の地でもあるそうだ。

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 弘源寺というお寺があり、そこに向井去来の墓がある。すぐそばの落柿舎に去来が住み、芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を書いた。

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 西行がここに住んでいたこともあり、使っていたという井戸もあるが、フタがきっちりしすぎて何も見えないな……

 

後亀山天皇嵯峨小倉陵

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 道なりに北上すると、こんなきれいな参道がある。この先が、後亀山天皇嵯峨小倉陵への道。

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 九十九代後亀山天皇は、南朝最後の四代天皇長慶天皇の弟。後村上天皇の子。

 三種の神器北朝に伝え、あとは静かに隠遁……と思ったら、南朝系・北朝系を交互に即位させる約束を幕府が破る動きを見せ、それに抗議して吉野に飛び出したりとかしていたそうだ。力ない方が蔑ろにされるのは世の常だなあ。

 

嵯峨天皇嵯峨山上陵

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 東の方へ、大覚寺に向けて歩いて行く。そのすぐ北東に、嵯峨天皇陵への参道がある。

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 しかしこの参道が長い長い。陵墓が辺鄙なところにあるのはよくあるけども、参道がここまで長いのはちょっと心当たりがない。
 よく整備された階段になっていて、嵯峨の地を一望できる景色があるのが救いではあるけれど、休み休み、二十分以上かかってしまったな……。

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 これだけ頑張って登ってきたものの、早くから実際の陵墓地はわからなくなっていたらしい。色々説がありつつ、ここだと決まったのは江戸時代とかで。

 嵯峨天皇は五十二代、政治的にはややこしかったものの、自らも空海橘逸勢と並んで三筆と言われる書家。
 それから、お盛んな方で49人も皇子・皇女があったとかで、臣籍降下で源姓を賜ったことから源氏が生まれた。
 また、死刑を廃止していて、その点では今の日本より進んでいるかもしれない。

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 あいにく広角レンズつけてたから小さくしか撮れなかったが、ルリタテハが飛んでいた。

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 美しい参道ではあるのだ。ほんとに大変だけど。

 

後宇多天皇蓮華峯寺陵

 疲弊していたのでどこかで休みたいものの、喫茶店などあるような場所でもなく。そのまま道なりに東へ。

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 後宇多天皇もまた、随分と仏教式のスタイル。
 寺の中にあるようなものじゃなく、独立していながらこの形はあんまり見ないな。元々寺の一部だったのが、寺だけ廃れた感じだけど。

 父である亀山天皇に支持された自らの大覚寺統、兄の後深草天皇持明院統、そして我が子の後醍醐天皇と、分裂と混乱の中でどうにか止めようとしていたらしいけど、まあ、胃が痛くなりそうな立場だ。

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 で、蓮華峯寺陵の飛び地、なんてものも近くにあった。どういうものなんだろう……

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 道なりに南に下がると、広沢池にぶつかった。

 かつて、大覚寺の東に隣接して、遍照寺という大伽藍を構える大寺院があった。応仁の乱で衰退し、ほとんど遺構もないと思ったら、広沢池近くで見つかったそう。

 小さな浮島が作られていて、壷美白辨財天社というお社とか、仏像やら石碑やらが建っていた。
 OM-Dに長玉つけたおっちゃん、弁当食べてる東南アジアっぽい外国人カップル、GB250クラブマンで乗り付けたらしいライダー、そして私と、小さなとこにたまたま人が集まっていた。
 別に何というほどのものもなかったが、景色はよかったな。

 

 体力が厳しいから、どこかから帰ろうかと思ったんだけど、駅から遠い。

文徳天皇田邑陵

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 最寄り駅は山陰本線嵯峨嵐山駅あたりだが、そっちにいってもつまらんので、もう少しだけ足を伸ばして南東の方へ。

 嵐電鳴滝駅近くに、文徳天皇田邑陵がある。

 承和の変藤原良房によって即位させられることになったが、それゆえに増長した良房と戦い続けることになった。病弱だったこともあり、政治的にちょっと陰に隠れてしまい、それで後の摂関政治に繋がる天皇の弱体化につながってしまったとも。

 かつては、桂のあたりにある天皇の杜古墳といわれるところが文徳天皇陵だといわれていた。
 現在のこの田邑陵は石室のある円墳で、明らかに時代が違う。

 

 ここで力尽きて、鳴滝駅から帰路へ。

 ちょっと体力落ち気味、というか、靴の減り方が悪いのか、右足の決まったところに酷く豆ができて歩いてられなくなるな。買い替え時かな……