堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

勝竜寺城を訪ねて長岡京市を歩く

 2020年の大河ドラマ麒麟がくる」、明智光秀の話だと発表されている。

www.nhk.or.jp

 光秀の最後の戦いとなる山崎の戦い、天王山のふもと、そこにあるのが今回向かう勝竜寺城
 2020年にはイケメン光秀の歴史を求めて大勢のファンが群がるので、今のうちに訪ねておいた。

 

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 JRの長岡京駅に降りてみたら、えらい綺麗な街並み。
 長岡京市って、昔から企業誘致が上手く行っててカネ持ってるのよね。

 駅西側に、公共施設と飲食店街・スーパーマーケットが一体になったようなビルが立つ。そこの観光案内所で、地図やら仕入れて東側へ。

 

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 東口前に、こんな平和祈念塔なるものが立っている。

 大戦中には都会とは言い難い土地だったここも、末期に一度米軍の攻撃を受けて死者を出したことがあった。
 日本輸送機という会社があって、その煙突が被弾して弾痕が残ってた。それが昭和の末まで戦災シンボル的に立っていたんだけど、老朽化で撤去。
 それで1/5スケールのモニュメントとしたのがこれ。

 

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 さらに、なんか鉄道車両がある。ヨ8000型緩急車というもので、車掌さんが乗るものだそう。
 車両の編成全体に運転士がひとりでブレーキを掛けられる装置がなかった頃に、後ろで車掌がブレーキを掛けてたとのこと。

 昭和52年、1977年に製造されたものらしいが、1986年には貨物列車に緩急車つけないことになっちゃった。
 一部はたまに必要なときに使うために残されたけど、これは廃車された口で、1988年にさっさとここに展示車にされた。

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 車輪があったのは、説明が見当たらず。見落としたかな。ゼロ系新幹線とD51のものらしい。

 

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 で、駅から出た瞬間に勝竜寺城の本丸を踏んでいたようだ。

 まあ「江戸時代の」とあるくらいで、ここにあったのは勝竜寺城というか、長岡藩の陣屋。
 江戸時代にここに所領をもらった永井直清が、勝竜寺城に入ったものの、雨降ったら浸水するのが気に食わんと訴え、城を放棄して陣屋を構えることを認めさせた、という。

 なお、雨で浸水する説は、勝竜寺城跡のボランティアガイドさんから聞いた。
 あの細川藤孝が、近代城郭のプロトタイプ的に作り上げたのが勝竜寺城なのだし、雨一つで水浸しなんて酷い設計ではないような気もするのだけど。
 まあ、ほんの2万石しかない永井氏が城持ち大名やるのもしんどそうだし、無理に持つより破却したかったのかも。

 

 で、ここからちょっと南に。
 駅前すぐは工業地で、結構殺風景。

 そして市立小学校もあって、その敷地の隅に神足遺跡の看板がある。

 弥生時代から飛鳥時代にかけて、この神足の地に集落があった遺跡が見つかっているとのこと。
 また、長岡京ができた時には、大極殿からまっすぐ南に伸びる朱雀大路が、ちょうどここを通っていたそう。

 まあ、写真に撮るような景色はない。

 

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 神足遺跡すぐ近く、勝竜寺城の外郭にあった土塁・空堀が残されている。

 写真中央に細い土橋があって、敵兵はそこを通らされる仕掛け。
 で、写真は土塁の上の横手、横矢掛かりから撮ってる。撃てば当たりそうな位置取り。

 土塁をこのような形にしているのは、明らかに発想が新しいので細川藤孝がやったものらしい。
 しかし空堀の方は、その前からこの土地を治めていた土豪の神足氏が掘ったものじゃないかという説も、現地の看板にあった。

 高さ6メートル、長さ50メートルも残ってる。450年も残ったのは、神社の境内だったからかな。

 

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 土塁のすぐそば、神足神社。
 このあたりの産土神で、延喜式にも神足神社と同じ名前で載っている。

 祭神は、どういうわけだか舎人親王らしい。しかも現地の案内板でも「~であるといわれている」と、確たるものがあるわけでもなさそう。祭神がはっきりしない神社なんて初めて見る気がする。

 桓武天皇が、長岡京を襲おうとする悪霊をこの地に降り立った神が防いでいた、という夢を見て、この地を神足と名付けて神社を建てたという伝承がある。
 しかしその神様が舎人親王だとかは、少なくとも案内板には書いてなかったなあ。

 

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 なぜか百度石じゃなくて千度石が立っている。
 昭和42年と新しいが、なんでそんな通常の十倍なんて苦行を課すのだろう。

 

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 もう少し南、郵便局がやけに格好がいい。

 

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 郵便局のすぐ向こうに、勝竜寺城が見えてきた。

 

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 北側の入り口。
 後でわかることだが、この入口は後からつけたもののようで、本来の北門は写真右手の方にあったそうだ。

 ちなみに堀の水は、下水処理場で処理した水を持ってきているそう。

 

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 ボランティアガイドがある、とのことなので、北から入って通り抜けて、南口の方へきた。

 建物が見えるが、公園管理施設 兼 資料館。
 別に復元天守とかではないようだ。そもそも勝竜寺城天守があったかは微妙なとこだが、後の天守の原型になるような瓦葺きの建物は建てられていた、との話も。

 

 さっそくボランティアガイドの方にお願いして、ぶらぶら城を回る。

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 細川忠興ガラシャの像。
 長岡京市は、勝竜寺城を「忠興とガラシャが結婚した城」という角度でアピールしている。

 それから、そう大きくもない本丸の中に、井戸がふたつも出たらしい。もとより北以外の三方を川に囲まれている地形で、籠城しても水源を絶たれる心配はなさそうだ。
 ただ、水はけも何も水が豊かすぎるのかもしれず、江戸時代の殿様に、雨降ったら水浸しになるのを嫌がられたという説、案外本気だったかもと思えなくもない。

 

 勝竜寺城は、江戸時代に入って放棄され、使える資材なんかも淀城の方へ持っていかれた。その後はほったらかし。
 ガイドさんいわく、その前はもう本丸は竹やぶになっちゃっていて、養鶏小屋が作られちゃっている状態だったそう。

 昭和の頃、竹下内閣がバブル景気で全自治体に一億円配ったのをきっかけに、郷土のお城を復興しようという動きが起こった。
 それから発掘調査が行われ、わかることは調べて、今のように城址公園として整備された。

 公園としては、春には桜も咲き誇り、城らしい構造もよく復元され、井戸のような残すべきものは残され、いい感じに整備されている。

 

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 本丸北西あたりに、もともとは枡形になっていたらしい北口がある。

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 四角く積まれた石垣があるが、これは大体下半分くらいがもともとのもので、上半分は後から積み増してある。
 下のほうが野面積みっぽくて、上の方は切った石を積んでるので、なんとなくわかる。

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 枡形の内側を塞ぐ門扉の、礎石が見つかっている。通路両側にふたつずつ。

 山崎の合戦で敗れた光秀も、ここを通って坂本へと逃げていったことだろう。

 

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 石垣などに使われていた石仏を集めてあった。
 まあ、城に石仏が使われるのはよくあるけれど、これだけ集めていると壮観というかなんというか。

 

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 主郭の土塁は、南側を除いて現存している。
 中でも西側は、かなり高い土塁が残っていて、その上にも上がれる。
 南側に来てみると、門を越えて張り出している。鉄砲を撃ち掛けるためのものだろう。これでも、道路を通すために削られているらしい。

 東側の土塁には、多聞櫓があったとのこと。
 石垣を積んでるとか、門には桝形虎口を作ってるとか、当時の新しい築城技術をどんどん盛り込んである城だ。

 

 西側の土塁は、中程でちょっと高さが低くなっている。
 土塁を越えた先に、沼田丸という郭があった。城主のプライベートエリアとして使われていたらしくて、多少行き来しやすいように下げたようだ。

 細川藤孝正室は、若狭の沼田氏からきた女性なので、そこから名前が付いている。

 

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 城址公園を整備した時、市長さんがなかなかの歴史通だったおかげで、整備事業もいい感じに進んだそう。

 しかし、ただひとつ市長さんが、「瓦に細川の家紋の九曜紋を入れろ」とこだわったそうで、ここは史実とは違う。
 実際に発掘された瓦が資料館に展示されていたが、左三つ巴の紋が入っていた。

 それから足利二つ引きの紋も入っている。
 細川氏はもともと足利尊氏以来の家臣、そして将軍足利義藤(後に義輝に改名する剣豪将軍)から偏諱を受けて細川藤孝と名乗ったくらいの間柄。

 

 それから資料館に入ってみたが、最近160万円で買ったらしい細川藤孝の直筆書状があった。

 あとは発掘品の展示があったり、細川藤孝・忠興・ガラシャあたりの肖像画の複製やら。
 発掘品は、あまり見つからなかったという話通りで、瓦とか土師器、美濃焼白磁のちょっとした器があった程度。

 

 ガイドさんが、特に話し好きで色々教えてくれる方だったようで、実に色々聞けた。
 大河が始まってからでは、こうじっくりとガイドしてもらえることもないだろうから、早めに行ってお願いするのがよさそう。

 

 これくらいで城を出て、また南へ。

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 ちょっと南に、勝竜寺が今もある。

 真言宗の中でも真言三宝宗という宗派だそう。宝塚近くの清荒神清澄寺が本山。
 鎌倉時代作の十一面観音像が御本尊。
 空海が、中国で学んだ青龍寺にちなんでその名前で建てたが、平安時代に干ばつが起きて、千観和上の雨乞いが上手く行ったときに勝竜寺と改めたとのこと。

 

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 この梵鐘は三代目、という。

 初代は、1319年に勝竜寺に鋳造されたと刻まれているもので、大阪の陣のときに持ち去られてしまった。
 一度、「打ち捨てられているのを発見した」という体でロンダリングが行われ、今は大阪能勢の真如寺というところにある。

 二代目は1766年に鋳造されたが、第二次大戦で供出。

 それから、初代が現存すると知ってなんとか返還してもらおうと奔走したが叶わず。
 諦めて1977年に作ったのがこの三代目。

 

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 境内に春日神社もある。神仏習合の名残かな。

 平安時代九条兼実が建立して、このあたりの村の氏神様に。
 1582年に一度消失している。多分山崎の戦いのせい。

 

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 勝竜寺城に向けて広い道が、そのまま東側の小畑川に続いていて、橋をかけている。
 ここが藤孝時代の勝竜寺城大手門になっていた。

 南北朝時代から、細川頼春や師氏が勝竜寺に土塁を作って城塞化していたという伝承があると、ここの解説板にあった。

 

 その橋は渡ってしまわず、南西方面へ。
 西側の川を渡ったところに、恵解山(いげのやま)古墳というのがある。

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 被葬者がだれかはわからないが、全長120mの前方後円墳乙訓郡では最大の古墳。

 後円部は墓地になっている。

 

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 回り込むと、実に墳丘が綺麗。
 こんなに綺麗に直してる古墳は案外珍しいな。

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 墳丘の上は、埴輪列といくつかの案内板が。

 やはり三川合流の地、大昔から交通や物流の要衝だったこの土地に、大きな古墳を築いてみせるのは、さぞかし権力の誇示になっただろう、との案内板の言。

 また明智光秀は、山崎の合戦では勝竜寺城に籠もらずに野戦に出たのだけど、その本陣が置かれた「御坊塚」というのがここらしい。
 古い説では、もう少し南、サントリービールの醸造所裏手にある境野1号墳というところが本陣といわれていた。
 でもこちらの古墳を調査してみたら、兵を置くために古墳を平たく整形した跡やら堀の跡、火縄銃の鉛玉まで見つかってしまい、これは本陣はこっちらしいぞとなった。

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 天王山が見えている。
 光秀も、色々思うようにいかずにげんなりしながら見ていた空であろう。

 

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 古墳の立体模型が作られていた。

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 カメラを置いてローアングル撮影。CGっぽい。

 

 

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 更に南へいくと、中山修一記念館というのがある。

 中山修一氏は地域の偉大な歴史家で、早くいえば長岡京を発見した人。
 昭和の時代、完全に謎の存在だった長岡京を研究し、一教師の身で本当に長岡京の確かな証拠を発見してのけた。
 この人がいなければ、戦後の開発ブームでどんどん家が建ってしまって、多くの遺構が見つけられないまま、長岡京も謎のままで終わっただろう。

 

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 先生の像と、かなり樹齢の古い見事な赤松の木。

 歴史があって、それを見つけ出した人もある、恵まれた町だなあ。

 

 この後は、私は西山天王山駅から大阪へ戻った。

 勝竜寺城関連のスポットは、ほぼ道なりに一直線に並んでいる。それぞれ大きくは離れていないので、観光するにも便利だ。