mixiでマイミクが振ってくれたネタなんですが、「生まれた年のダービー馬は何ぞや」と。
そういえば気にしたことなかったな、と検索してみると、1979年のダービー馬はカツラノハイセイコだった。
どんな馬なんだ、とぐぐってみると、なんか細かいエピソードがやたら多い馬であった。
名前について
あの昭和の大スター・ハイセイコーの初年度産駒として、いきなりダービーを制覇したのがこのカツラノハイセイコだった。
そういわれると、帝王ルドルフの子・トウカイテイオーみたいなスター性も感じるし、まだ世間がハイセイコーブームを忘れていないうちに活躍したこともあって、実際人気はあったらしい。
しかしスターと言うには、どうも字足らずで間抜け感ある名前がひっかかる。
馬主は桂土地株式会社という会社名義で、会社のオーナーの名前も桂晃一氏であるらしい。だから「カツラノ」まで冠号。
「カツラノハイセイコー」じゃ10文字だ一字削れとなったなら、「ハイセイコー」を維持してノをカットする選択肢もあったように思うけど、ノは維持された。
ノはハイセイコーより重要なのだろうか。
源頼朝がミナモトヨリトモでは、平清盛がタイラキヨモリでは気持ちがわるい、その気持ちもわかる。が、古代の宗教者は言った。この中で、豊臣秀吉をトヨトミノヒデヨシと呼んでいる者だけが、カツラノハイセイコに石を投げなさい。
Youtubeで昔の映像を探してみると、アナウンサーによっては「カツラノハイセイコー」と呼んでいるように聞こえる場合もあった。
マチカネタンホイザなんか全く語尾を伸ばしてもらえることがなかった覚えがあるし、馬の名前は大体書いてるとおりに読まれる印象があるけど、ハイセイコーほどになるとアナウンサーすら屈服させるのだろうか。
セイコと聖子
ともあれ、カツラノハイセイコになってしまった。
この名前では、時代が時代だしセイコちゃんと呼ばれてしまいそうに思えたが、1979年のダービー当時、まだ松田聖子はデビューしていなかった。
松田聖子は80年4月にレコードデビュー。
しかしその頃、5歳古馬になったばかりのカツラノハイセイコは、前年のダービー後ずっと体調を崩してろくに調教もできない。一度走るも惨敗し、結局ダービーから一年以上続いてしまう雌伏の時を過ごしている。
セイコがレースに出ることもできないどん底の時期、聖子は一気にスターダムへと駆け上がっていった。
カツラノハイセイコは秋に帰ってきて、目黒記念は勝つも、天皇賞秋は敗北。
聖子は、9月には『青い珊瑚礁』で「ザ・ベストテン」の一位を獲得、山口百恵との共演で70年代と80年代の入れ替わりを演じた。10月には『風は秋色』で初のオリコン一位も獲得。
そして年末、セイコは有馬記念2着。聖子はレコード大賞新人賞を獲り、紅白歌合戦にも初出場。
80年は、カツラノハイセイコが持ち前の根性で巻き返すも、やはり松田聖子を差しきれなかった年だったといえよう。
しかし明けて81年春、カツラノハイセイコは天皇賞を激闘の末にハナ差で勝利。ダービー後の苦境をついに抜け出して、頂点を掴み直した。
一方この頃の聖子ちゃんは、シングル『夏の扉』をリリースするも、寺尾聰『ルビーの指環』の大ヒットに阻まれ、オリコンチャート1位になかなか届かない苦戦を強いられた。なんとか6週目で1位を取るものの、結局24連続オリコンチャート1位の偉業の中、最も危なかった一枚になった。
セイコが落ちると聖子が上がり、セイコが輝く時に聖子は曇る。スターは同時には輝かない。
1981年の宝塚記念を最後に、ジャパンカップ・有馬記念の予定を脚部不安でキャンセルして引退するカツラノハイセイコ。
1981年の暮れに、一世を風靡した聖子ちゃんカットをばっさり切って、ショートカットになった松田聖子。
81年を節目として、それぞれ種牡馬として、日本一のアイドルとして新たなステージに向かうのだ。
さらば・いななけ
アイドルといえば、ハイセイコーはジョッキーの増沢末夫をアイドル歌手にしてしまった。
ハイセイコーの引退が決まった1974年末、ラストランの有馬記念を前に、歌・増沢末夫騎手、作詞・小坂巌(アナウンサー)で制作された『さらばハイセイコー』。
どれだけ売れたかはなぜか諸説あるようで、27万超から50万枚以上説まであるが、野口五郎や山口百恵を向こうに回してそれだけ売れれば、もう押しも押されもせぬアイドル。
それから4年が過ぎ、ハイセイコーが勝てなかったダービーをカツラノハイセイコが勝ったことで、『いななけカツラノハイセイコ』がリリース。
「見てくれこの脚」と、杉本清がテンポイントの末脚を称えて実況した名フレーズをさりげなくパク……盛り込み、カツラノハイセイコに騎乗したこともない増沢末夫が歌うこのレコードは、7万枚を売り上げた。
アイドル……?
体調不良
カツラノハイセイコは、ダービー後の長期休養など結構体調不良があったらしい馬だけれど、それ以上に鞍上が大変だった。
3歳では福永洋一で2勝をあげてクラシックまで乗ってくれるかと思ったら、彼が大事故に見舞われる毎日杯がこの年の3月。
代わって松本善登騎手を背にクラシックを走り、ダービージョッキーの栄光を贈るも、今度は彼が体調を崩し、肺がんの診断を受ける。そのまま回復できず、年末に亡くなってしまった。
ふたりも主戦ジョッキーが乗れなくなったダービー馬。なんとも不運だ。
でかい親父と小さい子供と超でかい子供
カツラノハイセイコは、大体450kgくらいの牡馬にしては並のサイズの馬だった。
親父のハイセイコーはでっかい馬で、デビュー時から500kgあって、走りながらまだすくすく育って、引退時には540kgになっていた。種牡馬やってた頃は650kgまで膨らんだとか。
今でこそ500kgくらい当たり前だけど、競走馬も年々大型化しているので、70年代のこの大きさは実に雄大に見えたと思う。
ハイセイコーの子は親父似の雄大な馬たることを期待されたのに、意外に小柄な子が多く、期待外れと思われたそうな。
ところが初年度から、小柄なカツラノハイセイコがダービーを勝った。こりゃスター二世もよく走るぞと、内国産種牡馬不遇の時代でも安定して50頭以上集める人気種牡馬になった。
その後、GI勝ち馬も2頭、重賞馬も多数出て、かなりの成功を果たした。
結局、ハイセイコーの子は小さめに出たほうがよく走ったようだ。
皐月賞馬ハクタイセイも450kgくらい。エリザベス女王杯を勝ったサンドピアリスは410kg。
芝ダート両用で重賞3勝したライフタテヤマは大柄だったけど、古馬になっても500kgそこそこだから、父親ほどではない。
でかい親父以上にでかい息子はいないのかと思ったら、京阪杯を勝ったマルカセイコウがめちゃくちゃでかい。
勝った京阪杯はもう凄まじい不良馬場で、他がみんな足を取られてぐずぐずになってたところを568kgの馬体で逃げ切った。
現在、JRA重賞勝利の最大馬体重記録がサトノティターンのマーチステークス・572kg。はっきり裏が取れないけど、多分更新前の記録の持ち主じゃないかな。
※調べ直したところ、1986年京王杯スプリングカップを570kgで勝ったトーアファルコンが次点。
勝ったときの最大馬体重は、新馬戦の582kg。
サトノティターンが勝ったときの最大馬体重は、ブラジルカップの574kg。ここでならマルカセイコウが勝っている。
ちなみに、君子蘭賞を勝ったときの560kgが、マルカセイコウの最小勝利馬体重かつ最小出走馬体重。
560kgは、ヒシアケボノがスプリンターズステークスを勝った、GI勝利馬の最大馬体重。
「なんだぁ大男だと聞いていたが、小せえじゃねえかオレより」という原哲夫の雑魚キャラが思い浮かんでしまう。
種牡馬カツラノハイセイコ
カツラノハイセイコはもちろん種牡馬入りしたけれど、今と違って、トップ種牡馬とは輸入馬だった。日本競馬の始まりからサンデーサイレンスまでずっとそうだった。
輸入種牡馬の子である内国産馬も、トップ10くらいの成績を上げる場合もあることはあった。ハイセイコーも一番良い年で6位。
ハイセイコーからカツラノハイセイコが、トウショウボーイからミスターシービーが、シンザンからミホシンザンが、シンボリルドルフからトウカイテイオーが出るなど、二代に渡る活躍馬は時々は出る。
しかし内国産3代目の活躍、となると、当時はまず期待されないことだった。
カツラノハイセイコの子まで活躍するのは、さすがに苦しいだろうと。
そういうわけで、いかにダービー・天皇賞を制したカツラノハイセイコといえど、名門牧場で名牝と配合される立場にはなれず、日本軽種馬協会に買われて青森で繋養されることになった。
昔はけっこう青森産の名馬もいて、トサミドリやヒカルメイジ・メイジヒカリ兄弟を出した盛田牧場とか名門もあったけれど、80年代半ばとなると主流は北海道に移っていた。
やはり主流から外れた馬産地ではどうしても肌馬の質も落ちてしまい、特に目立った産駒もなく忘れられていった。
……というほど悪くもない結果が出たのが競馬の面白いところ。
宇都宮競馬の英雄・栃木三冠馬カネユタカオーが出た。
タケユタカの代表産駒として一部で知られる。タケユタカはキタサンミカヅキの四代母でもあるので、ミカヅキの活躍からタケユタカを思い出す人も増えたとか。
宇都宮競馬は厩舎と競馬場が同一敷地にないので、公道上を曳いて歩いて移動していたのだけど、95年にトラックにはねられるという惜しい最期になってしまった。
宇都宮競馬では、すぐにカネユタカオー追悼特別というメモリアルレースを作って、それを次世代の英雄ブライアンズロマンが勝った。
翌96年はカネユタカオー記念になり、これもブライアンズロマンが連覇。
97年から重賞競走として開催され、ベラミロードやカヌマオペラオーなど宇都宮を代表する強豪が勝つレースになった。血は残らずとも名は残って、名馬の戦績を飾っていった。
他にも、東京記念を勝ったテツノセンゴクオーもいる。
種牡馬入りしていて、カツラノハイセイコの、ひいてはハイセイコーの最後の直系種牡馬になるかと思わせたけど、どうも配合相手が見つからずに死んでしまったようだ。
ユウミロク
カツラノハイセイコは中央でも重賞馬を出した。
ユウミロクは83年、カツラノハイセイコの初年度産駒として生まれるも、母方の近親にもこれという馬はなし、母の父もインディアナで悪いとはいわんけど古い地味な血統で、抽せん馬として世に出ることになった。
これがオークスで大駆けして2着に入った。勝ったのが三冠牝馬メジロラモーヌ。
古馬になってもうひとつ大駆けして、父内国産馬限定・カブトヤマ記念で重賞制覇。
しかもユウミロクは、地味な血統にも関わらず、母として重賞馬を3頭送り出す。
ラグビーボールとの間に92年に生まれたユウセンショウは、ダイヤモンドSを連覇して目黒記念も勝った、左回りが得意な渋いステイヤーだった。エプソムカップでマーベラスサンデーの僅差2着に突っ込んだこともある。
ジャッジアンジェルーチとの間に93年に生まれたゴーカイは、中山グランドジャンプ連覇、障害重賞4勝の名ジャンパー。
5億稼いだ上、障害馬としては異例の種牡馬入り、しかも阪神スプリングジャンプを勝ったオープンガーデンを出した。
さらにラグビーボールとの間に97年に生まれたユウフヨウホウも障害で走り、中山大障害で兄のゴーカイを抑え、単勝万馬券の大駆けをかました。
ユウフヨウホウのひとつ下の弟マイネルユニバースも、障害重賞で連に絡んでいる。
ユウミロクからカツラノハイセイコの血を引く馬が続くかな、と思ったのだけど、残念ながら、2010年に生まれた孫が最後で、その先は途絶えてしまったようだ。
今もカツラノハイセイコの血を引く馬
ユウミロクの子孫は途絶えたものの、他の牝系にカツラノハイセイコの血は残っているようだ。
岩手競馬で現役のキタグローリアスは、母の母の父にカツラノハイセイコを持っている。2022年にまだ五代血統表に漢字が残ってる、やけに血統の更新が遅いファミリー。
これは兄弟馬はいないらしい。
それから母の父カツラノハイセイコのキザキノサインという繁殖牝馬も、何頭かの産駒を競馬に送り出している。末子のラフォーレバランは現役。
おそらくこの2頭が、競馬の世界では最後のカツラノハイセイコの血を引く馬のようだった。正直どちらも成績はふるわない。
キタグローリアスは牝馬だから、もし繁殖に上がれればもう少し続くのだけど、なかなか難しいか。