旧町名継承碑めぐり、3回目。
矢継ぎ早にやってる感じだけど、なに、近所から巡っているだけで。とりあえず浪速区のコンプリートを目指すぞ。
目次
訪問記2月10日
大国町の大阪中華学校でやってた大阪春節祭を冷やかして、それからぶらりと。
なんばの西側のエリアにいくつか旧町名継承碑の存在が確認されているので、現地チェックに行ってみよう。
西神田町(浪速区)
JR難波駅からまっすぐ南に行くと、浪速公園という大きめの公園がある。汚いけど。
大阪維新は、天王寺公園や大阪城公園は派手に整備して自慢するのだが、浪速公園くらいの規模だと草刈りも掃除も十分されてないのだ……。
さておき、この公園の奥の方、南西側の隅に西神田町の碑がある。
現在の住所では塩草一丁目一番。
一応出入り口のすぐそばなんだけど、公園の裏口みたいなところだ。大通りに面したところではなくて、なんとも目立たない。
あんまり碑に情報量はなくて、町名は旧村の字名に由来するというだけ。
とくに近隣に神田という地名の施設なども見えない。公園は浪速公園、中学校は難波中学校、小学校は塩草立葉小学校。もしかしたら、浪速公園と中学校でほぼ全域だったりしたのかなあ。
ちなみに、司馬遼太郎が生まれたのが西神田町。
通っていた小学校も、当時の難波塩草尋常小学校、現在の塩草立葉小学校だ。
しかしこのへんで生誕地アピールは見たことないなあ。多分戦争で焼き払われた土地だし、現在の整然とした町割りはつまり、昔の痕跡がほとんどないのか。
東神田町(浪速区)
で、東神田町の碑は、なんというか、ほんとに何の目印もない路上にあるな。
現在の住所では、元町二丁目13番。
写真に写っている建物が、難波元町西会館。地元の集会場みたいなものだろう。
浪速公園の南東角から、旧JR関西本線の線路跡に作られた公園を横切って東に渡り、ちょい北に行ったところに見えている。
碑文も西神田町同様に、特に情報量なし。
町域は、碑から南の方に伸びていた痕跡は見つかった。
JR関西本線の線路の東側をちょっと南下すると、鷗町公園がある。そのへんは、東西に鼬川が流れていた。
その鼬川の北岸が東神田町、南岸が勘助町で、それを結ぶ勘助橋という橋梁があったようだ。(リンク先のサイト、Googleで直接ひっかかって見つかったもので、どういうサイトかわからない。トップページもなかった)
それからイワセ・エスタという会社があるのが地図で見えるが、ここについて、かつて昭和初期にフジハト牛乳というのを扱っていた会社だったらしい。
リンク先は「漂流乳業」という、古い牛乳瓶からその牛乳屋の歴史を追求しているサイトだった。すごい読み応えあるぞこれ。
鷗町一~二丁目(浪速区)
鴎町公園という名前の公園があり、碑もそこに。
住所は敷津西一丁目七番。
碑文には、町名の由来の記載自体がない。
西神田町は司馬遼太郎を生み出したが、こちらは折口信夫を生み出したところで、この公園内に碑がある。
わかってると思うが、折口信夫はノブオではなくてシノブと読む。常識。
鷗町はカモメチョウじゃなくカモメマチ。これは知らなくても仕方ない。
この公園内に勘助橋跡の碑もある。
住宅しかない街の地味な公園なのだけど、ここには色々ある。
三島町(浪速区)
マックスバリュ塩草店のすぐ北側、塩草公園の南側にある。
住所は塩草二丁目八番。
碑文によれば、旧木津村の一部だったときにこのあたりが三石島と呼ばれていて、それが三島町になったとのこと。石どこに消えたんや……
マックスバリュの建物、外見上わからないけど、毎日牛乳(日本酪農共同)の本社があるようだ。毎日牛乳のビンは子供の頃に給食で出てたような覚えがあるな。
小田町(浪速区)
芦原橋駅の北東側、塩草二丁目交差点の北東側。
関西電力の芦原橋変電所から、ケンタッキーフライドチキンの方を向けば見つかる。
碑文によれば、難波村の田畑地域だったことが由来とのこと。
さっきの塩草公園の北側に、今でも小田町保育所というのが残っている。
それ以外はこれといって、何かあったという情報は見つからない。まあ田畑地域といわれてしまうと、そりゃ田畑しかなかろうなとも思う。
さて今回は以上で。