堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

貝塚市の城跡歩き

 なんだかすっかり、行き慣れた公園で花の写真撮ったりばっかりしてたので、知らないところに徘徊に行く機会が減っていた。

 今日は久しぶりに、貝塚市水間鉄道沿線に見られる城址群をいくつかめぐってきた。

 

 

積善寺城

 まずは、JR阪和線和泉橋本駅へ。
 20年前から阪和線使って何度も通過していった駅ではあるけれど、降車したのは多分初めてかと思う。

 下りたあたりは、橋下という集落。

 

f:id:mubouan:20171225212926j:plain

 さて、積善寺城というくらいだから、お寺が城塞化したとかかなあ、と思って、Googleマップによると、今は妙教寺というお寺があるところに印がついている。
 で、妙教寺に来てみたわけだが、この通り、どう見ても観光寺院ではない。周囲も軽自動車すら厳しいような細い道が通る、古い感じの住宅地だ。
 ちょっと北にも安楽寺という寺があって、そこが本丸だという話も散見される。

 かつては、北側を流れる近木川に沿って、この橋本集落あたりをまるっと城にしていたのだろう。
 川を渡る橋のあたりに積善寺城の看板があったらしいが、知らんとちょっと気付けないな。

 今となっては、特になにか遺構があるとか、城があったと感じられるような場所ではなかった。

 

 およそ戦国時代的に目立たない泉南地方において、この近木川沿いは比較的華やかだ。
 和歌山から雑賀衆根来衆が出張ってきていて(要するに泉州にまともに土地を統治できる勢力がなかった)、秀吉の紀州攻めに抵抗する拠点が、この近木川沿いに多数作られた。
 岸和田城には秀吉方の中村一氏が入っていた。

 一応、この近木川沿いの根来衆勢力の拠点がこの積善寺城で、千石堀城などは支城だったらしい。
 一万近い兵が篭もるようなこともあった堅固な城だったらしいが、まあ、街道沿いの便利なところゆえに、開発の波にやられたようだ。

 

千石堀城

f:id:mubouan:20171225215543j:plain

 寒いながらも曇り空が晴れ、日を浴びるとそこそこ暖かい中、南東方向への広い道を歩いて行く。

 地図によると、貝塚こすもすの里という施設のある丘に、千石堀城がある。
 こすもすの里入り口のロータリーから、うっかり車道を奥に入っていってしまい、かなり遠回りをしてしまった。一応そのまま行って、市立貝塚養護学校の跡地門前で右折して、山に入っていけばたどり着けた。(Googleマップにもその道は書かれている)

 

f:id:mubouan:20171225220303j:plain

 未舗装ではあるけれどハイキングコースっぽくて、道はちゃんと整備されていた。
 入り口にロープ張ってあったけど、車の誤進入防止だよなー、ということにして行ったが、特に歩いて不味い雰囲気はなかった。と思う。(私有地になってたりしたらあれだが)

 途中に溜め池っぽいのが見えたり、道端に「イワヒメワラビの群落」という説明板があったり、気がつけばヌスビトハギにくっつかれてたり。

 

f:id:mubouan:20171225220519j:plain

 で、発見した城跡を示すものがこれ。
 道端に、放り捨てるように置かれていた、へし折れた石碑。反対側に大正十一年かな、制作年らしいのが彫られていた。

 なんか丘を登った頂上っぽいところに案内看板が立ってるらしいのだけど、私が行った時には、道がはっきり整備されていたから道を外れるのが難しい感じで、どこからそこにアクセスするかわからなかった。
 結局道なりに歩いていったら、こすもすの里のロータリーのところに出てきちゃった。

 石碑の周りは、特にこれといって城の遺構と感じるような地形は見当たらず。もしかして堀切なのかなあ、と見えなくもない窪地があった程度か。
 烏帽子形城とか明らかに完全に城っていう形してたもんだが、そういう雰囲気はなかった。

 

 千石堀城は、この近木川沿いの根来衆最大の拠点だったようで、かなり激戦が繰り広げられたようだ。うぃきぺにも結構記載が詳しい。

 まあ相手が悪くて負けるのだけど、なんか筒井順慶が放った火矢が火薬に引火して爆発炎上して落城したらしい。
 まあ根来衆だから鉄砲の火薬はかなり持ってただろうし、あながちウソでもないんだろう。

 

高井城

 千石堀城前の道を東方向へ道なりに、近木川を渡って水間鉄道の名越駅あたりに向けて進む。

f:id:mubouan:20171225221955j:plain

 ちょっとした公園のようなところが、高井城跡。
 なんだかちょっと高台になっていて、城っぽい感じはある。しかしこの高台だけだと小さすぎ、どこまで城域だったのかはよくわからない。

 ここではやっと解説看板を見れた。

 明治41年(1908年)までは高井天神社があったが、これが明治末期の合祀政策で整理されてよそに移された。
 高井天神社は古くからあるようで、平安時代の瓦なんか出ていて、神宮寺もあるような神社だったらしい。その神宮寺が、紀州征伐に対抗するための出城とされたのが高井城。
 農民200人が篭って、福島正則に落とされた。

 

 あとは駅もすぐ近くなので帰ろう……と思ったが、公園からすぐ駅に行ける道があるように見えて無い。ぐるっと反対側に廻る。

f:id:mubouan:20171225222710j:plain

 別に水間鉄道なんて何度も乗ってるのだが、一部設備がきれいになってる気がする。最後に乗った時こんな駅名標識だったっけな。

 そういえばこの、車両下についてるバンパーみたいなのなんだろう。

f:id:mubouan:20171225222807j:plain

f:id:mubouan:20171225222814j:plain

 車両は何も変わっていない。
 というか吊革すら変えてないから、東急から払い下げられてそのままBunkamuraの広告が入っている。
 関西の中島みゆきファンにとっては、Bunkamuraシアターコクーンが「夜会」をやってたところだとしか知らんのだが。

f:id:mubouan:20171225222949j:plain

 貝塚駅帰着。