堺風の頭部

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トルデシリャス条約読み物

大航海時代II|オンラインコード版

大航海時代II|オンラインコード版

 

 久しぶりに大航海時代2なんて遊んで、15世紀の大海原に思いを馳せていると、ふとトルデシリャス条約について思い出すのだ。
 なんか好きなの。トルデシリャス条約。

 よくトルデリシャス条約とか書き間違えてる。気持ちはわかる。つい知ってる単語まぜてしまうの。
 トルデシャリス条約も見かけるな。カタカナ語としてトルデシリャスってなんか発音しにくいし。
 スペイン語でTordesillasね。

 大航海時代で最も重要な出来事のひとつといえようこの条約について、少し調べてみた。
 調べたといってもちゃんと学究的にやったんじゃなくて、うぃきぺの複数記事をあわせてまとめる程度だけれど。

(なお、大航海時代2にはトルデシリャス条約は特に登場しない。大航海時代3では、実にタイトな制限事項として機能する) 

 

 私がトルデシリャス条約が好きなのは、書き間違いだけじゃなくて、どうも、ポルトガルがやらかしちゃってるように見えるところ。
 今でも南米は、ブラジルがポルトガル語で他がスペイン語だけど、それってのも、この条約でブラジルだけポルトガル領になったのが始まりだとか。
 なんでそんな、南米の先端だけしか取れないような線引きをしちゃったんだろうと。

 それで、ちょっと何で聞いたか記憶にないんだけど、「条約締結当時、今のベネズエラからブラジルにかけての北岸の海岸線が、もっともっと東に伸びていっていると思われており、東にも十分に取り分があるだろうと予想されていた」というような話も聞いたことがあった。
 その説でいえば、海岸線は予想を外れて南西へ折り返してしまい、哀れブラジルの取り分は先っぽだけ、そんな条約を結んじゃったポルトガル王は顰蹙を買ったりしていそうだ。

 このあたり、どうだっただろうか。
 時系列順に追いながら、確かめてみたい。

 

~1494年 条約以前

 500年以上続いたレコンキスタが完了に向かい、とりあえず落ち着いてきた15世紀のポルトガルとスペイン。
 しかし落ち着いてみれば、ヨーロッパの先っぽイベリア半島、どうも立地的に旨味がない。
 北海ではハンザ同盟が、地中海ではオスマントルコヴェネツィアが盛んに貿易をやっていたけど、どっちの恩恵も大して受けられない。はっきりいって田舎。

 それで、じゃあ海からインド行って東方の珍しいものを直接仕入れだ、と志したポルトガルとスペイン。
 ヴェネツィアと仲が悪いジェノヴァの商人からの投資も入ってたらしいのだけど、西アフリカの開拓が進み、金とか象牙とか奴隷とかを直接仕入れて巨万の富を得る成功例が出てきて、航海ブームがやってきた。

 コロンブス、というのは英語読みなので、大航海時代の話をするときはスペイン語風にクリストバル・コロンというと通っぽい。ジェノヴァ人だから、イタリア語でクリストフォロ・コロンボでも。
 ともかく、コロンがトスカネリに「地球丸いしインド意外と近いで」と唆され、スペインのフェルナンド王の援助を得て、インド直行を目指して1492年に出発。
 当たり前に遭難して全滅する時代、海岸線を離れて西に突き進むなんて無茶苦茶だが、なんとコロンは翌年帰ってきて「西いったらインド行けたぞ」という。

 

1494年 トルデシリャス条約締結

 開拓が進むにつれ、ポルトガル・スペインでばちばち開拓合戦をやってたら喧嘩になるので、条約結んで利権を分けようぜ、という話になってきた。

 1481年にすでに、カトリック教会の教皇から「カナリア諸島より南で発見された土地はすべてポルトガルのもの」という回勅が出ていた。
 それじゃスペインの取り分が何もないが、かといって教会を無視できるような時代でもない。

 1493年、コロンがアメリカ(インドと思ってたが)を発見して帰ってきたときには、教皇がスペイン出身のアレクサンデル6世になっていた。
 で、「カナリア諸島カーボベルデの西100リーグ(約480km)より東はポルトガル、西はスペインにしよう」という、スペインに西方を独占させるようなことを言い出した。その線を教皇子午線という。

 しかしポルトガルからすれば「西に一切触るなって無茶やろ、ちょっとは回せや」と思いもするわけで、ポルトガル王がスペインに直接交渉して、1494年に締結したのがトルデシリャス条約。
 分割線をカーボベルデ西370リーグ(約1770km)まで移動させることにした。

 

その270リーグに何が?

 教皇子午線からトルデシリャス条約で、西に270リーグ、分割線が移動した。

 

 試しに、トルデシリャス条約の分割線である西経46度37分あたりにピンを立ててみた。ちょうどグルビ川の河口あたりだ。
 カーボベルデは、今のセネガルの沖にある。まあ大体アフリカの島嶼部まで含めた西端というところ。

 

 しかし、その分割線を西に動かしたことに、なんか意味あったのだろうか。

 コロンが第一回航海で、サンサルバドル島(今のバハマ)、南にいってフアナ島(今のキューバ)、イスパニョーラ島(今のハイチとドミニカ)を発見してスペインに帰ってきた。
 このあたりは、教皇子午線より遥かに西だし、トルデシリャス条約で西に線を移動させても全く関係ない。

 この時点で、コロンが見つけているのは島嶼部だけ、「他にも多数の島がある」ということには気付いていただろうけど、北米・南米大陸は認識していなかった。
 コロンはその後も島ばかりだと思ってたみたいで、三回目の航海で、1498年に今のベネズエラオリノコ川を見つけて、その川が真水だったことから、「こんな大きな真水の川ができているからには、ここは小さな島じゃなくて大陸だ」とやっと認めたくらい。
 確かにカリブ海で船に乗ってても、大陸といってもフロリダ半島やらユカタン半島やらがまず目に入ってしまって、島と誤認するかも。

 コロンが第二回航海でアメリカに行ってる間にトルデシリャス条約が結ばれるから、線引きを動かすに当たっての情報は、第一回のコロンの航海によるものだけだと思う。
 だから、南米大陸北米大陸も、あるとさえ知らずに条約を結んでいるわけで、「ブラジルを取るために線を動かした」というわけではないはず。

 アフリカ側については、1488年にバルトロメウ・ディアス喜望峰を発見してポルトガルに帰還している。海岸線が北上しているからそのまま行けばインドに行ける、と予想されていた。(ヴァスコ・ダ・ガマが実際にインドまで行くのは1497年出発・1499年帰還なので、まだ本当にそうかは不明ではあるけれど)

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 そうすると、この程度の情報で分割線の協議をしたっぽい。
 私が聞いていた「ブラジル北岸が東に伸びてると思い込んでいた説」は、当時南米大陸自体を知らないだろうから、何かの間違いか。

 海しかないようなところで、ポルトガルは何にこだわって動かしたのか。スペインが「どうせ海しかないだろうからいいよ」と承認したならわからんでもないが。

 

 アゾレス諸島ポルトガルから真西の海上)がどっちに入るかの差はありそう。エンリケ航海王子がずっと前に発見していた島で、教皇子午線で決まったからとスペインに取られるのは納得いかんかも。
 しかし、教皇子午線は既存領土を割譲せよとまでいうものだったのかはちょっと疑問だ。それこそ揉める。今後新規に見つけたところは、という話じゃなかろうか。

 あとは、教皇子午線だとかなりアフリカ寄りだけど、トルデシリャス条約だとカーボベルデからコロンの見つけた島との中間点くらいに見える。
 アゾレス諸島をすでに見つけているわけだから、大西洋にいくつも島が散在しているだろう、という予想はあったかもしれない。コロンも行って帰ってきただけだから、海の上で島を探せた範囲もごく限られる。
 島が東寄りで見つかったらポルトガルにくれ、という条約っぽいかなあ。

 

1500年~ 南米大陸の発見

 大西洋に島が散在しているかも、というポルトガルの予想は外れた。地図を見ての通りで、島らしいものはない。
 では南米大陸はどうか。

 コロンがオリノコ川に気付いて「これは大陸だ」と認めたのが1498年。
 1499年から、アメリゴ・ヴェスプッチ、アメリカという地名の由来になったあの人が、南米北岸の探索を行った。コロンの気付きも合わせて、このときにアメリカに大陸があると認められたのだろう。
 ただ、どこまでその大陸が続いているかはまだ不明だった。さらにいえば、そこはインドかアジアだと思われていて、新大陸だという認識もなかった。

 

 1500年に、現在ブラジルと呼んでいるあたりにたどり着く人が出るのだけど、これがふたりいるのにふたりとも「漂着した」。
 漂着しちゃっているので、以前アメリゴ・ヴェスプッチが調べていた大陸から陸続きなのか、単なる島なのか、はっきりしなかった。

 一応、先に漂着したのは、スペインのビセンテ・ピンソン。1500年の年明け早々に、大体ブラジルの東端あたりにたどり着いたようだ。
 そこから北に、アマゾン川の河口あたりまで探索したそう。元々南米大陸を探索するつもりで来ていたので、「ブラジルの先まで陸続き」と認識はできたのかもかもしれない。

 同じ1500年の4月に、アフリカを回ってインドに向かっていたポルトガルカブラルが、カーボベルデから誤って南西に突き進んで、現在のブラジル南部、ポルト・セグロあたりに漂着した。
 ピンソンよりさらに南寄りに漂着していたこともあり、既知の南米大陸とつながっているところとはわからなかった。当人は島だと思って「ヴェラクルス島」なんて名付けて、トルデシリャス条約に従って領有を宣言した。

 カブラルはインド行きが目的だったので、さほどヴェラクルス島の探索は進めずに、東に戻って喜望峰を周り、無事インドに到達してからポルトガルに帰った。

 

 で、カブラルが見つけたところは、島というけどこれ陸続きじゃないか、と思ったポルトガル王。
 南米探索に実績あるアメリゴ・ヴェスプッチをスペインからヘッドハントして、もっと南米を探索させた。
 カブラルの見つけたあたりから南へ行ってみて、次の航海ではさらに今度は北へ行って、陸続きであることを確認した。南米大陸東岸を行けるところまで探索したことになる。

 彼は南緯50度あたりまで南下したのだけど、アフリカの南端は南緯35度くらい、アジア南端もマレー半島は赤道直下だし、あまりにも南に続きすぎ、ということで、「あそこはアジアやインドではなく新大陸だ」と発表されたのが1507年のことだった。

 ちなみに、ポルトガル人がマラッカにたどり着いたのが1509年。ディオゴ・ロペス・デ・セケイラという人物の艦隊だけど、ウィキペ日本語版に記事がない。マラッカ王国の記事に記述あり。
 1507年だと、マレー半島が赤道直下だとは、ポルトガル人はまだ直接確認していないっぽい。
 でもまあ、アメリカと違ってインドやアジアは、以前からイスラムや中国の船団が行き来していたから、情報はあっただろうと思う。 

 

 そういえば逆に、ポルトガル人が実際に行く前から「マレー半島というのがアジアでの大陸最南端で、そこはだいたい赤道直下」という情報を、アメリゴ・ヴェスプッチが聞けていることになるな。

 そうすると、コロンやヴェスプッチが見たインドかアジアっぽい大陸に、ムスリムや中国商人の姿も、彼らが立ち寄るべき港町も、胡椒や丁字などの香辛料の貿易も見当たらないことについては、どう思ってたんだろうか。
 ヴェスプッチにとっては、それもインドやアジアではない新大陸だと考える手助けになったんだろうか。

 やっぱり当時の人々の知識レベルを把握するの難しいな。多分私が何か勘違いしてるのだろうけど。

 

トルデシリャス条約はポルトガルの貧乏くじか?

 で、当初の思い込みに戻る。
 ポルトガルがブラジルの先っぽしか領有できない位置に線を引かれたトルデシリャス条約は、ポルトガルにとって貧乏くじだったのか。

 時系列順に確認してみると、「アフリカ寄りに設定された分割線を、コロンの見つけたインド?の島とアフリカの中間あたりに修正させた。何か島くらい見つかるだろうと思ったら、未知の大陸が広がっていて、ポルトガル領になる部分まであった」ということになった。
 貧乏くじどころか、予定より儲けたくらいかも。

 

 ということで、トルデシリャス条約についての私の勘違いがひとつ訂正され、ポルトガルは別にババ引いて居なかったとわかった。