堺風の頭部

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烏帽子形城跡

 バイクもたまには動かさないと腐るな、と思い、一周りしてくることにした。

 せっかくだから電車で行くのがめんどくさいとこ、ということで、河内長野の烏帽子形城跡へ。高野線沿線は、本線沿線民には遠回りひどくって。

 

 烏帽子形城は、楠木正成鎌倉幕府への抵抗のために建てた楠木七城のひとつ、として名前が挙がっている。
 高野街道沿いのいい場所にある小高い山で、いかにも街道を押さえるのによさそうな場所、まあ城も作られそうではある。

 しかし、楠公時代は伝承だけで記録がなく、文献に現れるのは戦国時代から。
 三好と畠山の争いでかなり使われたようだけど、その後はさほど大きな戦もなく、秀吉の紀州攻めにあたって拠点とするために改修された程度。まあ和泉河内はそういうとこが多いけど。
 甲斐荘正治というキリシタン領主が納めていて、その時代にはキリシタンの河内の拠点になっていたとか。彼は家康の下について遠江に移ったが、江戸時代に入って、その子が旗本になって旧領に戻れた。
 しかし旗本が維持するには立派すぎる山城で、1617年に放棄された、とのこと。

 市街地からはかなり近いのだけど、この城がある山が神社の鎮守の森になってたおかげで、城跡が触られずに400年残った。
 昭和30年代に山が公園化され、プールできたり駐車場できたり。でもなんか、ウィキペでは城跡のほうは結構ほったらかしな感じだったような書きよう。
 そのおかげで、2012年にもなってから、城跡が国指定史跡になった。ほったらかされたのが良かったというかなんというか。

 

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 さて、駐車場から案内板を見ると、これが曲輪へと登る道らしい。
 森深いが、この照葉樹林が「新河内長野八景」というのに指定されている。植生はシイ・アカマツクヌギなど。野鳥も豊かとかで。

  まあ道は作られているのだけど、歩きやすいとは言い難いので、足元はしっかりした靴で。
 また、一度目の前をかなりでかいハチが横切ったりもして、運が悪いと襲撃されるかも。冬でなければ、虫除けとか黒い服着ないとかの対応も。

 

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 登っていくと、もうひとめではっきりわかる堀切がある。ここから先は城内だろう。

 

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 主郭を囲う空堀らしいところが、そのまま通路に使われているような感じだった。外側も一段高く、いかにも防御的な雰囲気。

 

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 主郭に上がると、河内の町並みを一望できる。
 方角は北か北北西くらいかな。案内板によれば、ここから東西の高野街道と、竜泉寺城・金胎寺城・高安山城・高屋城・飯盛山城・若江城などがあった場所が見えているとのこと。戦闘的だ。

 ちょっと降ってから晴れが続いたおかげか、空気がきれいあべのハルカスも見えている。PLのあのタワーも見える。

 

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 主郭には、建物の礎石が見つかっている。
 天守閣を建てる時代のものでもないし、大きさも天守には小さすぎる。
 しかし礎石と一緒に瓦が多数見つかっていて、天守とはいかなくとも、何らかの瓦葺きの建物があったと見られている。
 古い山城に瓦葺きの建物、というのは珍しいそうで、天守を持つ城への過渡期のものでは、とのこと。

 三好と畠山の争いの中で建てられたなら、松永久秀が龍王山城や多聞山城より前に、実験的に建てたなんて可能性もあるかもしれない。
 中村一氏岸和田城に入ってから、支城として改修された頃に建てられたとすると、安土城より後だから、城の規模なりに小さく真似して天守っぽく作ってみたとかかもしれない。
 なお、このくだりは根拠なしに私が空想してるだけだから注意。

 

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 主郭はかなり細長く、反対側にもうひとつ礎石がある。つまり何かが二棟建っていたらしい。
 何があったんだろうな。櫓みたいなものか、あるいは武器庫か。

 写真左手に下り坂が見えるが、下りたところは少し開けた腰郭が作られている。

 

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 腰郭におりたところ。もう明らかに人工的な地形。

 

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 下りていきつつ、腰郭と主郭の方を振り返ると、すごくあからさまに城。すごくわかりやすく城。攻め込もうにもルートを決められた上に、さんざん矢を射掛けられる地形。

 こんなによく城らしい地形が残った山城なんて、あんまり多くはなかろうなあ。
 この姿をもって、2012年に、大阪府では70年ぶりとなる国の史跡指定を受けている。

 

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 でもって、城跡の北東側には古墳がある。

 直径17m・高さ3mの小型の円墳で、今のところ外形しか調べていないけれど、昔地元の人が掘ってみて、石室があることは発見しちえるとのこと。
 誰が葬られたかはわからない。1400年くらい前に、古墳作らせられるくらいにはこの河内長野で栄華を誇った人であろうけど、時には勝てないか。諸行無常

 

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 城跡の東側、高野街道に沿って、烏帽子形神社の参道が見える。

 

 神社の創立は不詳。本殿が1480年に建てられたと棟札が出ているとのことで、それよりは古かろうけれども。
 城は城で、楠公が建てたという伝承やら、太平記に「長野城」といわれていたのがこの城じゃないかとか、いつ建ったかははっきりしない。
 お城にくっついた神社だと、鎮守社として勧進されたようにも思える。しかし、神社ができてもおかしくないような山にも見え、神社が先かもしれない。どうだろう。

 

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 でもって本殿は国の重要文化財

 1480年に建てられて、それから江戸時代に領主の甲斐荘正保が修繕したという記録もある。
 最近では昭和41年に解体修理して、建立当時の姿に復原したとのこと。

 祭神は、素盞嗚命、足仲彦命、神功皇后応神天皇。と、本殿の解説板に書いてあった。
 なんで仲哀天皇を足仲彦命と書いて、応神天皇誉田別命と、神功皇后を気長足姫命と書かないのだろう。

 

 あまり期待して出かけた城ではなかったんだけれど、思いがけず面白い城だったなあ。現物の説得力はやっぱり強い。