ネット的に失踪していた古い友人がめでたく発見された。早速、世界征服を企む悪の会合を設けようということになり、日本の中心・名古屋に向けて全国から仲間たちが集結した。
私が体調崩して4時間遅刻する事故を起こしつつ、なんとか合流。
そして我々は昼間っから居酒屋を占拠する、のは悪というよりダメなのでやめておいて、世界制覇に必要な情報を収集すべく「トヨタ産業技術記念館」に向かった。
トヨタ産業技術記念館は、名古屋駅からすぐとはいわないが歩く程度の立地。
豊田市にあるんじゃないの? と思うかもしれないが、それは本社の「トヨタ会館」と、旧豊田喜一郎邸の「トヨタ鞍ヶ池記念館」。
そういうわけで、うっかりタクシーに「トヨタ博物館にやってくんな」とか言ったら長久手まで行かれる。正式名称は把握しよう。
まさか企業博物館に混乱を誘う計略をしかけているとは、さすが天下一企業か。
そして敷地も結構広くて、入り口どこか探してまた迷ったりもした。さすが天下一企業か。
外壁はレンガ造り。窓が物々しい。軍需生産体制になっても攻撃機の銃撃くらいは耐えられる想定だろうか。
94年設立で20年以上経ってるけど、レンガは妙にきれい。最近リフォームしたとかだろうか?
入場料は、後から思えば異様に安い500円。
トヨタグループの博物館という位置づけなので、大きくは豊田自動織機の繊維機械館と、自動車館のふたつがメイン。順路では繊維機械館から。
近代化産業遺産に指定されている、無停止杼換型豊田自動織機(G型)が最初に。織り機の横糸を送る杼(シャトル)を、糸がなくなっても止まることなく自動交換して織り続ける。当時世界一の代物だったとのご自慢。
亜麻色の髪の乙女というけれど、実物の亜麻というのは結構人毛っぽいものであった。
展示はまず、こういった繊維から手工業時代の紡績や織物の話から。
綿花の種類まで気にしたことないなあ。
機械化前の動力といえば水車。わざわざ実際に回していた。囲いの柱と梁はかつての刈谷工場で使われていた杉材だそう。
これは入り口なのだけど、奥方向に長大な機械が続いている。豊田自動織機製作所が(英国製を参考に)作り上げた、実に12工程かけて原綿から糸まで仕上げてしまうやつ。
ミュール精紡機。綿製品主力の日本だと、もっと生産性がいいリング精紡機が使われたが、できる糸はこっちのほうがいいらしい。なんかちょっと連弩みたいな。
リング精紡機はこんな糸巻きいっぱいあるやつ。全体像撮ってなかったな……
紡績から織り機に入って、入り口すぐのホールにもでっかいのを置いてた環状織機。
波打つように動くリングがシャトル代わりに横糸を送ってるんだろうけど、どういうつくりだろう?
冒頭にあった無停止杼換型自動織機もこのへんにあって、杼を換える機構の説明とかがあったけどなかなか理解が及ばなかった。そのあたりの発明特許を英国に高額で売り飛ばすことに成功し、後のトヨタ自動車のための原資が出たそうで。
なんか原田式タオル織機(昭和26年製)というのがあった。
豊田式の自動織機と同じ頃に、大阪では交野の原田元治郎という人物が原田式の自動織機を作り上げていて、それが普及していた。その息子かな、原田元三郎という人が発明したタオルの織り機。
タオルはパイルをつけるから複雑な機構になりそうで、一応案内板に説明あったんだけどよくわからんかった。
タオルといったら泉州だろうということで調べたら、やっぱり泉佐野市に残されていたものを修復してここに寄贈したみたい。
そして現代的なタオル織機。2013年モデル。
このへんになると、シャトルを使わずエアジェットで横糸を飛ばす。泉州でタオル工場に囲まれて育った私が、子供の頃に聞いたような機織りの音とは全く違う周波数の音だ。
実際に動かして見せてもらって、織り上がりたてのタオルをひとつ頂いた。生タオル。
とりあえずものすごいスピードで織られている(パイルはついてない)。見ても何が起こってるのやら、横糸が積み上がっていく様しか見えないけれど。
それから、電子ジャカード装置つきのエアジェットルームが、写真をそのまま織り上げていくデモ。
そりゃ色数と解像度に限界があるから、結果だけでいえばプリントのほうが精密ではあるかもしれんが、織り機がこれをやるのは異常発達した技術感がすごい。
ここまでで一応、繊維機械館は終了。
館内に順路の案内はあるものの、一部は順路から外れていたりもする。じっくり見れば繊維機械館だけでもえらい時間がかかりそう。
次に、金属の鍛造プレスを実演するコーナーがあったり、社史や技術士を展示してたりでワンクッション置く。
このメカ楽団は、どうやら2012年に引退しているらしい。
でもって、自動車館に入る。
やっぱりトヨタもこのへんから始まってるらしい。
しかしどうも、本当に通常の自転車にタイヤごとポン付けするものだったらしい。オフセットしてる駆動輪なんか怖すぎるとか、曲がる時どうするんだよとか、一味がバイク乗りだらけなので総ツッコミ。若い解説のお姉さんを「乗り心地がいいものではなかったようですねー」と困らせる悪党ども。
エンジンより先に、鍛造鋳造や硬度他の検査装置など、材料技術から先に展示がくる。
それから初期の工場を再現したという箱が、中身もこんなんで。
そしてトヨダ初の量産車・AA型のボデー。「今ならあり」「今こそあり」「角ないから衝突安全性も大丈夫」「中身ハイブリッドでもEVでもいい」と賞賛の嵐とは言わないけど風。
アメ車のコピーでやってたからインチで作ってたとか面白い話がうぃきぺから拾えたんだけど、現地でどう書いてたか写真にメモってなかったな。
黎明期の工場を出て2階へ。
これこそまさしく2.5次元じゃないか、というレリーフ。前衛的遠近表現。
2階は建物周縁部に展示があるだけで大きく吹き抜け。なんとも気になる一階の実写展示を、今は見るだけ。
2階では、エンジンはもちろんサスペンション、ステアリング、シャーシに風防ガラスからコンパネに至るまで、様々なパーツ単位での技術の進歩を追える形での展示。
ちょっと車のメカに詳しいくらいでないと掴みきれない、展示のしようは綺麗だけれど内容的にはマニアックな部類じゃなかろうか。
しかし、トヨタのエンジンには音叉マークついたやつが少なからずあるはずだけど、誰一人ヤマハの文字を見たものがおらず。トヨタ帝国主義妥当のシュプレヒコールをあげるヤマハファン二名(うちひとり私)。
でもって、1階に下りる。
近代産業化遺産、さっき工場ごと再現してたAA型。
ちょっと現地の案内に記載が見当たらなかったけど、実は探しても現物見つからなかったから、1986年にもう一度当時と同じものを作り直したやつ。
聞けば、21世紀になってからシベリアで魔改造というか魔修理を繰り返して生き残っていたのが見つかったとか。
観音開きだー。
3.4Lほどのエンジンだけど、出力は65馬力。バイクだったら600ccくらいあれば出せそうな
コンポーネント流用で……というか見るからに似てるけど、G1型トラック。
トヨエースSKB型。AKBとSKEが混じってるようだが、時代的に考えるとあれらはトヨエースから分派したのかもしれない。
直線的な形に板ガラスのフロントウィンドウ、質実剛健の50年代。
セルシオの設計にCADが使われた、という説明と共に、このUNIX端末。もちろん見ればSunのSPARCStationとわかる。俺は詳しいんだ。
しかし初代セルシオが1989年、初代SPARCStationの発売も1989年。ちと時期が合わない。いちばん古いUNIXを代用したのかな。
US model 105という銘板があったものの、ちょっとよくわからない。
初代クラウン。そういえば九州の自動車博物館でも出会ったな。
若い子は知らないと思うが、かつて「いつかはクラウン」というフレーズが流行った。まあ80年代のクラウン7代目のCMだけども。
マイカー時代、車を持つことくらいはできる人も多くなったが、やっぱりカローラやサニーくらいが身の丈。しかしまだまだ経済成長で出世して金持ちになれるかもしれない時代、「いつかクラウンのような高級車を所有したい」という夢を抱けたゆえのCM。
しかし現実的には、ちょっと長い旅行で思い切ってレンタカーを、たまのことだから一番いいのを頼む、と「五日はクラウン」だったりしたのだった。この一文は今考えたけど。
初代カローラ。1966年だから去年で50周年だ。
初代セリカ。だるま。GTがついてるからヤマハの技術が入ってるエンジンのやつ。
初代ばかりが並んでいたが、ここで出てきたコロナは五代目。
そして向かい合わせに置いてあった、この異様なデザインで時代感覚もさっぱりわからないような車が、市販車ではなくて実験安全車ESV。
1970年に、アメリカから「事故っても死なない車」を求めて実験やろうぜと呼びかけがあり、日本でも受けてやりはじめたのがこれ。
トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第2部 第2章 第2節|第4項 トヨタESVの開発
それで、その実験結果を元に安全性を高めて作ったのが先の五代目コロナ。
CADで作られたセルシオ初代。
エスパー魔美に、高畑に「父親が車買うんだって」なんて話を振った魔美が、めっちゃ食いつかれて何の車だと聞かれ、苦し紛れに「セルシオだったと思うけど」と吹かして絶対見に行くと期待されまくり、やってきた車は中古のボロだったというエピソードがあったのが、なんか今でも記憶にある。しかもオチを覚えてない。
他にも製造技術関係やリサイクルなどの展示もかなりあったのだけど、閉館時間が近づいているアナウンスが来てしまった。
そもそも私が来るのが遅かったので入館が3時前、閉館は5時で、2時間で見るには到底足りない内容だった。
最後に、バイオリンを戦争するロボットが2曲やって、それで大体閉館時間ぎりぎり。
一応、創業者の豊田氏に関する企画展示室があったので、それをさっと見て出るくらいだった。凧揚げが趣味だったとか。
退館して、近くの栄生駅(読めない)から名古屋に一駅移動して、さすがに夕方という時間になっていたので居酒屋のテーブル一席を占拠、ビール飲んだり手羽先食ったり味噌カツ食ったりビール飲んだりしながら会議を開くのであった。