堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

「結城友奈は勇者である」視聴記

 定番というようなアニメを少なからず見てないので、基礎教養の一環としていくつか見ている。

 今回は「結城友奈は勇者である」、いわゆる「ゆゆゆ」を見た。
 新作始まるらしいが、この記事で触れてるのは旧作の方。

 こういう記事だから当然ネタバレする。

 

 dアニメストアで色々見てるのだけど、基礎教養ならこれくらいは見ておけよ、という作品があったら、コメントかTwittermixiかなんかで教えてくれると歓迎。

 「ソードアート・オンライン「日常」は観終わってて、「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」「RWBY」「シドニアの騎士」「STEINS;GATE」「GATE」「氷菓」「ユーリ! on ICE」「聖剣使いの禁呪詠唱」あたりを見る予定にしている。
 大体こういうタイプのものは見てない。

 ただ、放送時にスルーしたということは、そもそも好みでないと判断した作品なので、観た結果、あまり良いように言わない可能性は高い。「勧めてやったのになんだ」とは言わないでくれると助かる。
 こちらから、その作品を勧めた人に対して「こんなもん勧めやがって」とは言わない。それは織り込んだ上で聞いてるので。

 

結城友奈は勇者である

 で、「ゆゆゆ」。
 滅亡しそうな終末的な世界で女の子が戦ってるから、こりゃセカイ系の類かな、という頭で見始めた。
 私も以前には、セカイ系ブームをもろに見てきて、「最終兵器彼女」を熱中して読んでたものだった。

 それが今、「ゆゆゆ」を見てると「別に女の子を悲惨な目に遭わせなくていいだろう悪趣味だな」と思えてしまっていた。
 「最終兵器彼女」だって明らかに女の子を悲惨な目に遭わせる話だったんだから、その点でサイカノがよくてゆゆゆがダメとはいいようがない。

 

 その差はいかなるものか、と考えてるうちに、セカイ系について今更再考してしまった。 

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」( セカイ系 - Wikipedia より)

 かつて東浩紀氏が定義したところはこういうものだけれど、その定義からいけば、主人公の少年が存在しないとセカイ系にならない。
 「ゆゆゆ」は、なんとなく雰囲気はセカイ系っぽく見えたけれど、主人公役の少年がいないから、定義上はセカイ系ではないか。

 セカイ系の主人公って、傍観しかできない無能だったりするから、不要な存在にも見える。それで実際省いている「ゆゆゆ」でも、たしかに話は成立していた。
 ただ、見ていて困ったのは、果たしてこの物語のどこに、視聴者として視点を置いたらいいのか、それがわからなかった。

 セカイ系の主人公って、視点の置き場にはちょうどいい。
 「自分は何をする力もないのに、なぜか世界の運命を左右する女の子にただ愛される、ご都合主義の権化」とかぼろくそに言われがちだから、そこに視点を置くというのは、イタいと言われそうなのだけれども。
 とはいえ彼にも、滅亡に瀕したクソみたいな世界の被害者である、という属性はある。

 私はロスジェネだから、まあ世界に対する被害者意識というのは実に強くある。
 最近の若い子が「日本のいい時代を知らない」とかいわれるけど、私らは小学生の頃までいいところじゃんじゃん見せられた上で、成人する前に何もかも失われ、反動で沈んだところに放り込まれてる。滅びればいいのに、と思うけれど、世界って個人じゃ滅ぼせないし。
 そういうわけで、セカイ系の無力な主人公、世界の被害者である彼には、すごくしっくりと自己投影できる。

 

 でもって、セカイ系の物語は、最終的に世界が滅ぶことが多かった。
 私なんかには世界への怨恨があるから、むしろ滅びることこそ重要に思っていたような気がする。
 どうもこう、東浩紀氏の「きみとぼく」の話のせいで、ヒロインと主人公の関係ばかり重視されちゃった気がするんだけど、そっちはおまけじゃないか。

 サイカノはまあ、戦ったり世界滅ぼしたりするのをちせに丸投げしてるタイプの作品ではあって、それをもって「戦いすら女の子に投げる卑怯者」というようなセカイ系批判もあった。
 けれど、じゃあ「腐り姫」とか「雫」みたいな、ゲーム方面のものだとどうだろう。
 ゲームはマルチエンディングだからいろいろなパターンを描けるけど、その中ではしばしば、主人公も一緒になって世界を滅ぼしにかかったりする。
 あるいは、世界を滅ぼす存在になってしまったヒロインと心中することによって、滅亡を止めたりもする。これは世界を救うけど、救われた世界に愛着がないからそこに残る必要がなく、それなら一緒に消えたほうがいい、という話。

 そういうわけで、セカイ系ファンの一部、少なくとも私は、世界滅びろ主義者とでもいうような目線を持ってるのだ。

 

 それで「ゆゆゆ」に戻ってくる。

 「ゆゆゆ」の舞台の世界は、女の子騙して、身体機能を犠牲にさせてまで戦わせ、そうしないと維持できないほど末期的な世界だ。
 滅びろ主義者は、だったら滅んでしまえよ、と思う。
 ヒロインの方が世界より大事、というセカイ系が見せた転倒は、やっぱり偉大だった。こういうの見た時に「いやヒロイン苦しめてないで世界が滅びろよ」と即断できちゃう。

 しかし「ゆゆゆ」の世界はずいぶんタチ悪く構成されていた。
 「勇者」に選ばれたが最後、下りることも許さない。犠牲を強いながら無理矢理に存続を図る世界。実にひどい。
 東郷がそれに気付くものの、「神樹様のおかげで世界は存続できているのだから、感謝して世界を守らねばならない」という常識みたいなのも蔓延してるようで、叛乱を別の勇者に止められる。

 辛うじて世界の滅亡は一旦食い止められたけど、バーテックスは無限に発生するというんだから抜本的解決でない。どうせまたやらされる。
 さしたる褒美があるでもなく、失われた身体機能はぼちぼち戻してやるという程度の補償があっただけ。
 やっぱりそんな世界は滅亡するべきだったんではないか。

 

 「滅びればいいだろ」と思いながら見ていると、友奈とか夏凜は、一体何を原動力にして、あんな酷い目に遭わされながら戦うのか理解できなくなる。
 「世界は救われるべき」という前提は、あまりにも当たり前で、そこに引っかかるほうがおかしいのかもしれんが。
 でもセカイ系作品によって、「ヒロインの方が世界より重視されてもいいのではないか」というアンチテーゼをぶつけられて、私は受け入れたからな。

 まして「ゆゆゆ」では、世界はもう四国以外は全滅しているなんて末期的な状況だと示されてる。
 それだと、「世界は救われるべき」といっても、「無理やろ」と思ってしまいもする。
 それでもなお抗う理由というのは、なんだろう。平穏な日常パートを見せて、その日常を守るためだ、という論法ではあるかとは思うんだけど、それくらいで足りるもんだろうか。

 しかも、視点の置き場になってくれる少年もいないもんだから、滅びかけの世界に対して当事者になれず、他人事に見える。だから余計に「いやもう無理やから滅びれば」と。

 

 というようなところで、物語の筋と私の見方に齟齬があったもんで、まあ、うまく楽しめてはいなかった。
 もちろん、私の見方のほうが平均的ではないことは自覚してはいる。

 

 そういえば、大赦と神樹に叛乱するのが、なんか右翼めいた様子を見せていた東郷だった、というのが、少々興味深い。
 いや、2.26事件は皇道派青年将校が起こしたんだし、それ自体はなんらおかしくない。信じているものに裏切られたと思ったからこそ激発した、むしろ自然なくらい。
 しかし最近いうところの右翼はそのようにはならん感じがして。