blogに記事を起こすタイミングを逃しているけれども、東京にいた9月末あたりに、カメラボディをK-01からK-70に買い換えた。
スクーターで信州経由で大阪に戻った時(1) (2) (3)はDA17-70mmF4とK-70で、DA50-200mmを買った時のボディもK-70だった。
今回は、今手元にあるレンズで一番長い付き合いの、smc PENTAX DA21mmF3.2AL Limitedをつけて、和歌浦に行ってきた。
和歌浦
南海本線和歌山市駅から、たまたますぐやってきた新和歌浦行きバスに乗って終点まで。
しかしゆっくり出発したら到着が2時ちょっと過ぎで、水産物販売店は2時閉店。惜しい。
多分かつては観光ホテルだったのであろう、でも進入禁止なんて書いてある、洒落た感じの廃墟。
すぐとなりに神社があるのだけど、玉垣がみんな東邦荘。地図によると蛭子神社だけど、由緒書きはおろか額すら掛かっていない。手入れされていないわけでもないとも思うのだけど。
さて、和歌浦に来たなら海の景色を楽しむべきところだけど、一応今回は別の目的がある。
和歌浦天満宮
初めてではないけれど、和歌浦天満宮にまずお参り。
この階段を登る。この写真だとちょっとわかりづらいが、石が緑色。和歌山は紀州青石という美しい緑色の石材が出ることで知られている。古い神社などにはよく使われているのだけど、現在は枯渇しそうということで採石禁止になってるとか。
三波川変成帯にそって青石の産地が伊勢・紀州・阿波・伊予と連なってるとかそのへんの話もいろいろあるらしいけれど、私は地質学に明るくないので、下のサイトとかウィキペとか参照のこと。
ちょっとボロく見える楼門だけど、これ1605年に建てられたものだからそりゃ古くて然り。国指定重要文化財なので、きれいに塗り直しました、というようなこともしにくいのだろうか。
上から見たほうがわかりやすいかな。参道が緑色。
わりと珍しいと思うのだけど、末社まで重要文化財に指定されている。小さいお社のようで、天満宮本殿や楼門と同じ頃に建てられたもの。この写真じゃあまり見えないけれど、やはり桃山風の華やかな装飾。
そして本殿。秀吉が紀州征伐で焼いてしまったのを、浅野幸長が1606年に再建した。正面に千鳥破風がついてるのが珍しいポイントとのこと。
神社自体は平安時代中期の10世紀後半に創建されたといわれていて、和歌浦の氏神様。
帰りは女坂から下りてみると、ものの見事に45度の急階段が横から見られた。こらしんどいわな。
紀州東照宮
続いて、すぐとなりにある紀州東照宮へ。近畿圏だとやっぱり徳川は敵なので東照宮はあんまりないので、多分これが近畿圏最大になるかな。
駐車場有料。やっぱり徳川はケチだな。県立武道館が併設されているので、今日もなにか大会でもやってたのか、多くの車と人があった。
ところでこの鳥居はなんでこんな赤錆まみれなんだろう。鉄で作ってるのか、鉄鉱石で作ってるのか……
やっぱり写真ではわかりにくいけれど、紀州東照宮の参道の石も青石っぽい。
写真奥で行き止まりみたいに赤い柵が見えるのだが、そこでなぜか参道が左にクランクしている。城下町の道を、敵兵の進軍を妨げるために曲げるようなもんだろうか。
東京の亀戸天神で聞いた話だと思うんだけど、中国だと亡霊が直進しかできないから、クランクを作って進めなくするように魔除けにするとか、そういう話もあるんだっけ。
ただ、クランクを抜けてすぐ右手に深く下がった池があり、そこに弁天社がある。もしかして、まっすぐ道引いたら池に落ちるコースだったからクランクで辻褄合わせた、とか現実的な話だったりして。
ところで参道左手に、沙也可顕彰碑なんて凄まじいものが建っている。
沙也可って、聖子の娘じゃなくて、朝鮮征伐で加藤清正の配下として朝鮮に渡って、裏切って朝鮮方について鉄砲術まで教えちゃったあの沙也可よなあ。
なぜ、と思ったら、司馬遼太郎その他の説では沙也可は雑賀衆だろうといわれていて、その縁で韓国と和歌山市で町おこしネタにしようと作ったものだそうで。
これはもう、朝鮮征伐の敵方の英雄を持ち上げ、ひいては豊臣を貶める、徳川の陰湿な圧力に違いないな。やはり日本に必要な革命は、民主主義だ共産主義だ明治維新だという前に、徳川の支配を革命する豊臣レコンキスタではないか。死んで400年経ってもまだこんなことしてくる家康の怨念じみた圧力を押し返さねば。
レコンキスタが成ったときにグラナダのアルハンブラ宮殿が陥落したように、関西に豊臣レコンキスタが成る時はこの紀州東照宮が陥落するのだ。
でもって紀州東照宮の参道もまた、こんな急階段。守り固いな……
なんでこんなに拝殿から離れたところに賽銭箱置いてるんだろう、と思ったら、500円で有料拝観ですって。さすが徳川、ケチだな。
そういえば、和歌浦天満宮には「珍しい」と書いていた入母屋造りの千鳥破風、こっちもそうだなあ。まあ、当然ながら東照宮の方が後から建った(1621年)わけで、パクったのかもしれない。(そもそも千鳥破風は他でも見かける気もするんだけど)
ちょっと来るのが遅かったせいで時間が押してるので、今回は社殿拝観はパス。
砲弾を祀ってるのはなんだろう。
まあどう見てもわりと新しい、少なくとも明治以降に西洋砲術が来てからの弾丸だけども、なんだろう。友ヶ島の砲台陣地とかのもんかな。
今頃沙也可顕彰碑なんか建てやがる徳川のことだから、「逆らったらまた大坂城に撃ち込むぞ。ん?」とニヤついてる家康のツラが目に浮かぶような品だ。やはり徳川の亡霊スレイヤーが現れてくれなければ……
とりあえず大坂城に対地ミサイルでも配備すれば呪いに打ち勝てると思うのだが、どうだろうか。
和歌山県公館
通りかかったら「ご自由にお入りください」なんて出ていた。
右手に見える奠供山(てんぐやま)を背に建つ、県主催の行事に使っている施設だけど、月4回の一般公開日を設けていて、それにたまたま当たった。
洋館や茶室もあるが、このあたりの岩がちな地質を活かした庭園が見もの。
中央構造線の方へ盛り上がって行ってるらしい斜めの岩石が、このあたりではそこらじゅうで見られる。
茶室。
あいにくただ公開しているだけで、茶室はしまってるし洋館は電気も落ちてるし入っていいものかどうか、という感じ。いい庭園を楽しんで退去。
玉津島神社
その横には玉津島神社。
聖武天皇が玉津島に来て、それから景色の素晴らしさをよしとして番人を置いて祭祀を行うように定めたのが玉津島神社の始まり……という看板があり、一方で玉津島神社の由緒書には、神代以前の創立ともいう。まあ、信仰が昔からあり、社を建てて祀るかたちになったのが聖武天皇時代、というところかな。
この時に山部赤人が「若の浦に潮満ち来れば潟を無み 芦辺をさして鶴鳴き渡る」の句を読んで万葉集に入り、以後若の浦が和歌の浦といわれるほど歌のイメージにされてきた。
かつては紀の川がここに大きく河口をあけていて、玉津島を含む6つの島があったそう。さっきの和歌山県公館の奠供山もそのひとつ。今は、次にいく妹背山以外は陸地の山になっている。
妹背山
玉津島神社のすぐ向かいに浮かぶ離れ小島へは、橋が掛けられている。
橋自体が和歌山県最古の石橋で、紀州藩初代頼宣が作った。1651年ごろから今でも原型を保っている。
観海閣というのが、海に張り出すように建てられている。かつてはこのあたりは塩田や干潟になっていて、その向こうに遠く紀三井寺と山並みが眺められるいい景色があった。
これも徳川頼宣が建てたのが始まりだけど、ケチなこといわずに近隣庶民や玉津島神社や東照宮などへの参詣人にも開放していたそう。
まあ今では景色も変わってしまい、景色見るなら別の向きがいいかなあっていうのもあり、また、元の木造瓦葺ではしょっちゅう倒れたりしてたそうで、第二室戸台風に潰されたときについに諦めて鉄筋コンクリート造にしてしまった。
一応山なので少し登れるが、登った先には多宝塔が建っている。
徳川頼宣の母は養珠院(お万の方)なのだが、家康の三十三回忌に小石に南無妙法蓮華経を書写してここに奉納した。養珠院が亡くなって、頼宣がここに多宝塔を建てた。
今はなくなっているが、当時は唐門や拝殿もあったらしいから、この島全体が一大寺院みたいになっていたのかも。
雑賀城址
さて、今回は雑賀城址を訪れるつもりでここに来たのだけども。
玉津島神社前の県道151号線を北上すると、すぐ国道42号に合流する。もう少し行って消防署を過ぎたところで公園がある。
公園は児童公園っぽいものだが、奥にいくと弁天社と池、それから山に上がっていく道がある。
城跡は南側だと事前情報があったし、コンクリート舗装が道なりに続いているのでそっちに向かうと、麓の養珠寺というお寺の妙見堂があった。
元々この山が妙見山といわれていたようで、かつて紀の川河口に出ていた6つの島のひとつでもあったそう。
この山の、この妙見堂よりちょっと北側あたりが千畳敷になっていて、そこに城が建ったんじゃないか、ということだけども。
ちょっと北側というのはこのへんだろうか。ハイキングコースっぽく整備こそされてはいるものの、城跡らしいものは見えないな……
ところどころこんな石積みの壁っぽいものがあるのだけど、城の遺構という感じではない。崩れかけているから、新しくもなければ整備もされていない。そして青石。ちょっと何者だかさっぱりわからない。
なんか塔も建ってたんだけど、これなにするもんだろう?
曲輪らしいものも、堀切らしいものも何も見えない、もはやただの山に戻ってしまっている感じ。鈴木左太夫の築いた城だしそれなりに重要拠点だったと思うんだけど、あまり雑賀衆は強大な城にこだわるタイプでもなかったという話もある。もともと大したものでもなかったのかもしれない。
今でもこの山が城跡山と認識されているくらいだから、城があったのは確かっぽいが、記録と伝承が残るばかりなのかな。
弥勒寺山城跡(秋葉山公園)
ちょい北の方にある秋葉山公園がかつて、織田信長の紀州征伐を迎え撃つ雑賀衆の本陣だったという話なので行ってみた。弥勒寺山城、と呼ばれることもあるようだ。
西側麓に五百羅漢寺の墓地と、秋葉大権現堂へと続く道があったのだけど、ここから秋葉山公園に入っていけるかと思い上ってみたがダメで、結局秋葉山公園と県民水泳場の入口すぐそばに下りてきてしまった。
なんか海の景勝地に来てるのに山に何度も登ってる今回、いい加減疲れてしまっているのだが、ここまで来てスルーも寂しいので頑張って上り直し。
あたりはもうすっかり公園化されていて、城跡の雰囲気はない。そもそも大城郭があったというよりは陣地的なものかもしれないが。
山自体のサイズが大きく変わっていないなら、雑賀城の山は小さすぎて大軍は配置できない気がする。こっちなら広さには余裕がある感じ。
顕如上人桌錫所の碑は、明治の1891年に顕如三百回忌にあたって建てられた。顕如が正親町天皇から信長との和議を命じられ、石山本願寺を退去して一向一揆を終結させたあと、一度ここの御坊に移った縁がある。
また、近くにここが雑賀合戦古戦場だとする解説板も置かれていた。それだけ。
日も落ちかけて、今日の散策はここまで。秋葉山からバスで和歌山市駅に戻った。
和歌山市街はすっかりJR和歌山に主導権を握られ、南海和歌山市駅がさびれているのはもうずっと前からなのだが、私がたまに来るようになってから10年くらい、来るたびに少しずつ寂れていく。高島屋が閉店し、スーパーと100円ショップになった。駅地下の飲食店街は、焼肉屋一店だけ残してすべてシャッターが降りていた。
ただ、ロッテリアだけは健在。
今日のカメラとレンズ
smc PENTAX DA21mmF3.2AL Limited、もう10年近い付き合いの愛用品ではあるのだけど。
まあ、元々「四隅まできっちり」とか「鋭い切れ味のシャープさ」とかそういうレンズじゃなくて、少々ゆるい写りのレンズではあるのだけど、さすがにK-70の24MPセンサーにはやや力不足に見えてくる。ちょっとK-70は、画素数もあってレンズに厳しいかな……
これがHD版になると、コーティングが違うだけなのかと思いきや、なぜか画質がずっとしゃきっとしているらしいのだけど、さて。
小さい、軽い、逆光にも強い、扱いやすい万能な画角と、その上でちょっとゆるふわな画質がキリっとするなら無敵みたいなレンズだが、さて、そんなに違うのだろうか……
K-70を使うようになってから、DA17-70mmでもDA40mmXSでも、なぜかよくわからないところでAFを外したりすることがあったのだけど、DA21mmでは今回は発生しなかった。
どういう条件で出てるのかは不明。
K-01は常時ライブビューで使うのに、バッテリーがでかいので電池持ちのいいカメラだったけど、K-70は電池自体が小型化された。
K-01からの乗り換えということもあり、習慣的にライブビューを多用するのだけど、そうすると意外と早めに電池が減る。
もちろん、一昔前のコンパクトデジカメのように、一日使ってる途中で切れる、というようなレベルの弱さではないが、K-01なら「二泊三日なら充電器持たなくて平気」というような強さでもない気がするな。