さて久しぶりに名古屋に用事があり、一泊して翌日はフリーだった。
帰りに寄り道する先を名古屋で会った人に聞いたところ、近江八幡がよいということで。
新幹線使うと速いのだけど、名古屋から米原で新幹線使うのもなんかアホらしいので在来線GO。
とした結果、ちょっと時間足りない感じになっちゃった。
駅から近江八幡城は結構距離があるので、バス使っちゃうのが早い。2kmくらいだから歩けば歩けるけれども。
6番バス停の長命寺行き(経由はどれでもよい)に乗って、大杉町バス停まで220円。ICカード使えなかったから小銭で。
近江八幡は広大な町ってわけではないけれど、かなり見どころが多い。それでいて閉まる時間は午後4時頃。
今回、午後2時ごろからの観光になってしまって、時間が足りなかった。午前中から入っておきたいな。
目次
日牟禮八幡宮
バスを下りたらすぐ、日牟禮八幡宮の参道前。
近江八幡城ができる前からここに祀られていて、伝承では西暦で131年からあるというくらい。日牟禮の名は藤原不比等が和歌を読んだことに由来して、八幡宮になったのは一条天皇が宇佐八幡宮を勧進してから。
祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長足姫尊(神功皇后)・田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神。
近江八幡には左義長まつりがあって、毎年3月15日ごろにやってるとのこと。私はちょうど終わった直後に来ちゃったようだ。
左義長のダシを喧嘩させたり、最後に火をつけて燃やしたりするのだが、この境内に広く空間をとってる感じはそのためかな。
オーソドックスに豪華な感じの社殿ね。
近江八幡城
この時点でもう2時ごろだったので、城跡にはロープウェーで上っちゃうことに。
2時には、もう登る人はまばらで降りる人が満席という状態。城下町を見てから城を観る順番にすれば、空いていていいかもしれない。
往復で880円。ちょっと高いが。
村雲御所瑞龍寺
秀次の産みの母が、秀次事件の後に出家して子や孫の菩提を弔うために、後陽成天皇から寺領を貰って瑞龍寺を建てた。京都にあったんだけど、1961年になって近江八幡城跡地に移された。
本丸北東側の石垣。
城としては関ヶ原以前に廃されてるから何も残ってないんだけど、石垣が存外よく残っている。これは当時モノらしい。
石も不揃い、角の算木積みがあるけど、その石まで割れてしまってる。結構被害が大きい地震(寛文近江・若狭地震とか伊賀上野地震とか)があったりもしてるはずだが、よく崩れてないなあ。
これだけ石垣の隙間から木が育ちきってるのはあまり見たことないと思うのだが、これのおかげで土砂崩れで消失したりせんかったのかな。
写真でちょっとわかりにくいが、凹む形にカーブしてる石垣も、わりと珍しい気がするな。まあ山城だから地形なりに積んだだけだとは思うけれど。
西の丸
八幡山は独立した山なので、眺望がいいところは多数ある。
特に西の丸からは琵琶湖が見える。
左寄りに見えてる丘には、かつて水茎岡山城があったようだ。室町時代には11代将軍足利義澄が都を追われて落ちてきたこともある城。
今は陸続きだけどこれは干拓されたもので、元々は島だったそう。
西の丸ほか眺望のいいところは、なぜかカップル向けアピールが激しく、神戸のあれみたいなLOVEの碑やらいろいろ建ってる。秀次と一の台みたいに一族郎党処刑されるカップルになりたいのだろうか……といらんことを思ってしまう。
城跡はそれほど大きいものではなく、1時間とかからずに見られるだろう。
時間と体力があれば歩いて登山・下山してもいいかもしれないが、ルートはどこからなのかな。南北に長い八幡山を縦走して北に抜けるコースはあったんだけど、それはちょっとハードすぎる。
八幡堀
近江八幡城の外堀として、また街の水運を担うために秀次が作った八幡堀。堀はこのまま琵琶湖まで繋がっている。
今でも実にいい感じの景色を作っている。
遊覧船も出ている。乗り場はかなり東の方で、冬場は貸切運行しかしないらしいので、飛び入りで乗るのはちょっとむずかしいかも。
川べりまで下りられるのも嬉しい。夏場は涼やかであろう。
近江兄弟社とヴォーリズ
さて、あのウィリアム・メレル・ヴォーリズは近江八幡に住んでいた。
そしてメンタームの近江兄弟社は、ヴォーリズが創設したキリスト教伝道団が元だ。ヴォーリズが輸入代理店になることで、日本にメンソレータムが渡来した。
近江兄弟社メンタームは、現地生産していたメンソレータムの権利が切れた後、製造設備をそのまま流用して自社製品として売り出したもの。一応少しレシピが違って、色も違う。
今でも近江兄弟社やヴォーリズの名前はそこらじゅうに見られ、「ヴォーリズ学園」なんて学校があったりもするくらい。
アンドリュース記念館
1907年、近江八幡YMCA会館として建てられた。資金の出処がハーバード・アンドリュースという人だったのでこの名前に。35年に現在地に移築。
一時はヴォーリズが住んでいたこともあるそうで、その部屋が保存されてるとのこと。
現在は二階でカフェをやっているので、客として中に入ることもできる。
池田町洋館街
池田町というところに、ヴォーリズが設計した洋館がまとまって残っている。
これはダブルハウスという、近江ミッション(近江兄弟社の前身)の社宅として建てられたもの。
早稲田大学で教鞭をとっていたウォーターハウス氏の居宅だった。アメリカ開拓時代のコロニアルスタイル。
今は近江兄弟社の所有で「ウォーターハウス記念館」とされている。内部は特別な時しか公開しないみたい。
ウォーターハウス邸と敷地が繋がって見える、吉田悦蔵邸。
ヴォーリズと、建築家のレスター・チェーピンと、それから吉田悦蔵の三人で建築の仕事を始めた。ヴォーリズ建築生みの親だ。
外から見る分には大丈夫だと思うけど、もしかすると今も吉田氏の子孫の方の所有とか、ひょっとすると住宅として使われてたりするのかな。
旧八幡郵便局
一目見るだけでかっこよすぎる郵便局。文化的な町並みってのはいいものだ。
今は骨董品店が入ってるみたいだけど、あいにく来たのが遅くて閉店後だった。近江八幡は基本的に4時で店が閉まると思ったほうが。
旧ヴォーリズ住宅
わりと質素な感じにも見えるが、ヴォーリズが後半生を過ごした家。
煙突があるのが洋風の気配かな。それ以外は、なんだか昭和の頃にたくさん建てられた建売住宅みたいな作りにも見えるっちゃ見えるのだが、むしろヴォーリズがこういうスタイルの元になってると考えるべきか。
現在は近江兄弟社一柳記念館となっている。公開せずに財団の事務局とかにしてるようだ。
そういうわけで、まちなかにヴォーリズの建築がゴロゴロ転がってるという、なんとも羨ましい町並み。すげえ。
旧近江商人宅など
八幡市に伝統的建造物群保存地区があり、そこには多数の商家が並んでいる。
あるところはこの風景、あるところはヴォーリズの洋館。
町割りは秀次の仕事だけに、きれいな碁盤目状で、通りに面して家が経ち、その家と家の間に排水路が通っている。これは秀吉がやった大坂の町割りと同じね。
確かこの並びのどれかが旧西川家住宅という重要文化財の家のはず。
歴史民俗資料館
よくある歴史民俗資料館も、やはり江戸時代末期の住宅を改装したもので、中庭がこんなの。
郷土資料館
これは、敷地は西村太郎右衛門という豪商の邸宅跡、建物は1886年に建てられて1953年に改築された八幡警察署のもの。改築のときにヴォーリズ建築事務所が手がけている。
旧伴家住宅
江戸時代の豪商・伴庄右衛門の邸宅。
いきなりこの写真で、商家にしてはおかしいところがあるのだけど。
中には、まず左義長のダシが飾られていた。
ダシは毎年祭りが終わると燃やしてしまうので、これは展示用に作ったもの。
近江八幡のダシは至って独特のもので、この飾り付けを食品を使って行っている。丁字麩にノリで字を切り抜いて貼り付けて小判に見立ててたり、波は寒天、宝船の帆は押し麦とクコの実。ネズミの手足は梅ガムだと。
毎年何ヶ月もかけて手作りしては、祭りの度に燃やしてしまう。大きな祭りがあるところには何億円とかけた山とかがあるもんだけど、毎年燃やすものを作り続ける近江八幡のやり方もよほどの贅沢だなあ。
左義長のある土間から上をみあげれば、かなり高い天井。二階の部屋からの障子窓も見える。
二階の窓からは、前を通る京街道が見下ろせる。
うん、商人の分際で武士が通る街道を二階から見下ろせる造りなんてそうそう許されるはずがないのだけど、この伴家はよほど力のある豪商だったのか、こんなのを作ってしまっている。
屋根裏部屋の体で外からはわかりにくい二階がある商家はあるけど、ここは外から見ても二階の窓がばっちりわかる造り。
この建物は、文政10年(1827年)から13年かけて建てたもの。
これだけ立派な建物なので、明治になってからは学校になったり、図書館になったりしていた。
2階は45畳もある大広間がどーんと。
今は3月なので雛人形が飾られている。
興味深いのは、写真右手・窓の上を通っている梁が、7間半(14メートル)もある赤松の無垢材。そんな長くてまっすぐな赤松なんてどうやって見つけたのか、どうやって運んできたのか、よくわからないそうだ。
ほか、朝鮮通信使がきたときに、宿場町でもない近江八幡が通信使の饗応をすることになったことがあり、その時の資料から献立を再現したものなどが展示されていた。
眼の前の街道も、朝鮮人街道ともいわれているそうだ。
まとめ
大阪からなら新快速一本で駅まで来れるし、きれいな町並みのそこらじゅうから伺い知れる豪華さがある。
湖南だとみんな彦根に行ってしまう感はあるけれど、もう一度に滋賀に来るならここも有力だろうと思う。