堺風の頭部

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大阪市「旧町名継承碑」めぐり (8) 中之島~西天満

 土曜日に梅田に行ったので、少し足を伸ばして。

 

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目次

 

訪問記2月23日

常安町(北区)

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 今回は北区と中央区の境目をいったりきたり。
 常安町の碑は、国立国際美術館大阪市立科学館の前。住所では中之島4丁目2番地。

 江戸時代に本五分一町の全域と常安裏町の一部だったところが、常安町になった。常安裏町があるなら常安町が別にありそうだけど、やはりこの明治以降の浦安町とは別のエリアで、江戸時代にも常安町はあったそうだ。
 五分一(ごぶいち)、ってのも風変わりな地名だけど、どうもそこらじゅうにある。この本五分一町の由来も、リンク先で詳しく調べられているようだ。

 由来は、江戸初期に豪商・淀屋の初代当主常安の名前からとった。
 元は京都の武士だけど信長にやられて商人に転身、伏見城の工事で上手いアイディアを見せて秀吉に気に入られて出世。中之島の開拓にもあたって地名に名を残した。
 この碑からひとつ西の筋に「常安橋」がかかってるし、店の方なんか淀屋橋の名前になってるんだから、商業界の秀吉みたいな人だな。

 

宗是町(北区)

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 三井ガーデンホテル大阪プレミアの北東角にある。住所は中之島3丁目4番地。

 江戸時代に千種屋という両替商があった。これも元は播磨の鉄山師から大坂で大成功を収めた豪商。
 その縁者の、早川宗是という人がこのへんに住んでいて町名になったとのこと。早川宗是ってネットじゃいまいち情報がないのだが、豪商の縁者ってだけで町の名前にまでなるもんかな。

 それと、この碑はなぜか妙に短い。一応設置要綱に高さも指定があるのだが。
 車が突っ込んで折れたとかだろうか。

 

横堀一~七丁目(中央区

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 できるだけランドマークになるようなものを写し込もうとしてこの写真だよ。
 住所は北浜四丁目9番地かな。阪神高速の高架下、三井住友銀行の前。

 元々西横堀川があったところで、ずっとここから道頓堀川まで続いていた。今は阪神高速になっていてわかりやすい。
 その川沿い東岸にずーっと、横堀という名前の町が南北に伸びていた。
 それが住居表示の実施でばっさり町割りが変わり、通りに沿って東西に長い短冊状の町が並ぶことになっちゃった。
 あわれ横堀はなますに斬られ、北浜・今橋・高麗橋・伏見町・道修町・平野町・淡路町・瓦町・備後町・本町・南本町・船場中央・久太郎町・北久宝寺町・南久宝寺町・博労町の一部になった。

 町名の変遷はあまりおもしろくない町が多いんだけど、ここはなかなか壮絶でおもしろい。

 

大川町中央区

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 なぜかGoogleマップで発見困難なんだけど、土佐堀通の川沿いの歩道にある。

 特に地名の変遷に面白いところもなく、名前の由来もそりゃ目の前に大川が流れてるんだから、というだけで、いまいち書くネタが思い浮かばない碑であった。

 

若松町(北区)

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 中央公会堂を北に渡ったところ、大阪地裁の向かいに、細長いスペースにオシャレなレストランとか入ってる区画があるが、そこにある。
 住所は西天満2丁目1番地。

 江戸時代には大坂三郷天満組の天満十一丁目の一部、明治5年に若松として分離独立、その後昭和53年に住居表示の実施にともない西天満に出戻り。

 名前の由来が、隣に老松町があったから対称的に若くした、というものらしい。まるで老いていたら悪いかのような……

 若松町の碑を歩いた時には情報がなかったんだけど、老松町の碑もちょっと北にあることがわかった。こちらの「すくらんぶるアートヴィレッジ」さんというサイトでも旧町名継承碑めぐりをやっていらして、そこで写真があった。
 ビル街の路地の中にある、セブンイレブンが入った普通の民間ビルの敷地内なんていう、極めて見つけにくい配置の碑なもんで、今回は近くを通ったけど見落としている。

 

真砂町(北区)

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 大阪地裁の北西角。これも住所は西天満2丁目1番地。

 碑には町域の変遷しか書いてないタイプで、由来に触れていない。
 せっかく美しい町名なのにねえ。名前自体からは何も推理できないからなにもわからないな。

 

梅ヶ枝町(北区)

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 名阪国道西天満交差点を少し北上した西側。住所は西天満6丁目1番地。
 ちょうど碑のすぐ後ろで、信号無視かなにかをパトカーに取り締まられた人がいたもんで、写真撮りづらいこと……

 菅原道真公が愛した梅にちなんで名付けられたとのこと。
 菅公が出てくるのは大阪天満宮に近いからだろうけど、ここらになにか梅の銘木でもあったのかな。

 

木幡町(北区)

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 天満西小学校の北側の道沿いに、西天満地域福祉センターがあって、その前にある。

 碑文によると、「町名は、夕日神明社のゆかりに由来すると伝えられている」というが、意味がわからない。
 夕日神明社とは何かと調べると、どうやら今はお初天神の境内摂社らしい。かつて西天満伊勢町と呼ばれていたところにあった孤島に、源融源氏物語の主人公のモデル)が祀られていた。(お初天神に合祀される前はもっと東にあったけど、二度の大火で衰えてしまった。一応今でも小さなお社が旧境内地にある)
 しかしここから「木幡町」にどうつながるかわからない。

 宇治に木幡という地名がある、でもって源融とくると、源氏物語絡みの話なのかなあ。
 宇治木幡には許波多神社というのがあるようだけど、天忍穗耳尊を祀る珍しい神社だ。夕日神明社は天照皇大神豊受姫大神だったようなので、一致しない。

 

富田町(北区)

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 1号線の西天満東交差点の南西角。まあわかりやすい目印としては、この交差点の南東角は幸福の科学大阪正心館だ。
 住所は西天満3丁目13番地。

 碑文によると町名の由来は、こちらも源融がらみらしい。源融が、弘仁一二年に伊勢神宮の分霊をこの地域付近の孤島に勧進した故事がある、と書いている。
 夕日神明社ができて源融が祀られたのも同じ年みたいなのだが、同じ話かな。まあ夕日神明社も天照皇大神を祀るんだから、伊勢神宮の分霊っぽくはある。

 しかし「富田は伊勢両宮が所在するこの地域の地名であった」と碑文の意味がよくわからない。単純に日本語としてよくわからん。この場所が富田と呼ばれていて、ここに伊勢の外宮と内宮を両方勧進して祀ってた、ってことかな。

 

 それで私はこのまま南森町駅までいって帰路についたのだが、どうやらその途中、西堀川町の旧町名継承碑もあったのを見落としていたようだ。
 西天満エリア、もしかすると他にも多数あるんではなかろうか。旧地名を先に洗って目星をつけておくべきかなあ。