堺風の頭部

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大阪市「旧町名継承碑」めぐり (4) 東心斎橋

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 心斎橋のギャラリーでこういう展覧会があって、ちょっと見物してきた。
 私もジャンク箱あさり大好き族なので、今現在商品価値が低下し果てたカメラに夢と諸行無常を覚えるのだ。

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 2018年とか19年に撮影された、Autoboy JetとかKyocera 210AFとかの写真はなかなか見れるまいな。

 

 そのついでに、心斎橋のちょっと東寄りの旧町名継承碑をチェックしてきた。

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目次

 

訪問記2月14日

東清水町中央区

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 大阪市立南小学校の南側、正門らしい入り口の前に建っている。
 現在の住所では、東心斎橋1丁目14番。

 東清水町という地名は見覚えがないが、ありふれているから、見かけてもあまり気に止まらずに流れていっているかもしれない。
 一応、南小学校の南東すぐに清水町会館という建物があるようだ。なんというか、町会館みたいなものには見えない感じのビルだが……

 これは碑文に情報量が多くて、地名の由来はこのあたりに出ていた湧き水が由来だそう。『摂陽奇観』(浜松歌国という江戸時代の作家が書いた随筆)に書かれている。

 

 こちらの記事によれば、他にも近くでかなり多くの町名が消えているようだ。
 ただまあ、このあたりだとあまり碑を立てられる公共施設とか公園とかがあんまりないのかもしれないな。
 無理に民間地主に頼んでまで建てなきゃならんものでもなかろうし。

 

笠屋町(中央区

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 ぎっしり建物の詰まった心斎橋の、隙間に小さな公園とも呼べないような空間があって、そこに碑がある。住所は東心斎橋2丁目5番。

 こちらも情報量多めの碑文で、元々「道頓堀塗師屋町」という地名だった。昔の傘は漆を塗って防水していたから、ここらの塗師が傘屋と関わっていたことが由来と考えられる、と。
 「考えられる」なんて、推定を書いてる碑文は今のところこれが初めてかな。実際、塗師屋町が笠屋町に変わった理由としては、単に仕事上の関わりがあるというだけじゃ弱いような。

 

 西に畳屋町、東に玉屋町、千年町とあるようなんだけど、まー、碑を建てられる場所がなさそうだ。

 

長堀橋筋一~二丁目(中央区

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 ちょっとよくわからない写真になっちゃったが、堺筋が道頓堀を渡っている日本橋のすぐ北、交差点の北東側のちょっと広場になってるところだ。(近くの橋は日本橋であって長堀橋ではないので注意)
 現在の住所では、宗右衛門町1番。

 どうも、かなり南北に長大な町だったようで、消滅の経緯も複雑だ。
 明治初頭までは、大坂三郷の北組と南組にまたがる地域。
 大阪市南区の長堀橋筋一~二丁目として成立したが、昭和57年に南区が住居表示を実施し、一部が島之内(今の東心斎橋を含む)と南船場になった。
 平成元年に南区と東区が合併し中央区になり、中央区の住居表示が実施されて、残りの部分も東心斎橋と宗右衛門町の一部となって、長堀橋筋一~二丁目という町名は消えた。

 

東櫓町(中央区

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 日本橋南詰すぐ、道頓堀の商店街に入っていって、ちょっと行ったらある駐車場の前に建っている。
 現在の住所は道頓堀1丁目2番。
 どう都合をつけたのか、こんなところに建てる許可を取れたらしい。駐車場だからともかく、商店を建てるとなったら邪魔そうだけどな……

 碑文によると、かつて櫓芝居の興行があったところだから櫓町。相生橋筋を境界にして東西に分けて東がついた。
 西櫓町も同じタイミングで消えて道頓堀の一部になってるけど、碑はあるのかな。

 

阪町(中央区

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 あんまり目印らしいものがないけど、相生橋筋と千日前通りの交差点から、ちょっと東へいったところ。道路側の植え込みの中。
 賑やかなところにあるせいか、タチ悪い商売してるやつがビラでも貼り付けたようで、剥がした跡がついて碑文が読みづらい。

 この碑は日本橋駅近くなのだけど、阪町のエリアは元々、元伏見坂町・難波新地一丁目と西高津村の一部だったとのこと。
 で、明治初期には東西に分かれてたみたいだけど、明治16年に統合されて阪町となっている。東西に分割されるのはわりとあったけど、東西が統合されてるのはこれが初めてかな。

 統合状態のまま住居表示の実施がきて、まず57年に一部が千日前と道頓堀になった。
 次いで58年に、残りが日本橋一丁目になっている。
 現在の難波になっている部分はないということは、阪町の西端はビックカメラとかNGKあたりまでだ。
 だとすると、思ったほど東西には長くない。やはり東西に分割するほどではなかったのかな。

 名前の由来は元伏見坂町から、伏見が取れて、坂の字が阪に変わった、とのこと。
 このへん、坂になってたのかな。もうちょっと東なら生国魂神社あたりが上町台地の高台なのがわかるんだけども。

 

 

 今回は以上で。