堺風の頭部

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春の東京帰り(3) 前田城跡・水口

 さて、豊橋から名古屋あたりで友人とあれこれしたりして。

 名古屋から桑名にいって、養老鉄道線で大垣を通り越して揖斐まで行って、大垣に戻って今度は米原、それから近江鉄道で水口に寄ってから帰還した。

 

前田城跡

mubouan.hatenablog.com

 前に荒子城には行った。
 荒子城は、「花の慶次」で慶次と奥村助右衛門が空城の計を仕掛けたエピソードで超有名なのだが、前田城の方にはそんなエピソードはない。

 名古屋から桑名方面へ近鉄で向かって、伏屋駅で降りて、東に徒歩少し。今は速念寺というお寺になっているところが前田城跡だ。

 

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 前田の梅鉢紋をつけてのアピール。左奥に見えてるのが城址の碑。

 利家が寄進したという阿弥陀如来が本尊。
 寺伝によれば、利家はここ前田城で生まれて、幼い内に新たに造った荒子城に移って育った、とのこと。

 この前田城の前田家が本家筋で、利家はここの分家だったらしい。
 前田城の前田家は、いわゆる戦国時代には前田長定という人が当主だったようだ。こちらの当主は代々与十郎を名乗る。
 しかし林秀貞の与力をやっていたもんで、稲生の戦い(信長と信勝の跡目争い)で信勝側について負けた。それで、荒子あたりを前田利春(利家の父)に移されることになった。

 以後、利家は信長の下でどんどん大物になっていった一方、長定は、佐久間信盛の下についた。
 本能寺の変の後は、佐久間家といっしょに織田信雄の下に。
 小牧・長久手の戦いも当然徳川方、なんだけど滝川一益に唆されて秀吉方に寝返った。が、寝返り方が悪かったみたいで、信雄・家康の軍に立てこもった蟹江城を落とされ、殺されてしまった。
 つく相手を選ぶのが下手な人だったんだろうか。まあ選べるものではないのかもしれないが。

 とはいえ長定の子・長種は、加賀に逃れて利家に仕えて、一万石の禄と、利家の長女を嫁に貰った。持つべきものは大物の親戚か。

 

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 なんとも独特な格好をしたお堂だ。
 利家の兜といったら銀鯰尾兜、あの縦にずどーんと長いやつだが、似てるな。

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 側面こんなの。
 建物である以上は、縦に突き上げる高さには限界があるだろうから、許す範囲で目一杯利家の兜に似せたお堂じゃなかろうかな。

 お寺は結構自由に建てる傾向はあるけれど、それにしてもこれは傾いているなあ。

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 あまりお墓をでかでかと撮影するのもいやらしいので、これくらいの写真で。歴代城主のお墓であるそう。
 最後の城主になった長定と、あと仲利、利成という人の墓。

 境内には他に、山崎延吉氏の植えた松があったり、「前田学校静和学校阯」という碑があったり。学校のことはぐぐってもよくわからんかった。

 

養老鉄道

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 いろいろあって、桑名駅じゃなくて養老駅にジャンプ。ここからひとまず大垣へ。

 途中の養老駅で、なんだか駅にネット配信スタジオなんてものが作られていた。養老のストリームでヨロストと称しているらしい。
 しかし「ヨロスト」で検索すると自動車整備用品のお店が先にヒットする。資本主義に町おこしが飲み込まれている……

http://yorostream.com/

 養老のヨロストはこっち。

 

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 大垣で乗り換え。同じ型の車両かな。

 

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 揖斐駅

 さて何か見るところあるかなあ、と車内で地図見たりしてたんだけど、どうも2キロは北に行かないと揖斐川町の町がない。町外れに駅が作られてるパティーン。
 レンタサイクルもあり、東に数キロ、揖斐川を渡ったあたりに大御堂城という、竹中半兵衛ゆかりの城跡があるらしいのだが、うーん。

 ステーションメモリーズはばっちり取れたし、まあ今日のところはそれで満足して折返し。
 私は乗り鉄というわけではないので、ただ乗車するためだけの乗車はあまりしたくないのだけれども。

 

近江鉄道・水口

 大垣から米原へ移動して、近江鉄道に乗り換え。

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 京セラドーム大阪っつってんのに、なぜ近江鉄道沿線にあると思うのか。

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 なんかモダンな車両に乗って、米原からとことこ走って、水口駅へ。

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 渋い。

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 渋い。

 

水口岡山城

 さて、今のいわゆる水口城に行くなら、水口駅ではなく水口城南駅がすぐ。

 が、水口城というのはひとつではない。

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 古城山県民花の森、とあるが、ここには古城こと水口岡山城があった。

 この300mほどの小山に、戦国時代に中村一氏が城を建てたのが最初の水口城だった。

 

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 登っていく途中、菅健次郎氏の頌徳碑があった。

 意外にウィキペディアに項目がなかったんだけれども、省営バス(今でいうJRバス)の創始者に当たる人のようだ。

 昭和のはじめ頃に鉄道敷設法改正があって、そこら中に建設計画が立てられたものの、輸送人員の見込みと建設費が合わないものが多々。
 バスでやれよという意見が起こり、また国産自動車産業も起こりはじめていたということで、鉄道省が検討を始めた。

 それで研究のために海外に渡って、省営バスを立ち上げ、岡多線(岡崎-多治見間)を皮切りに続々とバスを走らせる立役者となったのがこの菅健二郎氏。

 

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 たまに紅葉してる木があったのはなんだろな。

 

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 山の上まで上がってくると、ちょっとだけ土塀が作り直されていて、水口岡山城ののぼりが立っている。
 つい昨年、国指定史跡になれたばかりだ。

 この城は、中村一氏が1585年に甲賀の支配拠点として築いた。それから増田長盛やら長束正家が入って治めていたところで関ヶ原。負けて廃城に。

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 石垣の残っているところもある。

 新しい水口城を建て直すときに資材を転用されたようだけど、石垣一部は残ったままになっていたようだ。これが見つかったのが2013年とずいぶん最近。
 城跡が御用林になって手付かずにされたおかげで、ずっと残っちゃってたそう。

 地形もなかなか城らしく残っていて、削って造られた通路、平たく広い本丸、いくつかの郭や堀切など、確かによくわかる。

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 なんか派手なお社は阿迦之宮というそうで、お城と水口の町の守り神として、また長束正家関ヶ原での無念を鎮めるべく祀っているとか。
 城より前には、この山には大岡寺というお寺があったが、築城のために麓に移転させられている。江戸時代にそこの寂堂法印が、大岡寺の奥の院として山頂に開いたのが始まりとのこと。

 水口が本格的に宿場町として栄えるようになったのは、水口岡山城の城下町として整備されてからだそう。
 そのおかげか、長束正家は水口ではかなり評価が高いようだ。もともとここらの豪族の水口氏の出だという説もあるので、その縁もあるのかな。

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 石仏が集められていたのも、一時はお寺だったせいだろうか。

 

水口宿

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 城山から下りてきて、野洲川の方へ行ってみようと歩いていったら、水口宿の本陣跡にぶつかった。

 江戸時代を通じて賑やかな宿場町として活躍した水口宿の本陣も、明治二年に明治天皇が宿泊したのを最後に閉鎖、撤去されたそう。

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 今は聖蹟碑があるだけ。

 

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 東海道に沿って西の方に歩いていってみると、まだどことなく旧街道の雰囲気が残る建物も多い。ここは高札場だった。

 

水口神社

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 東海道からちょっと西に外れた道を歩いていく。多分これはこれで古い街道っぽいが、ともかく大鳥居と松並木にでくわした。

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 かつての社領はいかほどのものだったか、今でも結構に立派な神社。

 大きく広場を設けた境内にしているが、4月19・20日に曳山祭りが開かれるので、曳山が入ってこれるようにしているんだろう。岸和田の岸城神社なんかもこういう造り。

 水口の曳山祭りも、1735年以来の歴史がある。岸和田だんじり祭より古い(1745年)。

 

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 祭神は、大水口宿禰命となっている。
 饒速日の六代下、出石心大臣命という人がいて、その子が大水口宿禰とのこと。この土地を開拓した神様となってるようだ。

 延喜式神名帳にも載っている神社。
 あとは平安時代の木造女神坐像が、国指定の重要文化財

 なんだか、由緒書の情報量が少ない感じなのだけど、あんまり事件やら戦災やらに遭わずに平和に今までやってきた神社なんだろう。
 関西の式内社で、こうも何もなく現代に至ってる神社は逆に珍しい気がするな。

 

 それから、神社の裏手に甲賀市水口歴史民俗資料館がある。

 写真はないけれども、展示はなかなか愉快。
 祭の曳山が展示されているけれど、屋根の上にでっかい恐竜の模型が乗っかっていて、ジュラシックパークのパロディ看板をつけているような、予想をぶっちぎってフリーダムな代物だった。

 

水口城

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 でもって水口城
 前に来たら、休みが木・金という予想外なタイミングだったもんで閉まってたのよね。今回わざわざ二回目。

 水口は古くから交通の要衝でもあって、江戸時代には幕府直轄領にされていた。
 で、東海道を整備して水口に宿場を置くと共に、将軍が京・江戸を往来する際の宿所として水口城を置いた。

 なので、城としてはかなり風変わりな縄張りというか、上から見たらほとんど正方形の本丸に、小さな四角い出丸が張り出していて、それらを掘で囲んでいるだけ。今あるのはその部分だけ。
 それからその外に二の丸があった輪郭式、とはいうものの、二の丸の外には堀すらなく柵だけだったそう。
 およそ戦闘的には思えない作りで、本丸も別に天守があるわけじゃなく、小堀遠州の手による将軍宿泊用のお屋敷があった。二条城二の丸御殿を模したゴージャスなやつ。

 水口藩主は、本丸の御殿は使わずに維持に務めて、二の丸だけで仕事をしていた。
 しかし、そこまでやっておきながら、将軍が宿所として使ったのはわずか一回だけ。

 奇しくも、天皇家がパレードに使う4000万円のロールスロイスが、2回使っただけで走れなくなってるなんてニュースが伝わっていたが、城ひとつと御殿を作って80年くらい維持しておきながら1回しか使わなかった幕府に比べたら、ずっとスケールが小さい。豊かさとはなんだろう。

 

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 橋を渡って、城へ入る。

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 出丸はもちろんそう広いものではなく、建物もあるけど天守ではなく櫓。
 この櫓が、水口城資料館になっている。

 資料館は中は木造で、いい感じの作りではあるんだけれども、少なくとも築城当時の図面(パンフレットに載ってる)を見る限り、出丸のここに櫓はなかったっぽい。本丸の方の隅にあった。

 

 本丸の方は何かあるかな、と行ってみたものの、水口高校のグラウンドとして使われている。今から思えば贅沢な使い方、しかしまあ、明治くらいの頃にはあんまり城跡って大事にされてなかったからな。

 

 水口を楽しんで、あとは草津線経由でJRに乗って大阪へ。

 行ったら定休日、という心残りの大きかった水口城を攻略できて満足な旅程であった。