今週のお題「お花見」
3月31日土曜に行った和歌山へのツーリングの記事を、花見だったということにして記事を起こすのである。
お題に乗ったほうがアクセス多い。古事記にもそう書いてある。これはアクセス乞食と古事記をかけた高度なギャグである。
目的地は御坊。御坊家999代当主の華麗にて波乱なる町。
松下公園
大阪から和歌山へは、車で行くなら国道26号線がベターだけど、バイクだったら、道が狭くて車が通りづらいところのほうがいい。空いてるから。
そういうわけで、府道64号雄ノ山峠を通る。アップダウンとヘアピンカーブが好い。
この道はかつての熊野古道で、道なりにたどればそのまま熊野大社にお参りできる。問題は、すでに道がわからなくなっているところがあることだけれど。
県道64号線ぞいに行って、紀の川を渡る川辺橋を超える。
ここで、熊野古道がどっちやらわからなくなったので辿るのを諦め、そういえば松下幸之助先生の出生地があるのを思い出したからそっちへ。
そんなに大きな公園でもないが、植えられた桜は花盛り。花見軍団もBBQをやっていた。
しかしすぐ近くに野球のグラウンドがあって、地元の子供たちが野球の指導を受けておったが、教えているおじさんが今時珍しいくらい罵声飛ばしっぱなしのスタイルであった。
幸之助桜と名付けられた桜もよく咲いていた。
湯川秀樹の揮毫による石碑。
これとは別に、松下家のお墓もある。お参りして、○○○○に製造物責任とってくださいなどと願をかけておいた。あとブルーレイDIGAのひどい操作性について猛省を促すように社員にいっといてくださいとお願いした。
ここから真南には丘があるので、南西方向に迂回するように進むと、紀伊風土記の丘に行き当たった。
多分10年近く前に、山伏が持ち歩いていた天狗のミイラが展示されるとかで、面白そうなので見に来たことがあったな。
腹減ってきてたので、駐車場すぐの「喫茶ピュア」に入ってみた。今日のランチサービスがカツカレーってことでそれに。
あまり辛すぎず、かなりフルーツを効かせた創作っぽさと、具に大根とか入ってる家庭カレーっぽさを併せ持つなかなかの良カレーであった。
藤白神社・鈴木屋敷
風土記の丘を見て帰ろうか、という気もちょっとしたんだけれども、今回は御坊に行くのが目標、初志貫徹で行くべし。
県道138号から160号→136号へと南下。
そしてどこからかよくわからないが、気がつけば熊野古道に再び入っていた。そして古道らしくどんどん細くなる道と、レトロな感じの民家、軒先にぶら下げられた熊野古道ちょうちん。
そして道の脇に、「鈴木屋敷」なる看板を見かけ、単車を止めてみた。
ここ藤白の地には、全国に二百万いるという鈴木さんの元祖が住んでいたと。
割と最近、昭和17年に亡くなった本家鈴木さんは122代目だったそうだ。
平安末期、皇族の熊野詣が盛んになった頃、熊野の有力者だった鈴木氏が藤白に移住した。そして熊野詣の案内役をやったり、全国に熊野神社を分祀する事業につとめていたと。
牛若丸が熊野行きの途中で鈴木屋敷に滞在したのを縁に、鈴木三郎重家・亀井六郎重清の兄弟が義経に仕え、衣川の戦いまで付き合った。それから三郎重家は秋田の山奥まで落ちて帰農し、そっちにもまだ屋敷が残っていると。
戦国時代の雑賀衆で有名な鈴木家も、ここの分家。
曲水泉というのが残っている。
泉といいつつ水路がメインで、水路沿いに石を並べてみんなで腰を掛ける。上流の人が酒盃を流して、次の人が即興で一首呼んで流れてきた盃を取って飲む。そしてまた盃を流して次の人が……と続ける遊びをやってたそう。雅な。
しかし80年くらい前に空き家になってしまってから、建物は朽ちている。
「紀伊山地の霊場と参詣道」も世界遺産になったことだし、ここもどうにかしたいと募金中。紀州藤白鈴木屋敷を育てる会なるものも結成されている。鈴木さんは募金持って集うべし。
でもって、すぐそばにある藤白神社。
熊野古道には九十九王子というお社が並んでいたのだが、その中でも特に格が高い五体王子のひとつ。皇族がきたら必ず寄ったと。
五体王子は99のうちどれなのかは説が分かれるが、藤白王子はどの説でも入ってるようなビッグネームだ。
鈴木氏は、代々この神社の神主をやっていた。
なんとも見事な楠があって、これも信仰対象らしい。
かの南方熊楠も、ここの楠にあやかって、それから熊野権現の熊をもらってこの名前にしたとか。
有間皇子神社、というのが隅に建てられていた。
大化の改新ではヒーローのように描かれる中大兄皇子、後の天智天皇であるけれども、クーデターの後に乗り気でない軽皇子を皇位につけて(孝徳天皇)その皇太子として実権を握り、多くの有力者を謀殺した人物でもある。
その孝徳天皇の子が有間皇子。
中大兄皇子は孝徳天皇を無視して勝手に遷都を決め、嫌がる天皇ひとり残してみんなで勝手に倭京へ移動。名ばかりになった都にひとり捨て置かれた天皇は、失意の中で崩御した。
先帝の子である有間皇子は嫌でも政争に巻き込まれるので、仮病で湯治にいくと白浜温泉に逃れた。
適当にほとぼりを冷まして都に戻り、斉明天皇に「白浜温泉いいですよ叔母様」と教えたところ、斉明天皇も湯治に行幸することになった。
天皇が留守になった都で、蘇我赤兄というのが有間皇子に言い寄ってくる。「斉明天皇も中大兄皇子もヤバい、中大兄政治は許さない、有間立て」とそそのかした。
それで真に受けた有間皇子が、じゃあ斉明天皇と中大兄皇子を倒すぞと言っちゃったところで、速やかに蘇我赤兄が中大兄皇子側に密告。
有間皇子は慌てて、白浜の天皇のところへ釈明に行ったものの、その帰路、この藤白で捕まって絞首刑にされてしまった。
という歌を残して、万葉集に収められている。
で、バイクでさらに熊野古道を藤白坂のほうへ行ってみた。
しかし通っていいのか不安になる感じの道が続く。
結局途中で、丘を下っていく道があったのでそこからエスケープ。農業用道路らしく、微妙に邪魔してしまいながら通過。
冷水浦駅のちょい東あたり、国道42号線に出られた。
御坊
一気に飛んでしまうが、国道42号を黙々と進んで御坊駅に到着。
ここで駅前駐車場にバイクを預けた。
ステーションメモリーズで紀州鉄道を取ってしまおう、と時刻表チェック。が、発車はかなり先だ。
全長2.7kmのミニ鉄道なので、歩くことにした。
紀勢線の御坊駅が、御坊の市街地からあまりにも北に外れていて、その移動のために引かれたのがこの小さな私鉄だった。
隣の学門駅。
学業御守として学門駅の入場券を売ってたりするんだけど、学問を学門と書いちゃったら減点されるし、そもそも無人駅だから入場するのに券なんかいらん。
しかし、実質的価値のないものにも付加価値をつけて商品化する、という学門駅入場券、実に経済学的かもしれない。経済の徒には有効か。
紀伊御坊駅近くに、紀州鉄道キハ603の車両が置かれている。
2009年に引退、復活も考えてしばらく残されていたが2012年に除籍。それから本町商店街が譲り受けて、線路沿いの空き地に展示することになったようだ。
よく見たら「弁当500円」「おかず詰め放題」と張り紙がある。弁当屋? 飲食店だろうか?
踏切から遠くに、休車中と張り紙された車両が停まっていた。
調べてみると、キテツ2号というもののようだ。北条鉄道のお下がりで2009年から運行してたけど、新たに2016年に信楽高原鉄道からのお下がりが走り始めると出番が減り、2017年にさよならイベントをやってから長いお休みに入っている。
キテツ1号は、有田川町鉄道公園にあるようだ。
紀伊御坊駅。
紀州鉄道の本社所在地でもあり、唯一の駅員配置駅でもあり、グッズ販売などもある。
なんとローカル萌えキャラとそのグッズもあったぞ。
ローカル線の萌えキャラといったら、鉄道むすめという大コンテンツがあるわけなのだが、取り込まれる前に独立系萌えキャラを立ててしまう。その意気や良し。
本町商店街から市役所前駅へと向かう道の途中、こんな店を発見。
ちょっと入ってみると、レトロな駄菓子屋を作り上げていた。スペースインベーダーの台やら、小学生が初代スト2を立って遊ぶような小さな筐体やら、懐かしいものが多数。
けっこう人が入っていた。有名店なのかな。
そして終点西御坊駅。結局踏破してしまったな。
外はちょっと綺麗にしてるものの、中は結構、傷んで波打ったベニヤ板の壁だったり。
乗って帰ろうかと思ったら、次の列車は50分後。
ところで紀州鉄道は、この西御坊駅から先へ、まだ700mほど続いていた。駅が2つ、日出紡績前駅と日高川駅。
89年に廃止されてからもうすぐ30年だが、まだ線路は残っている。
日高川の河口の港湾がもっと整備されたら輸送需要が復活するかもしれず、それに備えて残しているとか。
あるいは、ホームも残っているらしい日高川駅跡にさっきのキテツ2号を移して鉄道公園にしようとか、いくつか話があるようだ。
日出紡績前駅跡、このへんだろうか。
背後にすぐ、なんか曰く有りげな煉瓦塀。昔の工場の塀だったりするのかな。
近くに、小竹八幡神社がある。
日本書紀にある神功皇后や応神天皇に由緒がある「小竹宮」がこれではないか、とのこと。でも戦国時代に焼かれて古文書やらが失われ、詳しい由緒が不明になっている。
秋の例祭も昔は大賑わいだったらしい。今でも賑わってるのかな。
「けほん踊り」というのが、和歌山県無形文化財の第一号。
境内では地元の親子連れが遊んでいた。
すぐ北のお医者さんに煉瓦塀があった。
元々裁判所が建っていて、そこに米軍の爆撃があった。御坊に残る数少ない戦災遺構。
ちょっと東にいかにも歴史ある建物があったが、観光案内マップによれば、この「堀河屋野村」は金山寺味噌や醤油を扱う江戸時代からの店だそう。
隣の「伊勢屋」では、哲人政治家・田淵豊吉という人物が生まれたそう。
御坊、というくらいだから寺内町なのだが、その中心施設もあった。
中では、フレッド・ワダに関する展示が半分。
ちょうど来年の大河ドラマが東京オリンピックネタらしいんだけど、その東京五輪誘致にあたって、南米を私費で飛び回って諸国の協力を取り付け、開催地投票の勝利を導いた偉人。
古橋廣之進やフジヤマのトビウオにも厚いサポートを加えたりも。
解説してくれる方が熱心に偉業を教えてくれて実に興味深かった。
来年の大河、フレッド・ワダが出ないなんてことはありえないが、どれだけ人気俳優にその役をやってもらえるかが気になるところだそう。
もう半分では、地域の昔話である髪長姫伝説など、御坊の伝承から地元高校野球チームの甲子園出場まで、手広く扱っていた。
なぜかさっぱり髪の生えてこない女の子がいて、親御さんも困っていた。ある時、輝く観音像を海で発見して引き上げた。お祈りしたところ、その子の髪が突然生えて、すごい勢いで長い髪になった。
その子の長い髪をツバメがくわえて、遠く奈良の都に運んでいった。そして文武天皇がそれを発見。髪の長いのが美人の条件とされていた奈良時代、「こんな長く美しい髪を持つのは美人に違いない」と、各地に髪の持ち主を探すよう命じた。
それで発見された娘は、聖武天皇の后に迎えられた。
天皇がただの田舎の海女を后にするわけにもいかないので、藤原不比等の養女になってから嫁いだ。
それから有間皇子についても。
日高川を渡ってすぐのところにある岩内古墳が、有間皇子の埋葬されたところだといわれているそう。
有間皇子は、中大兄皇子側からすれば反逆者だし、正史にはそのように残されそうなもんだけど、どうも万葉集に有間皇子を追悼する歌が入ってたりとかもする。
当時から、謀殺された悲運の皇子と見られていたのかもしれない。
岩内古墳も造りや副葬品がかなり格式高いものらしく、どうやらこの地の豪族が、有間皇子を皇族なりの格式で葬ったのではないか、と。
そんなことしたら中大兄皇子に睨まれそうだけれど。遠いからバレなかったのかな。
日高別院に寄ってみたが、あいにく閉まっていた。時間が午後4時すぎだったのよね。
このあたりを治めていた湯川直光という武将がいたのだけど、三好長慶に居城の紀伊亀山城を落とされた。
その時、山科本願寺の証如の助力を受けて無事撤退でき、その恩に報いるために寺を建てたのが始まり。それは秀吉に焼かれたが、後の浅野家の紀伊統治時代、その重臣佐竹伊賀守がこの場所に復興させたのが日高別院。
人々は日高別院を御坊様と呼ぶようになって、それが今の地名にもなった。
汽車が来る頃に駅に戻れそうだったので、一番近かった市役所前駅へ急いだ。ついたところですぐ到着。
よく見ると正面に205とあるので、信楽高原鉄道から2017年にもらわれてきた最新車両のKR205であるようだ。
91年に信楽高原鉄道が正面衝突事故を起こしたことがあったのだが、SKR200型のうち2台が事故に絡んだ。その補充で追加製造されたのがこの205号車なので、SKR200型の中ではちょっと新しい。
といっても、信楽高原鉄道じゃ急坂の上り下りがあるせいか、15年も使えば老朽車として引退させちゃうようだ。紀州鉄道はド平地だから気楽そうだが。
そういえば、私が初めて紀州鉄道に乗ったときは、かなり年季の入ったぼろ車両で、さすがと思わされたものだった。あれに比べればKR205は新しい。
あの時乗ったのは、キハ603だったんじゃなかろうか。これならぼろいはず。
しかし乗りつぶしオンラインでの記録によると、私が前に乗ったのは2011年みたいだ。その頃だとキテツ1 or 2号で運行してる。こっちならそこまでぼろい印象は受けないはず。あれー?
2011年という記録が間違い(もっと前に乗ったのを2011年に入力しただけとか)、たまたまキハ603の運行してるタイミングに当たった、別のローカル線でレトロな車両に乗った記憶と混濁している(銚子電鉄とか阪堺線、三岐鉄道など混濁しそうなのがある)、いくつかありえるな。
さて、御坊で降りて、またバイクに乗って大阪へと戻る。
帰路はできるだけ海沿いを通るようにしてみた。
乗車中で写真は撮ってないけど、広川ビーチ駅のちょい南、唐尾湾というあたりの景色は良かった。
久々のツーリングも結構な長距離になっちゃって、脚がいたい。