堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

深日洲本ライナーで行く淡路島・洲本

深日洲本ライナー – 深日港~洲本港間で平成29年6月25日から9月30日まで社会実験運航を実施します

 今、淡路島↔大阪間の連絡航路が熱い!

 この夏は、上記の深日港-洲本港間と、さらに関西空港-洲本港間の船便航路がほぼ同時にオープンして、大阪から淡路島ににわかに行きやすくなった。
 これまでは、車で大阪湾をぐるっと回って明石海峡大橋経由の他にはこれといったルートがなく、和歌山や大阪南部からは、淡路島は「見えているのに遠い」存在だった。
 それを船で直行できれば、見えているままの距離感で出かけられる。

 私も長らく大阪南部に住んでいて、淡路島はしょっちゅう眺めているけど、行ったことがなかった。
 深日港発の船は社会実験なので期間限定。今使っておきたい、というのもあって、友人を誘って行ってみた。

 

深日港にて

 さて、深日港といってもすっかり影が薄くなったが、南海本線みさき公園駅から分岐して深日港方面に行く支線・多奈川線に駅がある。
 かつて深日港から四国や淡路島行きのフェリーが出ていたので、南海本線もなんばから多奈川線行きの直通急行を走らせていた。
 子供の頃の私も、親に連れられて四国に行くときに、深日港から渡ったものだ。

 しかし、徳島行きは明石海峡大橋開通とともに廃止。淡路島行きは関空開港に合わせて泉佐野港発に変更ののち廃止。深日港発着の旅客船はなくなっていた。
 鉄道も、多奈川線へは直通列車が廃止され、現在は各駅停車が往復しているだけの支線になっている。

 

f:id:mubouan:20170814110623j:plain

 南海電鉄はレトロな駅が多いが、本線でもそうなのに支線となるとこの雰囲気。
 ここから港は、海の方にちょっと歩けばすぐ。
 あまり景色が変わっていないのだろうか、子供の頃に通ったことがある気がした。

 ちょっと早めに来たので、ポケモンGOでポータルハントして時間つぶし。片手で足りるくらいしかないが。
 一応乗船券発券所・待合所・観光案内所を兼ねた「さんぽるた」という施設があるのだけど、まあ、そこ自体で時間をつぶせる場所ではない。本格的に客船復活となったら、港の周りにもう少し買い物とか休憩できる場所がほしいな。

f:id:mubouan:20170814111223j:plain

 なお、変なところにあるジムは、この赤い灯台
 釣り人が大勢並ぶ堤を歩いていくとアクセスできる。

f:id:mubouan:20170814111513j:plain

 深日洲本ライナーに使われる客船・インフィニティ号は、早めに到着して待機していた。

 あまり客が居ないという噂もあったが、お盆の日曜日ということもあって、11:40分洲本行き便は満席になっていた。
 私は前日にウェブ予約しておいて正解。

 

 友人とも無事合流し、乗船券も発券。

 船は56人乗りで、座席も結構詰めているから、大きくはない。飲み物の売り場がある他は、特にアミューズメント的なものもない。しかしまあ、乗船時間は一時間ほどなので、苦痛ということはない。
 南側(深日発なら進行方向左手側)の席に座って窓の外を眺めれば、友ヶ島紀伊水道の景色が眺められる。逆だと海しかない。

 スポーツサイクルが数台のせられるようになっていて、サイクリストには嬉しい。実際そういう乗客がいた。自転車や原付を淡路島に渡す手段がすごく限られるからなあ。

f:id:mubouan:20170814112423j:plain

 インフィニティ号の面白いところは、この通り、双胴船。播磨瑞翔の同類だ。
 双胴船だとロールの揺れが非常に小さく、乗り心地はすこぶる良い。船酔いが心配なタイプでも、かなり耐えやすいだろうと思う。
 スピードが出せるのも特徴らしいけど、私は他の船がわからないので、ちょっと比較しかねる。

 

洲本にて

「日本人の休み方」はフランス人には不思議だ | ワークスタイル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 先日見かけた東洋経済オンラインの記事によると、フランス人は定番スポットなどスルーして行き当たりばったりに旅するのが好きらしい。
 それでいくと、私はフランス人なのかもしれない。

 時間は昼の12時半、とりあえず何か食うところを探そうと街の方へ。ノープランで。
 ぶらぶら歩いて、エディオンのある交差点で左折して堀端筋という道に、いくらか商店街が見えた。

f:id:mubouan:20170814115153j:plain

 これに「オパオパだ!」と反応する我々ももうアラフォーである。

f:id:mubouan:20170814115240j:plain

 それからアーケード街を発見。本町商店街。
 何かあるかなあと入っていってみたが、何しろお盆だからだと思うが、休んでいる店が多い。
 なんとなく、店が潰れまくってしまっているシャッター街の空気とは、少し違った気がしたので、お盆でなければもっと開いてる気がするんだけど……

 結局飲食店は見つからないまま商店街を踏破してしまい、川にぶつかった。

 川沿いに狸の像があり、そういえばそこらじゅうで信楽焼の狸とか見かけてるような、と思っていたが、これは後にわかる。
 また、町中に洋品店と美容院がやけに多いとも思っていたが、これも後にわかる。

f:id:mubouan:20170814115826j:plain

 結局一周りして、この淡路ごちそう館御食国に到達したものの、もう午後2時近くなのに40分待ちと言われる。どうも他に食べるところがなくて、みんなここに来てしまうらしい。
 この裏にもレストランがあったが、今日は貸切だと。

 結局、港を下りてすぐに見かけた「多幸花」という小さな食堂に入った。
 同行の友人らはアナゴを、私はタコ定食。
 おじいちゃんおばあちゃんが夫婦で回してる店で、「アナゴが高いのしか仕入れられなかったから」と急に値上がりしたりする大雑把なところがありつつ、かなり大ぶりで良いアナゴが出てきたりもした。気さくな店であった。

 

淡路島文化史料館へ

 さて、私の希望で洲本城のほうへ向かうことになった。港から南へ、海岸通を歩いて行く。
 海岸の方は海水浴場とリゾートホテルが並び、飲食店もいくらか見られた。

 洲本城は三熊山上にある「上の城」と、東麓にある「下の城」に分かれている。

f:id:mubouan:20170814124615j:plain 城の前には、お登勢さんという女性の像がある。
 私も淡路島の歴史にはさっぱり明るくないが、誰だろう、と思うと、庚午事変関係の人物であるようだ。

 庚午事変とは。
 江戸時代の洲本は、独立大名ではなく、徳島の蜂須賀氏の家老である稲田氏に治められていた。蜂須賀家草創の頃からの家臣である稲田氏は、陪臣ながら14000石もあって大名クラス。
 しかし明治維新の時には、稲田はあくまで蜂須賀の陪臣だからと、士族の身分が貰えなかった。蜂須賀徳島藩佐幕派だったのに稲田氏は勤皇派だったから、維新に功労があったのはどっちだ、という話もあり、稲田側は納得いかない。
 せめて士族にという働きがどんどん先鋭化、洲本藩が独立すれば士族になれるだろうという活動までに及んでいく。
 そうすると蜂須賀側からも、家臣が謀反に等しい活動をしているのだから、それは怒りもする。
 ついに蜂須賀側が800名余りの兵を率いて稲田側を襲撃。稲田側は抵抗せず、死者17名・重軽傷20名、そして多くの武家屋敷などを焼き払われる被害を受けた。

 明治政府は蜂須賀側に厳しく、首謀者10名を切腹(史上最後の切腹刑となった)、関係者27名を伊豆に流罪、藩主を含め大勢に謹慎の命を下した。
 そしてその影響もあり、淡路島の北側半分以上にあたる津名郡兵庫県に編入されることになった。庚午事変がなければ、淡路島は兵庫県じゃなく徳島県だったかもしれない。

 一方の稲田氏は、まあ被害者と加害者と離しておこうとか、独立企てるややこしい連中っぽいから隔離しようとか、色々思惑はあったんだろうけども、北海道の移住開拓を命ぜられて静内に送られた。
 激動の庚午事変から北での生活を、お登勢という娘を追って描いたのが、船山馨の小説「お登勢」で、それが2001年にNHK金曜時代劇になった。
 その縁で、この銅像がある。

 

f:id:mubouan:20170814131616j:plain

 さて銅像の後ろに石垣が見えていたが、そこが堀になっていて城らしい造り。橋を渡ると、淡路島文化史料館。

 元々、徳島藩の淡路島統治の拠点は、もっと南の由良にあった。
 しかし由良は島の中心から離れているし、陸上交通も不便だからと、1631~35年にかけて洲本城を築城、由良城から城下町ごと移転する「由良引け」を行った。
 その際に築かれた洲本城の「下の城」が、この文化史料館や、隣に並ぶ検察や裁判所などのところにあった。

 史料館の内容は、1階が洲本の歴史を化石の時代から辿る歴史博物館。
 街に見える大きなレンガ造りの建物は、元々カネボウの紡績工場だったそう。紡績工場があると大勢の女工さんが集まるので、服を売る店や美容院が多くなる。それで今でも洲本に洋品店や美容院が多いんだろうと思う。(同じことは大阪の繊維工場街でも起きてる)
 また、かつて走っていた淡路鉄道の話もあった。1966年まで走っていたが、モータリゼーションに負けるよくあるパターン。島の外には出し難い淡路島では苦しかったろう。

 2階では、珉平焼の展示と、明治から大正にかけて活躍した詩人・岩野泡鳴の手紙などの展示があった。
 その手紙が「子供そそのかして盗ませた金を即刻送り返せ」と糾弾する内容だったりして驚いたけれど。

 3階は、直原玉青記念美術館となっていた。

 歴史博物館と民族博物館と陶芸美術館と文学館と美術館が一緒になったような、手広い展示内容だった。
 元々展示施設として作ったわけではなさそうな気がする建物だったけど、何から転用したのかはよくわからない。

 

洲本温泉に入る(足だけ)

 洲本のレジャーは、淡路島文化史料館からすぐ海側の大浜公園海水浴場と、洲本温泉がポピュラー。
 関西でローカル局のテレビを見てたら、洲本温泉の「ホテルニューアワジ」や「夢泉景」はおなじみ。
 高度経済成長期には、レジャーにいく余裕ができてきた人々が、大勢和歌山から船に乗って洲本にきていたという。

 とはいえ、洲本温泉は少し離れていて、洲本城の天守が見える山を越えるか迂回しないと到達できない。

f:id:mubouan:20170815122208j:plain

 だが、下の城の堀端を少し西に、看板に誘導されるままに行くと、足湯がある。
 92年に新泉源を掘削して、下の城から上の城の眺められる場所に作られている。

 泉質は単純弱ラドン泉、効能は神経痛、冷え性、関節痛、痛風など、とある。
 足湯から少し離れたところの看板には「痔疾」と書いてあったのだが、足湯で痔疾を治療されるのは、ちょっとどうなんだろうか。

 無料で気安く入れるので、足を拭けるタオルを一枚持っていくとよし。
 泉源温35.2℃とあったが、日差しのせいか気温のせいか、もう少し上がっていたようだ。ちょっと熱めの風呂くらい。

 

本八幡神社

 足湯から、すぐ洲本八幡神社がある。

nttbj.itp.ne.jp

f:id:mubouan:20170815123202j:plain

 かなり大きな拝殿で、結構格が高そう。
 淳仁天皇により開かれて以来、城の目の前だから藩主蜂須賀氏・城代稲田氏からの崇敬も厚かったそうで、洲本の中心的な神社だろう。

 またこのあたりでも祭りには「だんじり」を出すのだけど、洲本では「檀尻」と書くそうだ。江戸時代のものの現物が、淡路島文化史料館に展示されていた。

 

f:id:mubouan:20170815123930j:plain

 ちょっと気になったのが、見たこともない作りのこの門。
 両側がお社になっているようで、何が祀られているかはわからなかったが賽銭箱があった。
 両側に祀っているという意味ではお寺の仁王門に近いが、こんな異様な形になるのは、仁王門でも神社の楼門でも見覚えがない。

 末社を長屋っぽく一棟の建物に並べているのはよくあるけど、それの中央二間分を切り抜いて通路にし、屋根を後から増設した、というようなものに見えるなあ。なんでそうなったのか……

 

洲本城(上の城)へ

 さて、洲本八幡神社の門前からすぐ城山の方へ向かうと、登山道の看板がある。Googleマップでも道があるのが見えるので、そこから登城できるのは間違いない。

f:id:mubouan:20170815125438j:plain

 なのだが、道が。
 見ての通りコンクリート舗装があるから、歩くこと自体は困難ではないのだけども、坂の傾斜がものすごい。
 道のりは長くないのだけども、短距離で一気に高さを稼ぐような登山道になっていて大変。

 天守のすぐそばまで車で行けるから、そこそこ歩き慣れた人でなければ無理せず、タクシー使ってしまう方がよいと思う。特に真夏。
 友人は体力と靴の都合で、ここで一旦離脱。元々釣り好きの友人で、私が城いってる間に釣りをする、という話でもあったので。

 

 登山中には、ほうぼうに古い石垣が残っているのが見える。
 洲本城は「登り石垣」という独特の石垣があり、それが登山道から見えたらしいんだけど、予備知識持たずに行ったから気づけず。
 普通の石垣は、同じ高さのところに水平に作られていくものだけど、登り石垣は斜面を登るように、階段状に造り付けていく。(階段といっても大きな段で、人がその上を昇ったりはできない)
 洲本城は北側にしか出入りする必要がないから、北方向への出入り以外は登り石垣で遮って、側面から回り込まれるのを防いでいる。竪堀と同じ目的のもの。

 

f:id:mubouan:20170815130015j:plain

 さて、やっと昇ってきた天守なのだが、小さい。

 洲本城を今の形に作ったのは脇坂安治で、石垣なども彼の頃に作られた。
 脇坂時代には天守閣も作っていたらしいが、彼は伊予大洲に転封される。そのときに洲本城の天守大洲城に移築したという話だが、そもそもその時代に淡路から伊予まで城を運べたのかは疑問、とも。
 江戸時代になってしまうとこんな山城は不便で、池田忠雄時代には洲本城は廃され、岩屋城や由良城が使われていた。そして一国一城令が出た1615年はその池田忠雄時代。この頃に片付けられた可能性も。

 それで今あるこの天守はなにかといえば、1928年に昭和天皇御大典を記念して鉄筋コンクリートで作られた展望台。別に歴史的考証をやったものでもないから、復元天守とはいえない模擬天守
 模擬天守としては日本最古のもの。90年も前のものだとそれはそれで歴史的か。

 ただ残念ながら、耐震安全性などの関係で展望台としての機能もオミットされていて、上には上がれない。今は単なる飾り物の建物。

 

f:id:mubouan:20170815133844j:plain

f:id:mubouan:20170815133855j:plain

 しかし本丸からは、洲本の町を一望でき、なかなかに気分のいい景色。大阪湾ながら海の色もきれいなブルーだ。
 息を切らして登ってきたあとに見るにはなかなかうれしい。

 洲本市は人口43000人ほど。また市域が結構広くて、淡路島西岸まで広がっている。この街だけだと人口はどれくらいだろうな。

 

f:id:mubouan:20170815134044j:plain

 トンビも、山の上から見るとかなり近くを飛んでいた。
 車のノイズも人の声も離れ、トンビの鳴き声がよく聞こえていた。

 

  本丸には飲み物などを売ってる休憩所があり、他に客がいなかったのでお店のおっちゃんとしばし歓談。
 私は一時三洋電機の禄を食んでいたことがあるのだけど、三洋電機の創業者・井植歳男氏が淡路島出身で、また三洋電機ニッカド電池が初めて量産されたのも淡路島。三洋と淡路島は切っても切れない間柄、三洋トークが弾んだ。
 そういえば、売店の扇風機やら、町で見かけるエアコンの室外機やら、ずいぶんSANYOマークが多かったかもしれない。

 

芝右衛門狸

f:id:mubouan:20170815141540j:plain

 また、芝右衛門狸という昔話があり、それが祀られていた。

 この城がある三熊山には、身長六尺の大狸が住んでいた。たまに人をからかったり、夜道に迷った人を案内したりと、人気者の愛嬌狸であった。
 ある時、浪速で面白い芝居をやってるという噂が洲本にも伝わってきて、芝右衛門が興味を持って人に化け、浪速に渡った。
 それで木の葉を銭に化かしてそれを料金箱に入れ、連日芝居を楽しんでいたのだけども、もぎりのおじさんが料金箱に木の葉が入ってるのを不審に思い、猟犬を用意した。
 そうとも知らずに芝右衛門、その日の芝居を楽しんで、そろそろ洲本に土産話を持ち帰ろうとしたところ、犬に見つかって襲撃され、あえなく噛み殺された。

 洲本の人たちが、芝右衛門がいつまでも帰ってこなくて心配していたところに、「大阪の芝居小屋に大狸が出て、犬に殺された」と噂が流れてきた。
 そんな狸は芝右衛門しかおらんと皆が悲しみ、誰がともなく三熊山にお社を立てて祀ることになり、それから洲本では狸の置物が土産物の名物になった。

 また、芝右衛門が通った芝居小屋が道頓堀の中座だった。
 芝右衛門を殺してしまってからは急に客入りが悪くなり、奈落に狸大明神を祀ったら人気を回復して、それ以来、多くの役者や芸人に信仰されている。
 洲本城のこのお社にも、藤山寛美の名前があった。

 

八王子神社

f:id:mubouan:20170815150941j:plain

f:id:mubouan:20170815151018j:plain

 十二支を祀るお社を通って、巨岩を祀る八王子社。なんだか、本丸のある土台部をまるごと祀ってるかのような向きでもある。

 八王子神社に向けての登山道もあり、ここから麓に降りることもできたようだ。
 私は東の丸の方へ行って、大浜公園方面へ下りていくルートを使った。

 

 三熊山を降りると、海水浴場が終わる午後5時が近づいていた。

f:id:mubouan:20170815152931j:plain

 港の方で釣りをやっている友人に合流し、釣りをする姿を見物。
 私には魚はわからないが、こんな青いのを釣り上げていた。(持って帰れないのでキャッチアンドリリース

f:id:mubouan:20170815152750j:plain

 ちょうど、関空から洲本に来ているジェノバラインの船が通りかかった。そのうちこっちに乗る機会もあるだろうか?
 関空からくる外国人観光客を淡路島に誘導したい、ということだったが、どうだろう。

 

 洲本を歩いた感じでは、やはりしばらく観光航路が切れてしまっていたせいだろうか、洲本港から徒歩圏で楽しめる観光スポットが足りない感じだった。
 洲本温泉とか大浜の海水浴場も、温泉と海ではちょっと古いかな。昭和のレジャーになっちゃう。
 洲本市の観光、と検索して、由良城とか立川水仙郷、モンキーセンターなどいくつか情報はあったものの、到底エンジンなしでは到達できない。

 

 

 とりあえず7時10分発の船を待つ間に晩飯を、と思ったものの、昼食べた「多幸花」はしまっている。「御食国」はまあずっと満席だろう。イオンのマクドナルドじゃ寂しい。
 一応港のビルに食堂があったようだけど、夕方6時頃には店じまいモードだった。

 せめて昼食夕食は、港のそばである程度選んで食べられるくらいにはなってほしいな。港の客が増えたらそうなっていくだろうか。
 海の幸はいいに決まってるのだから、手の届くところにあってほしいな。まあ、いきなり復活した客船にいきなり対応もできなかろうけど。

 今回の我々は、港近くのスーパーマルナカで弁当を買って、海を眺めながら食べることにしてみたものの、あまりデリカテッセンや店内調理の弁当などが充実しているタイプではなかった。

 

 まあ、食べるのに困ったのは確かだけれど、連絡船のお陰で洲本は、遠すぎて困るほど遠くもなく、近すぎて物足りないほど近くもない、行き頃の場所になった。
 深日港ともども、これから色々改善されていくのを期待しよう。