堺風の頭部

徘徊、カメラ、PC、その他。

夏に暑苦しい歌なんて

今週のお題「私の『夏うた』」

 

 体が大きい動物の方が寒さに強いもので、同じ動物でも北の方に生息する個体ほど体が大きかったりするものです。
 外気に触れて身体の熱が奪われるのは、身体の表面からです。体積は三次元、表面積は二次元なので、体積の大きさに対する表面積の広さは、体積が大きくなるほど小さくなります。よって、寒くてもあまり体の熱が逃げない。

 私は80キロ超級の大男なので、日本人としてはかなり大きい部類です。
 おかげで、冬場は暖房なしで過ごします。もちろん、東北などの寒い土地に住んでいたらそうもいかないでしょうが、大阪や東京の沿岸部、奈良の盆地内では大丈夫でした。

 私が寒さに強いことは、科学的根拠においても、実践においても明らかに証明されたわけですが、寒さに強ければ暑さには弱いのが理の当然というものです。

 夏はもうダメですね。オーバーヒートする。
 太陽を撃墜したくなりますが、ちょっと恒星は敵として強大すぎて手が出ません。ありったけのロケットエンジンをつけて地球の軌道をずらすほうがまだマシそうですが、惑星をずらす程度の権力すら手に入れられない。
 何か大爆発させて粉塵で地球を覆うのが合理的でしょうかね。火山とか。

 

 科学的にいって夏がダメな私は、当然、夏らしいもの、夏っぽいものも苦手になるんです。
 まあ、風鈴のような清涼なものはいいとして、このクソ暑いのにわざわざ見るからに暑苦しいものを持ち出すのか、と。

 自分で選ぶものなら避けて通るんですが、ここで厄介なのが音楽、歌で、街を歩いていたら耳に入ったりする。

 夏の日、湿度高くて蒸し暑いこの日本で、どうにかならんのかと思いながら歩いているときに、サザンオールスターズなんか聞こえてきたらもう。
 もちろんTUBEも「なにがあー夏休みだこの野郎気温上げるな」と思うんですけれど、サザンの場合は湿度まで上がる感じでより辛い。
 見た目も声も歌い方も歌詞も、全てがこの蒸し暑く鬱陶しい日本の夏を見事に体現しているサザンオールスターズ桑田佳祐を、日本を代表する夏シンガーとして認めた上で、夏と一緒に全力で敬遠しているのです。

 

 やっぱりね、夏には中島みゆきを聞くべきではないでしょうかね。涼しくなる。

 もちろん冬は中島みゆきを聞くべきなのは言うまでもなく、秋の物悲しさもまた中島みゆきのシーズンなのは疑いなく、出会いと別れの季節である春も中島みゆきのカバー範囲。

 中島みゆきに「夏うた」と呼べるようなものがあるかと?
 タイトルに夏が入るのは、「夏土産」に「あたいの夏休み」、それと「過ぎゆく夏」。どれも、聞けば聞くほど涼しくなる。

 

 しかしまあ、中島みゆきの歌には、聞いていると「これは夏の歌じゃないか」と思えるものが少なくない。

 アルバムでいえば、「予感」なんて不思議と夏らしさがある。
 もちろん、「夏土産」と、それから夏祭りの歌である「金魚」も収録されているから、というのはありますが。

 「ばいばいどくおぶざべい」は、夏なんて一言も言わないけど、なんとなく夏な気がする。
 ギターが弾けなくなったシンガーが店を放り出されることになって、今日は最後にDock of the Bayを歌っていく、なんて歌だけれど、なにせ中島みゆきは北海道のひと。
 誰かを店から街に放り捨てるとして、それが北海道の冬の夜なら、命に直結してしまう。悲しさとか寂しさとかカタルシスとかいってる場合じゃなくなってしまうのでは。

 いや、くだらない説のようだけど、逆に、中島みゆきが冬を歌う時は、しばしば恐ろしいものとして歌うことも踏まえると。
 「北の国の習い」なんて、下手に北海道の冬に手を出したら、車が吹き溜まりにハマって死ぬ、とかモロにいう。
 「吹雪」とか「ツンドラ・バード」とか、冬や雪に恐ろしいものをなぞらえた歌もある。
 「雪」は死別の歌。

 そして逆説的に、北の国の冬の強大な酷薄さの前には、今それどころじゃないだろうとか、いくらなんでもこの季節にそんな冷たいことは、といった遠慮や優しさのようなものが、人の心に生まれてしまうのではないか。
 だから、そのタガが外れる夏にこそ、人は人に冷たくなれる。
 何故か夏っぽい中島みゆきの歌は、そういうところから来ているのかも。

 

 しかしまあ、我々信者にとって中島みゆきは女神、その歌は信託であるから、その意味を勝手に読み解こうと企てるのは、神の心を知ろうとする思い上がった行為であった。
 信者は神の詩をただ聴くのみである。