堺風の頭部

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話や変化のタイミングの話

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 三月場所の千秋楽、ほんとにもう、ものすごいドラマティックな結末だったなあ。

 私は照ノ富士の方が好きなもんで、もちろん稀勢の里嫌いだなんてことはまったくないんだけど、やっぱり照ノ富士の方を見てはいた。
 いくら苦手ったって、腕一本使えない、昨日の鶴竜戦でもやっぱり相撲にならなかった稀勢の里に、まだ膝は悪いだろうけどやっと調子を戻してきてるらしい照ノ富士なら、勝ちはするんだろうと。
 でも勝ったところで、昨日の立ち会い変化で叩かれてたところに、稀勢の里の不運に恵まれての優勝だと良くは言われない、そんなのが嫌だなあ、と心配してたくらいで。

 それが、ねえ。
 あの口のきつい解説の北の富士さんが、「負けても仕方ない」とか「怪我悪くしないように」なんてこといってて、観客も多分そう思ってた人が多かろうところで、二番続けて勝ってしまうんだもん。
 見てる方の心配とか、あるいは「私は照ノ富士が好き」とか、そういうこと全部吹き飛ばして、稀勢の里すごいとしか言いようがないじゃないの。

 

 で、その日の晩に見たのが、冒頭に貼った記事だった。

 

 いやさー、たしかに、一月場所の稀勢の里優勝に「日本出身力士の」なんて騒ぎまくって、「日本人」じゃなくて「出身」なのは帰化してから優勝した旭天鵬を外すための表現、って、そういうのは確かにあんまり品の良くないナショナリズムだとは思う。
 この騒ぎ方をしてたのがファンなのかNHKなのか、後者な気もするけど、それはともかく、こういうのを批判する人はあってほしいとは思う。

 ただ、今日、怪我を押して出た稀勢の里が、二番続けて照ノ富士を下して優勝してみせたあの直後に、「日本人がモンゴル人を下したから嬉しい」なんて喜び方してる人、そんなにいるかなあ。いや、ゼロではないだろうけれど。
 でもあの相撲見た直後は、もうほとんどの人はただ「稀勢の里すごい、やった」というだけじゃないかな。私も勝手に決めてるだけではあるけれども。それ以外の反応見えんかった。
 日本生まれの日本人だから稀勢の里をつい贔屓する、その「静かなナショナリズム」というのも、あるかないかといったらあるだろうけど、この千秋楽の日に噴き上がって表に出たとか、そういうようには思えん。

 

 変なナショナリズム出てるなあ、とは、私も相撲見てて思うことはちょくちょくある。ナショナリズムがあること自体は当たり前のことだしそんなに悪いとも思わないけれど、その出し方が下品だったら嫌だ。
 だから、十四日目に照ノ富士琴奨菊に変化で勝った時のブーイングの中で、「モンゴルに帰れ」とかそういう類のことを言った奴とか、そういう悪質に表出したナショナリズムを批判してほしい。
 稀勢の里の劇的な優勝に向けてナショナリズム批判したって、どうにも場違い感しか覚えられない。 

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(追記: この記事には当初、見出しに「モンゴルに帰れ」というフレーズがあったが、後日お詫びが出て修正された)

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 そういえばこの、十四日目の照ノ富士の変化にブーイングが飛んだのも、同じような場違い感のせいじゃなかろうか。


 力士は全力で勝ちを目指すのが当たり前だし、変化に落ちてしまった琴奨菊はどういったって黒星だ。間違ってはいない。

 一方で、ブーイングが起こるのも、わからんとは言えない。
 優勝を争っている稀勢の里も、出場したのが驚きというくらいで、勝ち星を上げるとは思えなかった。多分黒星ふたつ追加で十二勝三敗で終わる、頼むから怪我の悪化はやめてくれ、って感じで。
 そうすると、別に照ノ富士琴奨菊に負けたって、次の千秋楽で傷ついた稀勢の里に勝って優勝だ。そういう雰囲気確かにあったでしょ。「今場所は照ノ富士優勝で仕方ない、稀勢の里はなんとか怪我の悪化だけは」って。
 するとこの琴奨菊戦、別に必勝を期して臨む取り組みではないように、私ら見てるだけの身には思えていたわけよね。

 それで変化してまで勝ちに行ったもんだから、なんとも場違いというか場面違いというか、「えー……」って。
 これで琴奨菊大関復帰は潰えてしまったし、琴奨菊ファンなら反射的にブーイングしてしまう気持ちもわかる。
 しかも次の取り組みで、予想通りに稀勢の里が力なく鶴竜に負けた。やっぱりもう稀勢の里は相撲できる状態じゃない、となると、じゃあ照ノ富士のあれはやっぱり必要ないじゃないか、となっちゃう。

 「モンゴルに帰れ」は内容が論外だけど、「そこでそんな勝ち方しなくていいだろ」といった意味合いのブーイングなら、わからん話じゃなかった。
 大関が関脇に、一敗が五敗に、っていう変化はやっぱりね。
 私は照ノ富士好きだから贔屓目で、ここまでみんな驚愕するくらい変化が予想できない場面を見抜いて、あるいは作って、外してたら終わるような思い切った変化で決めたのは、照ノ富士のすべて読みきった頭の良さが成したことだと言いたいけれど。

  しかし、「稀勢の里は怪我でもう勝てない」という仮定がなければ、琴奨菊には必勝ではない、なんて想定は導き出されない。
 星の上ではまだ五分だし、前日の鶴竜戦で照ノ富士もまた膝が怪しくなっちゃってた。見てる方が思ってたほど安泰には、当人は思えなかったんじゃないかな。
 「稀勢の里は出てきたからには戦えるんだろう」と考えれば、照ノ富士琴奨菊に負けたら優勝の目が大幅に薄くなってしまっていた。
 照ノ富士稀勢の里への警戒を緩めていなかった、だからこそ琴奨菊に必死で勝った。そして千秋楽で稀勢の里は実際戦えたんだから、照ノ富士の見込みが正しかった。ということにならんだろうか。

 照ノ富士好きな私としては、稀勢の里の優勝をもって、照ノ富士の名誉も回復されてほしいな。

 

 上の記事のナショナリズム批判と照ノ富士の変化、どちらにも、間違ったことではなくても、状況とタイミングで真意が伝わらずに非難を浴びてしまう、という点で、通じるところがあるように思われた。

 まあ照ノ富士にとっては、あの時彼がどう考えてああしたかが伝わるかどうかより、星を取って優勝に近づくことのほうが大事だ。
 でも言論は、人の心や考えを動かせなきゃ仕方ないんだから、何考えて今そんなこと言い出すんだ、と思われてしまうのは、目的に適わない。そこは大きく違うけれど。

 過剰な日本出身押しとか、モンゴルに帰れなんて暴言とか、そういうことは批判されるべきだし、ついそんなこと言っちゃう人を作る空気はあるとは私も思う。記事で言う静かなナショナリズムはこれと思う。
 でもそれを言うべきタイミングがあったよね。今は伝わらない。