三重に用事があったついでに、帰りに寄り道して伊勢神戸から加佐登神社へと行ってみた。
しばしば伊勢神戸と伊賀神戸を間違えるのだが、この記事では伊勢神戸が正しいので、伊賀と書いてたらそれは間違い。今回は伊賀神戸には行ってない。
乗ったことがなかった近鉄鈴鹿線を乗りつぶしがてら、伊勢若松駅で乗り換え。途中の鈴鹿市駅で下車。
駅からまず寄れるようなところは、と地図を眺めると、神戸別院があった。
しかしそれほど大きなお寺というわけではないように見えた。本願寺派の別院は大きいところが多いように思うけど、こちらは高田派、専修寺の別院だった。
といっても、見ての通り、明治天皇の行在所になったこともあるくらいだから歴史もあって由緒も正しいんだろう。
全然知らなかったけれど、真宗高田派というのもなかなか波乱の宗派らしい。今度調べてみようかな。
駅前から旧伊勢街道が通っていて、町並みは懐かしい感じ。江戸時代からの姿、というよりは昭和っぽい気がする。
旧街道はさすがに道が狭くて、再開発の行われるエリアとも少し外れているらしい。変に税金投入されたハコモノとか、実効性の疑わしい町おこしネタとかが見当たらず、静かに古くなっていっている。前に住んだ大和高田の雰囲気にちょっと似てるかも。
地酒でもないかなあ、と入ってみたけど、あいにく地元の方相手の商売のお店らしく、日本酒はみな一升瓶。ちょっと持ち帰りが難しくて何も買えなかったのだけど、お城を見に行くと行ったら親切に道案内してもらえた。
神戸城は、神戸高校に隣接している。
高校に、旧制中学時代の古い校門が保存されているのを眺めたりして、ぶらぶら歩いていくと、いきなりこんな見事な石垣から。
ウィキペに古い城郭図があるが、今の地図と見比べると、残っているのは本丸と千畳敷あたりだけ、二の丸から三の丸にかけては堀も埋め立てて神戸高校になっているようだ。
本丸はわずかに1メートルほど高かったが、平山城というレベルでもない平城。
この石垣は天守台のもので、見ての通りのこの荒っぽい野面積み。神戸(織田)信孝が建てた天守台のものだというから、この感じなら当時モノだろうと思う。
それから、勤王烈士の吉川治太夫忠魂碑があった。(二枚目のが本体なのか、一枚目が本体で二枚目は別物か、ちょっと写真からはっきりしないが)
大阪の河内長野に神戸藩の飛び地があって、吉川治太夫はそこの代官やってたのだけど、土地の庄屋が天誅組に加担したもんだから、代官としてスルーもできず金銭を提供してしまった。その後、天誅組が朝敵にされ、協力者だと咎められて結局自害する憂き目。
神戸藩も巻き込まれたくないから、一度は切り捨てにかかって吉川家断絶させようとしたが、さすがに酷すぎるので思いとどまったそう。
この碑は、神戸藩の詫びの印みたいなもんであろうか。
あらためて天守台。石垣から石段まで一体になった造形が萌える。堀の石垣じゃなくて天守台のだから、触って登れる距離感もよい。
天守台の上は、東屋と、神戸城址天守台の記念碑。かつては木が立っていたようだけど。
まわりをロープで囲ってたような形跡はあるのだけど、ロープはなく杭も一部抜け落ちている。まあ、誰かが落ちて問題になるまでこのままだろう。観光地らしくなっちゃうとこうはいかない。
天守台はさほど広いものでもないが、織田信孝の頃は五重の、金箔瓦も使った派手なものを建てたそう。後に桑名城に移されて、それからはもうこの天守台しか残っていない。
本丸南側には土塁らしいものも残っていて、登って向こうを見ると堀が見える。
本丸を西側に抜ける通路から、本丸を見上げる。この玉石垣みたいなのはなんだろう。なんとなく、そんなに古いもんではないような気がするけど。
堀は、本来はもっと広いのかな、と図からは見える。元々は本丸から西へは抜けられず、北の千畳敷から迂回する。
本丸の北が二の丸、東~南~西と馬蹄形に囲んでいたのが三の丸。三の丸東側は神戸高校に飲み込まれているが、南と西は公園として残っている。
公園の方は小綺麗な整備で、アートに遊具に健康体操器具に、といった感じ。
城から駅の方に戻ると、どうもこのあたりは寺町らしく、大小さまざまなお寺が無数にある。
中でも大きいのが、天澤山龍光寺。臨済宗の寺で、称光天皇の勅命で、伊勢国司北畠満雅を開基に、普請奉行に神戸實重を任じて開かせた。
徳川家康の父・松平広忠が子供の頃、同族の松平信定との争いで三河を逃れ、この龍光寺に仮住まいしてたことがあるそう。それで徳川家と強い縁ができた。
また戦国時代に一度焼けたが、後奈良天皇の勅命で再興され、臨済宗総本山の南禅寺と同格と位置づけた。
さらに秀吉と親しい住職(二十代六世江庵玄澄)もあって、天皇家にも徳川家にも豊臣家にも贔屓されてりゃそりゃ大きくもなろう。今でもそれぞれの書状が多数残っているとか。
お堂の中にも参拝できたが、さすがに中を撮影する気はなかったので写真なし。
興味深かったのは、和尚さんと横綱・大鵬が友人だったそうで、お堂の一部に縁の品や写真を展示していた。
また、茶道珠光流がここに伝えられているそう。京都に伝わってたのが明治以後には朝鮮に入植していた日本人に広まり、そして龍光寺の和尚に伝えられて日本に戻ったとのこと。
なかなかの楼門もある。
隣接して、神戸総社といわれる神社がある。神舘飯野高市本多神社、というなんだかものすごい名前が正式名称らしいのだけど、まあ額などを見てもこれは四社を合祀してその名前になったんだろう。
神戸町の道路元標も駅近くにあった。
しかし大正時代に作られた道路元標は左下の低いやつのはずで、このやたら長い元標はなんだろう。
そして駅に戻り、鈴鹿線を端っこの平田町まで。
ローカル線の常、広告ラッピング車両。
平田町駅前は意外と賑やか、鈴鹿市駅前のようなレトロなのどかさはない。鈴鹿市駅の周りは旧市街地で今の幹線道路から離れているのに対して、平田町駅前はすぐ目の前が県道54号だからだろう。そしてちょっと歩くと巨大なイオンモールとイオンタウンがある。
イオンモール近くの交差点まで行って、北へ折れて鈴鹿高校の方へ。下校してくる高校生が、連れ立って道沿いのカードゲーム屋へ寄っていた。
鈴鹿川を渡る。
鈴鹿山脈はよく意識するけれど、鈴鹿川か。東海道通るとずっと脇を流れてる川ではあるけれど、意外なほどに気にしない。近鉄特急で一瞬にして、しかもあまり意識しない場所(楠-北楠駅間)で横切るが、それ以外だと渡ることもあまりない。
渡った向こうは、かつての東海道宿場町だった庄野宿。
ふたつ先の関宿なんて賑やかなものだけど、庄野宿となると何も知らないし、これといったエピソードも思い当たらない。
庄野宿資料館に、と思ったら、午後4時で閉館。到着は4時2分。ガッデム!(これはもちろん、庄野宿と蝶野正洋をかけたガッデムであって)
何も知らないまま訪れた庄野宿は、何も知らないまま通り過ぎることになってしまった。
近くの案内板によると、東海道五十三次の中で最後に開かれた宿場だそう。今でも鈴鹿川対岸も庄野という地名だけど、元々対岸にあった集落を東海道に移して開かれたようだ。
加佐登駅方面に歩いていくと、宿場の端を示すらしい碑。看板では、歌川広重の「庄野の白雨」は傑作と名高い、とアピールしていた。
庄野宿について得られた情報は以上。もう少し知りたかったが。
もうちょっと北に行くと、関西本線の加佐登駅につく。
帰ろうかと思ってたのだけど、さっき4時だったのに次の亀山方面列車は5時過ぎときたもんだ。
地図を見ると、北に加佐登神社と、白鳥塚というのがあるので、あっと思ってそちらに歩いていくことにした。
結構距離もあるし上り坂、脚も疲れ気味だが頑張る。
ちょっと開けた所から森に包まれた丘が見え、そこが加佐登神社。森深い参道を登っていく。
鳥居というのは、細かく見始めると無数にバリエーションがあるものだけど、これは一見素朴な神明鳥居に近い古い形式かなあ、と思いきや、笠木がちょっと反りがあり端も斜めに切ってあり、柱もちょっと角度つけてる。
でもって加佐登神社。祭神は大和武尊と、天照大神ほか14柱が明治41年に合祀されている。
景行天皇が行在所を作ったこともある。
で、この裏手に白鳥塚がある。
一回りして白鳥塚古墳。
ヤマトタケルが東征にいった帰り、伊吹山の神にやられ、なんとか大和を目指すも途中の能褒野の地で倒れた。后や皇子が駆けつけて陵墓を作って祀ると、ヤマトタケルは八尋の白鳥に姿を変えて大和から河内へと飛び、そして天に上っていった。
ここに、ヤマトタケルが最後に持っていた笠と杖を祀ったのが、加佐登神社のはじまり。かつては三笠殿社と呼ばれていたそうで、カサドノの神社から加佐登神社になっていったんだろう。
能褒野の陵の正確な場所は失伝していて、明治9年には、こことほか二箇所、伝説があるところを教部省が指定したのだけど、わずか3年後に宮内庁が、別の古墳を能褒野王塚古墳に比定してしまった。
宮内庁が指定した能褒野王塚古墳は全長90メートルの前方後円墳で、このあたりでは特に大きい古墳だったが、特にこれがヤマトタケルの陵墓だという伝承もなかった。さて。
まあ、あんまり掘ってもヤマトタケルが実在するのかという話から疑問になってしまうのだけど。
ともあれ今回行った白鳥塚古墳も、三重県内では最大の円墳とされていて、なかなかに立派なものでもある。
最近発掘調査を行ったら、円墳じゃなくて、小さいながらも前方部がある帆立貝式前方後円墳だとわかったそう。
参拝を済ませて山を下りてくると、ちょうど一時間経って列車が来るところ。
ここから亀山を経て大阪へ。